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あこがれていた東京で

03 11月

今は、「生活するなら田舎が一番」
   私は高校時代東京にあこがれていた。それは、高校時代、漫画家になりたいと思っていたからだ。小学校時代には、クラスに漫画の上手な同級生がいた。自分も絵を描くことは好きであった。 

  中学校になってからは、漫画の通信教育を受けるようになった。また、大阪の親戚の人が務める学校の卒業生に漫画家Y氏がいて、Y氏の指導を受けることになった。

「勝ち山ほがらか音頭」に加えた手ぬぐい踊り。

  しかし、漫画家受難の時で、当時の月刊雑誌のほとんどが、季刊雑誌になり、最終的に廃刊になってしまった。また、貸本漫画の店もなくなっていった。テレビの出現が漫画の世界を一変させたのである。このあたりの事情は、『ゲゲゲの女房』でもよく紹介されていた。

  その後漫画ブームがやってきたが、それは、私が社会人になってだいぶ経ってからのことだった。高校までは「漫画家になりたい、そのためにも東京へ出たい」と言うのが私の願いだった。

  特に晴れた日などは、「こんな田舎でくすぶっていていいのか。早く東京へ……。」と思ったものだ。その後、漫画家になる夢を胸の奥にしまっておいて、音楽に興味を持つようになった。大学では、軽音楽部に入り、音楽に夢中になった。

   今、私が夢にまで見ていた東京で、長男と次女が働いている。東京への夢は次の世代に引き継がれたことになる。今は、勝山にいることに何の不満もない。東京は遊びに出かける場所だと思っているからだ。

「勝ち山ほがらか音頭」に“手ぬぐい踊り”と“鍋ぶた踊り”を加え、最後はみんなで本来の踊り「ほがらか音頭」を踊る計画だ。

   今、私は、演歌を作っているが、ペンネームは「いなかもん」を使っている。周囲には改めた方がよいのではと言う者もいるが、私は“田舎者”に誇りと愛着を持っている。

   子ども達が、東京で頑張ってくれればそれでよいと思っている。しかし、田舎から中央に発信できればと思っている今日この頃である。漫画家になる夢は捨てても、漫画を捨てきれない自分である。

(日記 午前中、車庫の整理。その後、長女の和太鼓の個人練習に付き合った。午後も、車庫の整理。午後7時より「さわらび会(食生活改善推進員)」の踊りの練習に付き合った。50・60・70歳代の人で構成されている。猪野瀬公民館祭の演し物の練習のためだ。彼女たちのお陰で私の作った勝山の民謡が市内で広まっているところもある。「牛深はいや節」を参考に自作の勝山の民謡に新たな振り付けを加えたのだ。果たして、町の人たちに受けるだろうか。楽しみである。)

 
 

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