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Archive for 6月, 2011

終日孫の付き添い

10 6月

懐かしい愛育病院
  朝5時起床。私たち夫婦は急いで6時過ぎに愛育病院へ向けて出発。実は、長女の次男(1歳半)が緊急に入院したからだ。長女夫婦は、今日はどうしても仕事を休めないという。

  長男は、夫の実家にみてもらっているというので、急遽、私たちが一日子守りをすることになったのだ。孫は、柵で囲まれたベッドで点滴を受けている。しかし幼児なので、動き回るのだ。

  孫の守りというとせいぜい2,3時間だろうが、今日は、午前7時から午後8時までみることになった。狭い個室で孫と家内と3人でいると、本当に時間をもてあます。

  おもちゃも持ってきたが、すぐに飽きてしまう。あの手この手で時間を過ごすことにした。子守りは本当に大変だ。孫もストレスがたまっていることだろう。

 愛育病院というと、私達は自分の子育ての頃を思い出す。私の3人の子供は全て愛育病院にお世話になって生まれた。しかし、中でも、長男は幼児の頃には、よく病気になり1歳になるまで3回入院した。

  入院中、はしかにかかったりして大変だった。家内は務めていなかったので、つきっきりだったが、1歳上の長女を連れての入院だったので、苦労をしたと思う。

  私は学校勤務だったので、仕事が終わってしか、病院へ駆けつけることができなかった。子供が病気になると親は本当に困る。こんな時は、祖父母の出番だ。

  福井だからいいものの、もし遠方だったら、どうなるだろうか。病状によっては、遠くても、駆けつけなければならないだろう。

朝食をとる孫。家内が一口ずつ食べさせている(愛育病院にて)。

  子ども達は、忘れてしまっているだろうが、病気になると親は本当に困ったものだ。こんな時こそ、健康が一番だと思ってしまう。今日は、覚悟して、13時間以上病室にいることを決めた。

(日記:午前6時過ぎに自宅を出て、7時少し前から、終日愛育病院で、入院している長女の次男(孫)の付き添いをする。娘夫婦が病院へ現れたのは、午後8時半。帰宅したら9時を回っていた。子守りの途中で、白山についての本を読んだ。私はまだまだ平泉寺について何も知らないんだなあと思った。平泉寺については、知れば知るほど興味がわいてきた。)

 
 

全国レベルの平泉寺の存在

09 6月

常に中央の動きを察知
   来週の水曜日に実演する紙芝居『白山平泉寺物語』の制作の追い込みに入っている。紙芝居の制作に当たって、平泉寺に関係する人たちや関係する出来事、記述されている書物を調べてみると、どれもこれも全国級のものばかりである。

  たとえば、書物を見れば、かの有名な『平家物語』、『太平記』、『義経記』、『朝倉始末記』などんい平泉寺が登場する。どれを見ても、超一流の発行物である。全国誌に掲載されたということである。

 関係する人物などをあげると、比叡山延暦寺、平家・源氏、源義経、奥州藤原氏、後醍醐天皇、足利尊氏、斯波氏、新田義貞、豊臣秀吉、織田信長、朝倉氏、柴田氏、徳川家、加賀前田家、……これらの人たちと何らかの関係があったようである。

  また、日本の三名山の一つに数えられる白山との関係も特筆ものである。白山を開いたと言われる泰澄大師が平泉寺をつくりあげたからである。

紙芝居『白山平泉寺物語』に登場させる織田信長のイラスト。パソコンでタブレットを使って描いた。

 こうしたことを考えると、平泉寺は日本有数の宗教集団であったことが伺える。常に中央の情報をキャッチすることができる独自の情報網を持っていたのではなかろうか。また、中央の有力者も、平泉寺を無視することはできなかったのではなかろうか。

 また、平泉寺の焼き討ち以降、白山を巡って加賀藩と越前藩が常に争い、幕府の裁定を仰がなければ決着しなかったようである。特に、白山麓の領有権を巡っては決着がつかず、これらの地区を幕府直轄領としなければならなかったのである。

