「あなたにふるさとはありますか?」と問われたら
最近、「ふるさと」という言葉をよく聞く。宅に昨年の3.11以来至る所でこの言葉を耳にした。今、仲間とオカリナを練習しているが、ここでも「ふるさと」を演奏している。「ふるさと」という言葉は独特の響きを持っている。しかし、その「ふるさと」が少しずつ消えていくような気がしてならない。
人は、どこに生まれるかを選ぶことはできない。日本には、山奥もあれば、平地もあり、海辺もある。人の多いところがあるかと思えば、人の少ないところもある。かつては、生まれた場所で育ち、学び、生まれた場所で働き、そこで家庭を持ったのものである。
そして、周囲の人たちや周囲の環境に大きく影響を受けて、成長したのである。そうした中で、生活を彩る様々なイベントがあった。そして、それらを楽しみに働いてきたのではなかろうか。
人と人との関わりは、ときには面倒くさいこともあろうが、助け合いや教え合いがあり、人間関係の暖かさもあったのではなかろうか。また、農家の場合には家族と共に働く機会があり、働く厳しさと働く楽しさを味わいながら成長したような気がする。
しかし、文明が発達するにつれて、様々な「モノ」が産み出され、それらを手に入れることが豊かさのシンボルのようになっていったのである。「モノ」を手に入れるために、働かなければならない。
その働き方も、地域の人たちが助け合う、農業や漁業ではなく、ふるさとを出て、町や都会で働くことが多くなり、地域は寂れる一方になった。子どもたちも、学業や習い事に追われ、地域を「ふるさと」と感じる余裕がなくなってしまった。
村部には、大きな家や田畑が残っているが、そこに住んでいるのは老夫婦である場合が少なくない。今後ますます少子高齢化が加速しそうだ。今日は、用事で村部の方へ出かけたが、今後、それらの地域を維持していくのは大変だろうなと思わずにはいられなかった。
結局のところ、鍵を握るのは子どもたちであると思うが、その子どもたちに大人達がどのような背中を見せるかが問題だ。家族以外の大人とどう関わるかが、生まれた地域が「ふるさと」になるかどうかの分かれ道だと思う。
また、我が家以外の場所でいかに過ごすかも、地域が「ふるさと」になるかどうかのポイントになろう。「あの祭りのある時に帰って仲間と一緒に楽しもう」、「自分が遊んだあの川で子どもたちを泳がせてやろう」、「いろんなことを教えてくれたり、叱ってくれたあの人に会いに行こう」……、そんな思い出がなければ、地域には、「我が家」はあっても「ふるさと」はないだろう。
(日記 午前中、部屋を片付けながら、自作(歌詞は別)民謡のCDづくり。ジャケットを作り、歌詞カードを作り、CDの盤面にも印刷した。家内は里芋を持って実家の平泉寺へ出かけだ。「洗い子」にするためだ。午後も部屋を片付けながらCDづくり。完成したCDを持って作詞をしてくださったTさん宅へ出向いた。一件落着。夜は里芋の「煮っ転がし」を食べた。7時過ぎに、Yくんが頼んでおいたノートパソコンの部品を持ってきてくれた。ついでに、ソフトを入力してくれた。感謝。)