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大人になるための学校

13 12月

大人になるために必要な単位とは
  毎日ご飯を食べ、学校へ通っていれば大人になれるのだろうか。それでも大人になることができる人もいれば大人になれない人もいるように思う。まして、親となるともう一つ難しいかもしれない。

  大人の定義となると難しい。法律的には20歳を過ぎると「大人」ということになるようだが、実際には、大人かどうか頭をかしげたくなる人も少なくない。ここでは難しい定義は別として、せめて社会人としての常識だけは身に付けておいてほしいと思う。

  ここ最近、TPO(これは和製英語らしい)に問題のある大人に出くわすことが多い。T(=Time :時間)、P(=Place:場所)、O(=Occasion:場合)すなわち、「時と場所、場合に応じた方法・態度・服装等の使い分け」のできない大人が多いのだ。

  空気を読めないのもTPOに問題があるのだろう。こうした常識的な面だけではなく、大人としてなすべき義務や責任などについても、どこかできっちりと身に付けておいてほしいものだ。

  昔は、大人になるためには、祖父母や両親が最も身近な教師であり、地域の大人や先輩達もまた教師の役割を果たしていた。地域が大人への学校だったのだ。ところが、今はどうだろうかか、先人から伝えられることは激減したように思う。

  実際私自身も、ずいぶん祖父母や両親、近所の大人や先輩達からいろんなことを教わった。職場へ入った当時は先輩達からある時は厳しく、ある時は優しくいろんなことを教わった。

  今の子どもが高齢者を見る目と、昔の子どもが当時の高齢者を見る目は全く違うように思う。昔は、高齢者は知恵を持った人であると思われていたが、今はそうした尊敬の念もかなり薄れてしまったように思う。

  それは、地域社会では大人の側から子どもたちに教える技術などが不要になってしまったからだ。どんなものでも金さえ出せれば簡単に手に入れられる時代になったからだ。
 
  特に、情報化時代になり、そうした技術は逆に若い者の方が強く、会社でも上司の方が弱いという現実がある。また、知識や能率、利益が優先される世の中になったしまったことも世の中が変質した理由の一つだろう。

  知識のある者があたかも優れているかのように扱われる時代になってしまった。したがって、大人になりきれない大人が世の中にはびこるようになった。このままでは、知識は持続可能であろうが、社会が持続不可能になろうとしているように思う。

(日記 今日は年末の整理整頓や掃除を止めて、終日紙芝居づくり。途中で、瓦版をコピーし、市の広報誌と共に班長に配った。ほっとした瞬間だ。夜は、今日も、12時近くまで紙芝居づくりが続くだろう。)

 
 

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