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対談『じいちゃんの子供時代』

22 1月

記録したいあの頃の子どもたち
  私たちの子供時代は、敗戦後の最も貧しい時期だった。しかし、子どもたちの心は決して貧しくはなかった。そのことを何らかの形で次の世代に残しておきたいと思っていた。

  自分の子どもが小さかった頃は、『お父さんの子供時代』として、自分の子供時代のことを記録しておきたかった。しかし、生活に追われてそれができなかった。そして、かなりの時間が経過してしまった。

  そのうちに、孫が5人になった。今残さなければもう記録不可能だろうと思った。そこで、先ず手始めに、私たちと同時代を過ごした2歳年上のTさんと子供時代のことを語った。ICレコー〇ダーには3時間半ほどの記録が残った。

  そのうちの10分あまりを文字化し、挿絵を付けて『かたせ瓦版』に掲載する予定だ。本当は遊びの写真があるとよいのだが、その頃は誰も写真に撮らなかったので、絵で描くしかなかった。

  文字ばかりの瓦版は誰も読まないだろうと思って、挿絵を付けたのだ。今、その頃を振り返ると、一番よかったのだ、その頃、子どもの前には「モノがほとんどなかった」ということだ。

一本のスキーにたくさんの子どもが乗って、急な坂を下りればスリル満点。。そのうち、転倒、爆笑!!

  逆に言えば、子どもが創意工夫をこらす場面が無限にあったのだ。「なけれ場つくる」という考えはこの頃身についたものだと思う。誰かが自宅から兵隊さんのスキーを持ち出してくれば、それで何人もの子どもたちがかなり長期間遊ぶことができたのだ。

  なければ創意工夫を凝らして作ればよい。之は当時の子どもなら、当たり前の発想だった。その当時作ったものの一つに「ハンドル付きのソリ」がある。これを使えば、は村の中の狭くて曲がったコースを難なく滑ることができた。

  今でも、保存してあるが、片瀬オリジナルだと思っている。作れと言われたら、何も見なくても作れるだろう。竹を割ってソリの裏へ張り付けるのだ。曲げるためには少し工夫がいるがそれもクリアーできる。

  今、日本各地で学力向上に血眼になっている。しかし、それは車で行ったら片方の車輪だ。もう片方の車輪は、“なければ作ろう」という精神だ。社会へ出たら、学者にでもならない限り、後者の方がはるかに有用だと思っている。いや、学者になっても必要だろう。

(日記 終日、明後日発行の『かたせ瓦版』の編集作業。A4で4ページ必要だが、ようやく3ページ完成した。食事以外は、ずっとパソコンの前にいたので、体が固まってしまいそうだ。足が退化しそうだ。)

 
 

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