 いずれにしても、平泉寺を調べることは、常に、日本の歴史を調べることと同じであると、今回の紙芝居作りを通して痛感した次第である。

(日記:午前中、平泉寺ついて調べる。調

庭に咲いた一輪のバラの花。辺りが華やかになる。

べれば調べるほど疑問も出てきた。月曜日に、質問を一括して市の学芸員に教えていただくようお願いした。午後、法人から借りてる畝のショウガにマルチをまくってヌカをかぶせた。まだ、ほんの少ししか芽が出ていなかった。里芋はほとんど芽が出ていた。その後、自宅で育てている甘瓜と黒瓜の苗の植え替えを行い、さらに自分の家庭菜園で草取りや、耕耘作業を行った。帰宅してから、『白山平泉寺物語』に使う織田信長のイラストを描いた。この絵に背景をつけて、紙芝居に使うつもりである。)

 
 

久々の和太鼓練習

09 6月

「ふるさとの踊り大会」を盛り上げるために
  7月末に行われる「ふるさとの踊り大会」を少しでも盛り上げるために、直前に行われる「芸能発表」を魅力あるものにしたいと思っている。和太鼓もその一つではないかと思う。

  今日、久々に私の主宰する「越前勝山春駒太鼓」の練習を行った。全員、勝山高校で和太鼓を教えたことのある24歳の女性6人である。もう一人が参加するかもしれない。そして私と合わせて7人か8人で和太鼓チームを編成することになる。全員が社会人で、それぞれの仕事にがんばっている。勤務地も、3人が福井市であるために、帰宅も遅く、練習にも制限がある。

演奏する曲目の打ち合わせをする春駒太鼓のメンバー(私の事務所にて)。

  そして、彼女たちも、近い将来結婚したりしてそれぞれが忙しくなり、和太鼓を続けるのは困難になるであろう。何とか、彼女たちが頑張ってくれているうちに、原点に返って子供太鼓をは始めたいと思う。

  今日は、午後7時半から私の事務所で練習を始めた。先ず、来月、どの曲を演奏するのかを決め、それぞれのパートを決めた。今日は仕事の都合で一人が参加できなかった。

  今日の練習も楽しく見守ることができた。発表する7曲の内1曲は彼女たちに作ってもらいたいと思っている。みんなで創作の楽しみを味わってもらいたいと思う。そして、「ふるさとの踊り大会」を盛り上げてもらえればと思う。

 思えば、この「春駒太鼓」を創設したのは、越前大仏が建立される直前だった。勝山の子供達に何か郷土芸能を作ってやりたいとの思いからだった。この「春駒太鼓」を始めてから、かなり多くのグループの創設に関わった。

農業祭で演奏する「春駒太鼓」のメンバー(越前大仏特設舞台)。

  勝山高校、福井農林高校、県立盲学校、北郷若鷲太鼓、三室太鼓、九頭竜ワークショップのグループ等である。今、それぞれが独自に活動を続けているようである。頼もしい限りだ。

  これから、団員を募集して子供太鼓を始めることができればと思っている。汗を流しながら太鼓を打ち鳴らすのは文化系的な活動であると言うよりも体育系の活動に近いと思う。

(日記:午前、午後とも紙芝居『白山平泉寺物語』の制作を行う。難しい平泉寺の歴史をいかに手短にわかりやすくするかに苦労する。音楽入りで、読み手は家内と二人でやりたいと思っている。活動写真の弁士のようにやれればと思っている。午後1時から元同僚のSさんと会う。多少思い出話に花を咲かせる。その後、図書館へ行き、白山と平泉寺と一向一揆関係の本を10冊借りる。読めば読むほど興味がわいてくるが紙芝居に何を取り上げるかとても難し

一向一揆勢の立て籠もる村岡山に向かって兵を進める平泉寺の僧兵達(紙芝居「白山平泉寺物語」より)。

い。いかに話を簡単にするかで悩んだ一日でもあった。午後7時から私の創設した「春駒太鼓」の練習。忙しくも楽しい一日だった。)

 
 

今、少し重荷になっていること

07 6月

「盆踊りの火を消したくない」
  盆踊り復活のアクションを始めてから10年近くになろうか。越前大仏でのアクション、ゆめオーレでのアクション、成人式のアトラクションなど、場所を変えながら、盆踊り復活のためのアクションを続けてきた。夏祭りから「盆踊りの火を消したくない」という想いからだ。

