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“give & take”と“give & will be given”

11 12月

自己中心か協調か
  最近、自己中心的な人が増えたと思う。「自分さえよければよい」という風潮が以前より強くなったように思う。それは生活スタイルの変化から来ているのかもしれない。

  かつて、特に、小さな農家は自分だけでは米作りの全てをすることができなかった。大きな田んぼへ一人で入り、田植えをしたり稲刈りをしたりしているのではなかなか能率が上がらなかった。

  そこで、互いに協力し合う「結(ゆい。私たちの地区では“い”と言っていた)」による農作業が盛んに行われていた。お互いに手伝いしながら、作業を進めてきたのだ。また、農耕馬や臼スリ機なども小さな規模の農家は仲間で購入して使うことが多かった。

  風呂さえも、お互いが手間と燃料を省くために、隣近所へもらい風呂に出かけたり、来てもらったりしたものだ。そのうちに個人が豊かになると、機械なども自分で持つようになった。お互いに作業を助け合うことも少なくなった。

  結婚式などでご馳走をいただくと「おすそわけ」と言って、隣近所へ配ったものだ。せっかくのご馳走が隣近所へ配ることによって減ってしまったが、その分、隣近所から思いがけないときにご馳走をいただくこともあった。

 何はともあれ、隣近所が協力し合うことによって地域は成り立っていたのだ。しかし、今は、何でも自力でやれるような時代になった。他人の世話にならずとも自分の家であらゆることが完結するようになった(と勘違いしている人が多くなった)。

  あたかも生活が豊かになったかのように思うが、必ずしもそうではないだろう。というのは、かつてはなかったいろんなことが問題になり始めたからだ。孤食(たった一人で食事を取る)、孤独死、過疎化……などの言葉はかつてはなかった。

  大型店の進出などで、いなかでは小売店が経済的に成り立たなくなった。仕事を求めて、あるいは、さらなる豊かさを求めて若者達の多くが都会へ出た結果、地方では少子高齢化が急速に進んだ。

  勝山市内のどこを見ても、高齢者の一人暮らし、二人暮らしがどんどん増えている。5年、10年……と経過すれば、集落そのものも持続が危ぶまれている。寂しい高齢化社会が近づいている。

  高齢者のこのような状況は全て自分の将来の姿であることを自覚し、今のうちから誰もが自己中心の生活スタイルを、少しは他人を思いやるライフスタイルに変えていかなければ人生の終盤戦は悲しいものになるのではなかろうか。

  こうした風潮の改める鍵は、大人が持っており、改めて行くには子どもたちを含めた住民一人一人が一度自分の将来、地区の将来、地域の将来について考えてみる必要がありそうだ。

  私は、“give & take” という言葉はあまり好きではない。与えた分だけ取るというイメージがあるからだ。自己中心のイメージが少し残っているように思う。他人に「与えた分」だけ、他人から「もぎ取る」というのは打算的な響きがある。

 それよりも、“give & will be given”(と言うかどうか知らないが)の方を支持したい。他人に与えなさい。他人のために尽くしなさい。そうすれば、いつか他人からも与えられるかもしれない、場合によっては与えられないかもしれない。

  他人のために尽くすことは、それ自体が自分の満足感につながるように思う。他人から与えられるかどうかは、この際自分から問題にしないでおきたいものだ。大切なことは人と人との絆だと思うからだ。

(日記 午前中は、年末の大掃除で物置中心に整理。特に、衣料はまだまだ使えるので捨てがたい。わずかな上着などしか捨てられなかった。整理はできたと思うが。午後は、紙芝居制作作業。選挙公報が我が家へ届いた。各班長に配った。国民の選択はどうなるのだろうか。いろんな小党が合併したり、乱立し、何となく制作が見えにくくなった。選挙が終わると、思いがけない行動に出るのだろうか。国民を置き去りにしないようにしてもらいたい。)

 
 

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