機械が主で人が従
昨日、『農事組合法人かたせ』の理事長から、「明日麦播きに来てもらえんか」と依頼があった。個人的な用事しかない場合には、なるべく作業に出ることにしている。
午前8時に組合の農舎前へ行き、軽トラックに麦の種籾と肥料を積み込み今日作業をする田んぼへ出かけた。米作りは、作りたいだけ作るわけにはいかない。農地の一定の割合で米以外の作物を作らなければならない。
そばを植えたり、大麦を作ったり、野菜を作ったりしなければならないのだ。そこで、麦を植えるには、今年のうちに種を播き、来年収穫するのだ。今日は天候に恵まれて農作業にはもってこいの日だった。
作業は、トラクターに種籾と肥料を積んで耕しながら植えるオペレーター1人、小型のトラクターで溝切りをするオペレーター1人、そして、補助員が私と80歳ぐらいのMさんの計4人だ。
昔の作業と比べると、比較にならないほど機械化されている。昔は女性も男性に劣らずこうした作業においては活躍したが、今では男性中心の作業が多い。
私の役目は、溝切りを行った後の不都合な部分を小型のスコップや鍬で整えることだ。家庭菜園でも、鍬を使う仕事は重労働だ。今考えると、昔の人は偉かったと思う。機械がなくても、人力で多様な作業をこなしたのだ。
今の者には絶対できないと思う。昔の農業の経験者ならずいぶん作業が簡素化されたと思う。昔なら、田んぼを耕しながら、肥料をまき、種籾を播くなどということは同時にできることではなかった。しかし、今は一度にできるのだ。
米でも、麦でも、そばでもみんな機械だし、里芋を掘り穫るのも、機械だ。しかし、どの場合も、機械が上手くできない部分は人間が補うのだ。今では、機械が主で人が従になっている。
いずれにしても、機械化によって作業効率は比較にならないほどよくなった。今後もさらによくなるだろう。その分味気なくなったようにも思う。昔は、農作業は何をするにも家族そろってやったり、隣近所の者が協力してやったものだ。時代はどんどん変わっていく。これが進歩というものだろうか。
(日記 午前中、組合の麦播きの補助員を務めた。午後は、家内の属する食生活改善推進員の皆さんに花笠踊りをアレンジした踊りの指導。民謡は勝山のもので振り付けは他県のものを参考に新たな踊りを創作するのだ。来月初旬の地区の文化祭までに完成させたい。帰宅してからは、区長としての事務処理。)