  しかしながら、まだ満足すべき活動にはなっていない。3年ほど前だろうか、「盆踊り復活」のためにあちこちで話をさせていただいた。話だけでは分からないだろうと、「踊り隊」を連れて行ってデモンストレーションまで行ったりした。

  その結果、あちこちに、少しずつ盆踊り好きの人を増やしてきたと思っている。特に、村岡、遅羽、猪野瀬には盆踊り好きが増えたと思っている。また、村岡地区に誕生した女性の団体「おどり隊ひらり」はこうした運動のシンボルだと思っている。

  夜中に目が覚めた。急に盆踊りのことが心配になってきた。そんなとき、盆踊り復活に向けて、今日はどんなアクションをしようかと考えることにしている。

今年の盆踊り復活のためのアクション「ふるさとの踊り大会」のために試作したポスター(仮)。

  市役所に現時点での盆踊りに対する考え方を聞くこと、一人でも多くの人に参加してもらうために「民謡親和会」代表に協力を求めることを思いついて、再び眠りについた。

  朝起きてから、商工観光課へ電話をした。予算面ではかなり厳しい数字が示された。これはこれで受けざるを得ないだろう。親和会の代表のOさんは「今晩会員が集まるのでそこで話してみる」と言って下さった。

 一番の課題は、いかに若い人にアピールするかだが、これは簡単ではない。伝統ある「八尾」屋「郡上」なら放っておいても人は集まる。いや、集まりすぎるといった方がよいかもしれない。

  しかし、勝山では簡単ではない。毎日地道にアクションを積み重ねるしかないと思っている。後、1ヶ月半、毎日何か一つ盆踊り復活のためのアクションを積み重ねたいと思う。

(日記:午前中は、来週、深谷邸で演ずることになっている紙芝居「白山平泉寺物語」の脚本の手直しを行った。午後も作業を継続した。午後4時に民謡親和会代表のOさん宅を訪問して、協力を依頼した。その後、久々に市営プールへ行った。家内のリハビリに付き合ったのだ。かつての同僚や同級生にも会った。今週から、週に2回はプールへ行きたいと思う。毎日、先日採った蕗の煮物が食べられるのでうれしい。家内野作ったキャラブキを試食した。これもいける。)

 
 

「コーヒールンバ」の思い出

06 6月

「コーヒールンバ」をバンドで
  10月のOB会でバンド演奏をすることになった。飛び入りや即興で演奏できる楽器と言えば、パーカッションだろう。マラカス、コンガ、ボンゴ、クラベス(拍子木)等ならリズムに合わせて楽しく演奏できる。

  そこで、ハワイアンも演奏するが、ラテンのこの「コーヒールンバ」を演奏できたらと思う。みんなで即興的にガチャガチャやれたらと思うからだ。この曲は、バンドを始めた大学生の頃に流行っていた。また、喫茶店でバンドが演奏していたのをよく聞きに行ったものだ。

  私たちが当時よく聴いていたのは、ハープの一種であるアルパ奏者のウーゴ・ブランコの演奏で、世界的に大ヒットした曲だ。原曲は、ブランコの叔父であるベネズエラの作曲家ホセ・マンソ・ペローニがコーヒーをモチーフにして作詞・作曲した「モリエンド・カフェ」だそうだ。

  独特のアルパの響きが今も耳に残っている。青春の思い出の曲だ。その後、日本の歌手が歌っているが、やはりウーゴ・ブランコ楽団のものが一番いい。「コーヒールンバ」と言えばこのバンドの曲だ。

 「思い出の1曲」というものを多くの人が持っているのではなかろうか。いろんな曲目によって、その歌が流行った頃のことがいろいろ思い出される。この曲は、一杯のコーヒーで喫茶店で粘っていた頃のことを思い出す。

家庭菜園のジャガイモの花

  楽器を買うために、アルバイトに明け暮れたこと。アルバイトと言えば、定期的に行っていたのは、家庭教師。そして長期の休みに毎日働いていたのは、繊維工場。競輪は開始日だけのアルバイトあった。

  時期的なものなら、クリスマスの頃のケーキ屋、「38の豪雪」の時に雪下ろし。バンドをしながら、忙しく日々を送っていた学生時代が懐かしい。そんなわけで、“コーヒールンバ”は、「OB会」で演奏してみたい曲だ。

