欲望の果てに
今の社会の有り様では限界はいずれ来るように思う。必要以上にモノを作り、必要以上にそれを買う。家はモノで溢れ、それらは使えるうちから粗大ゴミになるのだ。
この間、資源はどんどん浪費される。これを発展というのだろうか。いずれは限界に来るように思われる。どこかでこの連鎖を断ち切るとたちまち不景気になり、誰かが困るのだ。
だれかが莫大な利益を上げる一方で犠牲になる者も少なくないだろう。「モノ」で豊かさを求めるか、それとも、別の方法で豊かさを求めるかだ。
しかし、精神的な豊かさを求める人が多くなると、今の社会は成り立たないのではなかろうか。不必要なモノでも買いまくることによってしか、国民全体が生活できないのはどこかおかしい。
昭和時代よりも、遙かに物質的に恵まれた今の方が豊かになったと言えるだろうか。ある時期の我が家を例にとれば、いわゆる三種の神器と言われるテレビ・冷蔵庫・電気洗濯機の他に、クーラーや電話もなかった。
自転車が一台、ラジオが一台あるぐらいだった。普段は肉など滅多に食べない。おかずのほとんどは自家製の野菜だった。現金を持たなくても、何とかなったのではないか。
それに比べて、今は、成人の数だけ車・テレビ・電話を持ち、冷蔵庫も大型化し、食生活もタンパク質がずいぶん多くなった。
昔と今では、日々の生活費は比較にならない。車を持てば、日々の維持費、原価償却費の他に保険なども必要だ。電化製品の電気料もかなりのものになる。そのためには、夫婦で働かなければ生活は維持できない。
近くの山や川で遊び、囲炉裏を囲んで家族が過ごし、祭りや宗教的行事等には大人から子どもまでが関わった。いろんな事を教わったのは、親はもちろんのこと、先輩や村の大人達だった。
ゲーム機はなかったが、こうしていろんな遊びや技術を身につけてきた。この頃の方が今より豊かだったと思う。必ずしもモノが人の生活を豊かにするものではないということだ。
生活そのものも、薪をエネルギーにし、馬糞や人糞も肥料として使ってきたのだ。エネルギーの浪費は少なかったのではなかろうか。夜になれば町は暗くなるのが当たり前だった。
今は、宇宙から見ると真夜中でも日本列島が最も明るいそうだ。それでいて電力不足だとはどこかおかしい。夜が暗くても、人の幸せにそんなに影響しないのではないのか。
しかし、こうした無駄で生活が成り立っている人もいるのだろう。一概に悪いとは言えないが、改善の余地があるように思う。モノ以外にも豊かさがあることをみんなが知る必要があるように思う。
今の政権の有り様を考えると、私達は生活を他人任せにせず、自らの頭で考え、自ら行動しなければならないように思う。政治家一人を選ぶにしても。
このあたりのことを理解しているのは、ブータンの指導者かもしれない。ブータンに学ぶことはたくさんあるように思う。
(日記 午前中、水曜日に行う創作紙芝居の脚本清書。意外と時間がかかった。午後は、オカリナ教室の教材作り。編曲と楽譜作りと練習用CD作り。また、ハワイアンバンドとフラダンスのCD作り。午後7時半よりオカリナ教室。6月2日の大師山自然観察会でのオカリナ演奏の練習をした。大師山の頂上でオカリナを演奏するのだ。晴れれば気持ちがいいだろう。)