どうして自分を生かすか?
私の持論だが、「人は誰でも、自分の存在を認められたい」と思っているのではなかろうか。現役時代は、年齢が上がるにつれて、それぞれの職場で重要なポストが与えられ、存在を認められていたのだ。
しかし、いざ退職すると、それまでの経験や、能力、技術などは生かされない場合がほとんどである。もはや部下もなく、せっかく身につけた知恵やノウハウが生かされず、ゴミとなってしまうのだ。
それでも、新たに自分を生かす場を見つけたり、それなりの役割を与えられた者はそれでもよいが、そうでないものはどうして自分の存在を他者にアピールするのだろうか。
私の経験では、そうした人達は、集会などで相手の非を責めたり、自分の考えに固執して持論を相手に強要したりすることが少なくない。敢えて嫌われるような言動を吐き、自分の存在感を示すのだ。
このような態度をとる人は少なくないが、嫌われるだけだ。これでは悲しい。本当なら、高齢者は知恵の宝庫であり、これらを生かす手はないのかを考えてみたい。特に、高齢者の知恵や技術を子ども達に伝えられたら最高である。
高齢者が自分の地域で、何かの先生になるのが私の理想である。そうすれば、無理に自分の存在をアピールする必要がない。高齢者が、子ども達にとって頼りになる先生になり、次世代を育てることに役立つことを自分も含めて期待したい。
私自身は、子ども達に何を伝えることができるかを考えながら、自分でできることをこつこつやっていきたいと考えている。そんな考えから、「子育てマイスター」を引き受けているが、私達夫婦には大きな生きがいになっている。
(日記 午前中は、区の広報誌『かたせ瓦版』作り。午後もしばらく作業を継続。その後、法人から借りているニンニクやタマネギの畑、里芋や生姜の畑を見て回った。タマネギも少し玉になろうとしていた。しばらくして、自分の家庭菜園へ向かった。今日の作業はキュウリや豆の支柱作りだ。家内はサツマイモの苗を植えた。イチゴが少し赤くなった。朝から、午後2時頃までずっとパソコンの前にいたので、外での作業はとても新鮮で気持ちがよかった。)