  そんなことを考えながら、インターネットでいろんな曲を聴き、編曲作業を続けた。今度の日曜日の練習日までには編曲してみんなに「この曲を演奏しよう」と提案したい。

(日記:「OB会」で演奏するハワイアンの曲の楽譜を書き、エレクトーン担当のMさん(大野)に渡した。午前11時半から北部中学校で和太鼓の授業。和太鼓は音を出すだけではなく、身体全体

北部中学校の『選択音楽・和太鼓』の授業

で表現できなければ見た人を感動させることはできない。どうしても、腕を伸ばしたり、腰を落としてしっかりと構えることができない者がいる。能力的なものではなく心構えの問題だ。また、練習用のばちを持ってこない者もいる。「壊れた」と平然と弁解する始末である。考え方の甘い者を指導した。午後は、「OB会」で演奏する『コーヒールンバ』の編曲。楽しい作業だ。午後4時頃、家庭菜園へ出かけて野菜の様子を見る。今日初めてエンドウを収穫することができた。私の大好物だ。昨日採ってきた「蕗の煮物」もうまい。妻は、保存用に「きゃらぶき」を作っている。せめてもう一度は「蕗採り」に行きたいものだ。)

 
 

楽しみな「ふき採り」

05 6月

久しぶりの山行き
  午前8時より、環境美化運動の一環として、子供から大人まで村の各種団体が集まって田んぼの畦に「芝桜」を植える日だ。防草シートを張り、カッターナイフで等間隔に穴を開けて、シャベルで芝桜の苗を植えた。そして、肥料入りの土をかけておいた。

村の環境美化作業(左:畦への芝桜植え作業。右:芝桜植樹作業。)

  昨年もこの作業があったが、今年も新たな場所に芝桜を植えた。私は、芝桜植えの前に、昨年植えて枯れてしまった「ハナミズキ」を土手に植えた。その後、芝桜植えを行った。全ての作業が終わったときに、芝桜植えに参加していたN(女性)さんが「今からかえってキャラブキを作るんです。」と話してくれた。

 「蕗(ふき)」と聞いた瞬間に、“そうだ、午後はふき採りに行こう”と決めた。私は、山菜の中でも、山に生えている蕗が大好物だ。昼食後、熊よけのベルを持ち、退院してあまり日にちが経っていない家内を誘って軽トラックで林道へふき採りに出かけた。

  家内は、道路で“蕗の葉っぱを取る係”、私は山の中へ入って“蕗を採る係”と決めた。あちこち歩き回らなくても、かなりの蕗が採れた。毎年来ている場所だからだ。途中で、ワラビも少し採れた。これは今の時期としては予想外だった。

 これで当分の間、蕗を食べられる。ニシンと一緒に煮てもおいしいし、アゲと煮てもおいしい。新緑の山を見ながらの「ふき採り」はハイキングと山菜採りを兼ねていて、一年に2,3回は出かけたい「我が家恒例の行事だ。

午後2時間あまりで採った蕗(下)とワラビ(上)。

  しかし、最近は熊が出るので、山へ行くのも年に2、3回ぐらいだ。 以前は、タラの芽採りなども含めて春だけでも年に5、6回くらいは山へ出かけていたが、危険なので行きたくてもいけない。

  私は、ウドや蕗、ワラビ、ゼンマイ等の山菜が大好きだ。特に、独特の苦みはたまらない。このような山菜を手に入れることができるのは、山の近くに住んでいる者の特権だと思っている。

  ワラビなどは、時期が少し遅いので、大きくなってしまって食べることはできない場所が多かった。しかし、大きくなったワラビを見て来年どこにワラビが生えるかを知っておくことは大切だ。

(日記:午前中、区民が出て、田んぼの土手に芝桜を植える作業があった。その後、帰宅してキウイの摘花作業。一昨年は300個ほどのキウイが実ったが、実は小さかった。昨年は、木が疲れたのだろうか、20個ほどしか実がならなかった。そして、今年は、また数百個の花が咲いた。そこで、今日は摘花作業を行った。初めての

満開になった我が家のキウイの花。このままでは小さい実しかならないので、摘花、摘果をしなければならない。

作業だ。午後は、家内と一緒に蕗採りに出かけた。かなりの蕗を採ることができた。ワラビも少し採れた。帰宅してから、家内の友人のNさんからオスのキウイ花をもらって受粉作業を行った。よく汗をかいた。私は今、「バンキシャ」を聞きながら、このブログを書いているが、その中でコメンテーターの川上さんが「政治家が、“ペテン師だ”、“うそつきだ”と子供に聞かせられないような言葉を発している。政治家に品格がなさ過ぎる。」と発言しておられた。予算委員会での発言を聞いていても、同様である。政治家のあまりの品格のなさが、政治不信、政治家不信を招いている。子供達が聞いたら政治家をなんと思うだろうか。これでは何を決めても、国民は同意しがたいと思う。悲しい国だ。) 

 
 

終日CDづくり

04 6月

がんばる「春江町中庄地区」
  春江町中庄地区では、村のいわれなどを取り入れた『中庄小三郎音頭』を作り、次世代に伝えたいと張り切っている。区民が作詞し、曲も作ったがその後が続かないということで、私の所へどうにかしてほしいと話が持ち込まれた。

  「なるべく原曲を尊重するが、どうしてもうまくいかないところは自分で自由に作ってもよいか」と尋ねたところ、それでもいいということで歌作りを始めた。頼みに来たのは、大学の軽音楽同好会のOBで後輩のSさんだ。

吹き込み中の二人(左:旭さん、右:妻春美)

  そして、カラオケができあがったが、その段階で中庄地区の人たちは非常に喜んで下さったようだ。明日の日曜日からカラオケを使って踊りの練習を始めるということを一昨日聞いたので、何とかそれまでに歌の入ったCDを作れないかと考え、歌って下さる旭さんにお願いした。

  そして、急に今日吹き込みをすることになった。午前中は、家内に「前歌」を歌ってもらいレコーディングすることにした。非常に短い曲だが、10回あまり練習して吹き込みを終えた。

  午後、2時半から歌謡教室の先生である旭さんが我が家へ来て下さった。歌は、地区のいわれなどが入っているために10番まであるのだ。1番から2、3回ずつ練習して吹き込みを進めた。4時頃、吹き込みは終わった。

 6時には、中庄地区の人たちがCDを取りに来るのだ。しかし、編集作業に意外と時間がかかり、6時を回ってようやく完成した。事務所へ行くと、中庄地区の人たちが4人来ていた。パソコンで聞いてみると、編集ミスでボリュームが上がらない。事務所で待っていてもらって、慌てて自宅へ戻り、編集をし直し、CDを焼いてどうにか渡すことができた。

私の部屋での吹き込み全景(歌っているのは旭さん)。

  以前にも書いたが、村の人たちが、自作の民謡を作り、区民がそれを踊るというのだ。そうして、盆踊りを通して、区民の融和を図るというのだ。特に、団地などができて旧地区との交流が少なくなる中で、何とか親睦を深めたいという。

  盆踊りの会場は「出会いの広場」になるだろう。まちづくりの一つのアクションとなると思う。村の人たちがそうした運動に真剣に取り組んでいる姿は素晴らしい。私は、大いに理解できるし、うらやましいとも思う。

  可能な限りこうした活動に手を貸してあげたいと思う。歌作りは、私にとっても楽しい作業だ。まして、大学時代の軽音楽同好会の後輩(同時に在籍したことはないが)からの頼みとなれば、張り切らないわけにはいかないと、。終日CD作りに励んだ。

CDを受け取りにはるばる勝山まで来られた春江町中庄地区の皆さん(前列中央は、「小三郎まつり」実行委員会・民謡部会の会長さん。後列左端は後輩のSさん)。

(日記:終日、春江町中庄地区の『中庄小三郎音頭』のCD作り。途中で、キュウリのネットを張りに行ったが、後はずっと吹き込みや編集作業を続けた。そして、6時過ぎに中庄地区の人たちにCDを渡すことができた。夜、末娘が東京から帰ってくると言う。久しぶりに賑やかになりそうだ。)

 
 

結構“多忙な一日”

03 6月

晴耕晴掃
  「今日は午前中、法人に借りた畑や家庭菜園の農作業で、部屋の清掃」と、家内と一日の過ごし方を決めた。午前中一番最初の仕事は、法人に借りた畑のあいた部分に「とうのいも」を植える作業だ。

法人が貸し出している畑。それぞれが、網を張ったりして獣や鳥から作物を守るために網を張っている。私は、ここでは里芋とショウガを主に作っている。毎年場所が変わるので、連作の被害を免れることができる。かなり多くの区民が借りている。

  借りた畑へ行ってみると、以前に植えた「里芋」の多くは、すでに芽を出していたが、所々欠けている部分もあった。どうしようかと迷っていると、Nさん夫婦が欠けた部分に新たに芽の出た「里芋の種」を植えていた。

  「たくさんあるからあげましょう」と、芽の出た里芋を20個ほど下さった。おかげで私の里芋の畝の欠けた部分に、芽の出た新たな里芋を植えることができた。ラッキーだった。Nさんに感謝。

  続いて、自分に菜園の小松菜を全部取り去り、そこへ「ネギ苗」を植えた。その後、サツマイモの芽の出なかった部分に新たな苗を植えた。

  さらに、実り始めた「えんどう」に鳥などに食べられないようにネットを掛けたり、キュウリのネットをつける作業を行った。

  今、片瀬地区では、狸やハクビシンや鳥などに実った作物を食べられてしまうことが多くなっている。病気や虫のほかにも、このような被害も出ているのだ。

  午後は、居間と自分の部屋の清掃。居間には、明日注文した新たな「オットマン付きのソファー」が2脚入ることになっているからだ。

  居間の方は、明日、歌い手のAさん(歌謡教室の先生)にお願いして春江町中庄地区の『中庄小三郎音頭』の吹き込みをするからだ。居間の清掃をしてマイクもセットし、曲の伴奏の準備をした。

  夜は、『片瀬豊年ばやし』の練習日。夏以降、結構、出番がありそうだ。新たなメンバーをどうして増やすかも話し合った。結構忙しい一日だった。

(日記:午前中、家庭菜園作業。午後は、居間と自分の部屋の清掃。夜は、『片瀬豊年ばやし』の練習会。)

 
 

政治不信

02 6月

ほど遠い“オールジャパン”
  今日は、朝からずっとテレビやラジオで「不信任案提出」問題をやっていた。政治家の皆さんはこの状況を自らどう思っておられるのだろうか。

  国民の目に、自分たちの姿がどう映っていると思っておられるのだろうか。いやしくも一国の総理に向かって、まるで子ども達が年下の者に接するような言葉遣いで話している。

  結果的には、本人達は国民の上に立つ政治家のつもりでいるだろうが、国民の側から見ればその程度の人間が政治を行っているのかと思ってしまう。

 かなりの者が、親の七光りで政治家になり、国民から乖離した生活を送り、ひとたび言葉を発するときは、まるで国民の生活や、痛み、苦しみがわかっているかのごとく、発言している。

  今回の大震災に対する対応のまずさは、与党は当然のこと、野党も責任があるのだということを政治家の先生はおわかりになっていないのではなかろうかと思ってしまう。

  テレビでの話だが、与党を追い詰める時にはかなり迫力ある某政治家の先生は、イラクがどこにあるのかもわからず、イラク問題を語っておられた。

  責めるときは、誰でも、相手の弱点さえ責めていればよいだろうが、ひとたび責められる立場に立ったら、責めていたときの勢いは最早見られず、別人のごとく弱腰になってしまう。

  与党も野党も、互いにこの国難に対して、まっとうな国会審議をすることによって対処してほしい。党首討論や国会での審議における言葉のやりとりは、子供以下であり、これでは、とても政治への信頼は得られないと思う。バラエティーに近い感じがする。

  今回の大震災によって引き起こされた原発事故は、学者や企業などと共に国策として強引に進めてきたかつての与党にも大いに責任があると思うが、必ずしもそうした認識はなさそうに思う。

  また、原発によって多大な利益を得てきた地方や国民にも、その責任はあるように思う。今になって、自分は正しかったかのごとく振る舞い、国や電力会社を一方的に責め立てる姿は情けない。

  もっともっと政治に関心を持ち、次世代に対する責任を持って政治家の動向を見守っていかなければ、永久に同じようなことが繰り返されるだろう。

  同じ原発に対しても、ドイツとアメリカでは大きく異なる。本件に於いても、多数の原発が存在する嶺南の中で、断固原発を受け付けない小浜のような市があることも忘れてはなるまい。

  私たちも、政治不信は政治家のみの責任ではなく、そのような政治家を選んだ自分たちにも大いに責任があるのだということを、今こそ自覚しなければならないだろう。

  不信任案は否決されたが、おそらくポスト管総理をめぐって、新たな政局が始まるだろう。この国の将来よりも、自分の将来のみを考えて行動するようなことではなく、後の世代に対して責任ある政治をしていただきたいと願う。

  私たちも、政治不信を人のせいにするのではなく、常に政治に関心を持って、よりよき人を国会に送り出していきたいと思う。

出資証券に印刷する『農事組合法人かたせ』のロゴマーク。アイディアは昨晩、絵を買う手順は目が覚めた真夜中に考えた。気に入ってもらえるかどうか心配だ。

(日記:午前中、『農事組合法人かたせ』のロゴマーク作り。出資證券などにつけるマークだ。組合の主要作物である米をモチーフに、強調した「+」で区民が力を合わせることを表現した。パソコンで、フォトショップを使ってデザインした。その後、家庭菜園を見周りトウモロコシに肥料をやり、土寄せをした。そして、苗や日用品や紙芝居用の厚紙を買いに出かけた。午後は、紙芝居の絵の整理とパソコンのファイル整理。あっという間に、一日が過ぎてしまった。)

 
 

『ふるさとの踊り大会』実行委員長決定

01 6月

『ふるさとの踊り大会』に向けて
  今、私の頭の中に大きな位置を占めているのは、夏祭りでの『ふるさとの踊り大会』の実施だ。委員長をどうするかで、今日、村岡公民館へ行き、『おどり隊ひらり』の皆さんと相談した。

  その後、代表のTさんと二人でコスモ興業社長の木下一美氏の事務所を訪ねた。そて、『ふるさとの踊り大会』の実施について説明し、実行委員長になっていただきたいとお願いした。

  木下氏は、長年区長やまちづくり関係の長を歴任し、盆踊り復活にも意欲的な方である。村岡町や自分の区である浄土寺でも盆踊りを復活したいと活動を続けてきた方である。

昨年「ゆめおーれ広場」で行われた盆踊り風景。これよりも、一人でも多くの人に来てもらいたい。

  快く実行委員長を引き受けて下さることになった。現在考えられる中での最適任者である。少し気が楽になった。問題は、市民の皆さんがはたして会場である勝山城の由来書前広場まで足を運んで下さるかだ。

  まだまだ問題があり、クリアすべき課題はあるが、日時・内容・組織などが決まったので、実施要項を市の商工観光課へ提出した。いくらかでも予算が付くことを願う。

  午後は、3時から地場産でKさんやMさんからも祭りについて意見を聞かせていただいた。参考になることが多かったが、今年取り入れることは困難なことも多かった。次年度以降の課題だ。

  一般に、盆踊りについては、その価値を認め手下さる人、無関心な人、今の時代には無理だと否定的な人などいろいろである。私は、価値を認めている一人である。

 私の考える『ふるさとの踊り大会』開催の効果
      ・老若何女を問わず参加できるイベントである。
      ・会場は出会いの広場となり、市民の交流が期待される。
      ・賑わいにより町の活性化を図り、経済的にも期待がもてる。
      ・各集落で開催することによって、集落の住民の交流が深まり、区民の絆が深まる。
       ※ 浄土寺・寺尾などいくつかの集落で盆踊り復活の活動が展開されている。
      ・音楽に合わせて手足を動かすことは健康に最適である。
      ・勝山の夏のイベントとして発展することを願う。  

  まだまだいろんなメリットがあると思う。食わず嫌いということもある。一人でも多くの人にこの『ふるさとの踊り大会』参加していただきたいと願っている。

(日記:午前10時より村岡公民館で「おどり隊ひらり」の「代表者であるTさんと盆踊りについて話し合い、Tさんと午前11時より村岡町のコスモ興業社長の木下氏の事務所を訪ね、実行委員長になっていただくようお願いし、了承される。午後は、地場産のサロンにおられるKさん、Sさんを訪ね夏祭りについての話を伺う。『ふるさと野踊り大会』について歩き回った一日であった。)