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Archive for 5月, 2011

新緑の和泉で山菜料理満喫

21 5月

山菜研修会二日目
  先月、県主催の山菜研修会に参加した。今日はその二日目で、和泉村で現地研修を行うのだ。8時に自宅を出発し、「九頭竜国民休養地」へ向かった。

九頭竜国民休養地の周辺での山菜採集。

  9時15分からのオリエンテーションの後、二班に分かれて山菜の現地採集を行い、山菜の見分け方などを学んだ。そして、採集した代表的な山菜を見ながら講師の先生から説明を受けた。

  山菜で危険なことは、一見よく似ていても、一方は猛毒でもう一方は食べられるからだ。危険なものは食べないに限ると思った。

  その後、「和泉総合福祉センター」へ移動して、現地の二人の方

「和泉総合福祉センター」での講義。「山菜の保存法」や「山菜の調理法」を学んだ。

から、「山菜の料理法」や「山菜の調理法」を学んだ。

  そして、いよいよ実習だ。講師の方々が二日がかりで採集したという山菜を使っての調理実習だ。私は、「天ぷらグループ」でウド、ヨモギ、マタタビの新芽、コンフリーなどの天ぷらを作った。

 そして待ちに待った試食会。研修会の参加者が作った料理の他に、現地の方々が作った沢山の山菜料理バイキングが準備され

山菜の天ぷらを揚げている私。ウドが美味しかった。

ていた。

  山菜おこわを食べ、自分たちで作った山菜料理、そして現地の方々の山菜バイキング、そして健康茶を飲み、楽しい時間を持つことができた。

  新緑の和泉で、これまで食べたこともないような山菜料理を満喫し、帰路に着いた。参加者と色々と会話を楽しむこともできた。天気もよく充実した一日だった。

現地の方々が作って下さった種々の山菜料理を選ぶ参加者達。2カ所のテーブルに沢山の料理が並んでいた山菜バイキング。

  先月の第1回目野研修会でいただいた「うど」と「畑わさび」の苗は、我が家で元気に育っている。収穫で来るまで育てたいと思う。

(日記:朝から3時過ぎまで山菜研修会。その後、家庭菜園で第二弾のトウモロコシの種をまき、トマトを移植した。法人に借りた畑を見たところ、里芋が芽を出し始めていた。)

 
 

紙芝居『白山平泉寺物語』

20 5月

壮大な平泉寺800年のドラマ
  平泉寺について、市民の皆さんはどれぐらいご存じだろうか。実を言うと私も、市教委に9年間勤務したが、そんなにわかっていなかった。

  時々、往時の遺物が発掘されるが、平泉寺の歴史の全容をわかっていない者には、さほど興味のあることではなかった。そこで、自分でいろんな書物を読んでみた。

  そして、「平泉寺」単体では、全国的な文化遺産にはなり得ないと痛感した。白山は日本3名山の1つである。山の高さだけなら、日本でも80数番目だそうだ。

  しかしながら、白山をご神体と崇める白山神社の数は日本全国に三千数百社に登るといわれている。富士山や立山の比ではない。それは、白山の持つ神性によるのではなかろうか。

  特に、晩秋から早春に変えての純白の山肌は、非常に神々しい。まさに、神の宿る山にふさわしい。伝説によれば、そんな霊峰白山を開いたのは泰澄大師であり、その登り口である馬場として賑わいを見せたのが平泉寺である。

  平泉寺は、白山と共に発展していったのである。平泉寺を語るには、「白山」を抜きにすることはできないのである。平泉寺を語るには、常に白山を意識していなければならないと思う。

  平泉寺がメジャーになるかどうかは「白山」にかかっていると言っても、過言ではない。世界遺産を目指すテーマは「白山と山麓の文化的景観」である。

  このテーマにあるように、先ずは「白山」そのものが世界遺産を目指す鍵である。そして次に、白山麓の文化的な景観であり、その中には白山信仰も平泉寺も禅定道も含まれているのである。

刷り出した紙芝居『白山平泉寺物語』の絵。厚紙印刷なのでとても時間がかかった。

  私たち勝山市民としては、平泉寺の歴史を知ることは不可欠であり、興味のあるところである。しかし、簡単に全容を理解することは難しい。

  そこで私は、市教委勤務時代に息子と共に簡易アニメ『平泉寺物語』を制作したのである。また、息子の制作したホームページ『みんなのは白山』のために約1年、白山に登ったり、白山の写真をとり続けたのである。

 こうしたアクションは、少しでも自分が平泉寺を理解したかったからである。また、少しでも多くの子ども達にも白山を理解してほしいと思っている。

  来月には、ある団体から、紙芝居『白山平泉寺物語』を上演してほしいとの依頼が来ている。楽しく、嬉しいことだ。少しでもよいものにしたいと思う。できたら、家内と二人で音楽付きで上演したい。

(日記:午前中は、炊事洗濯、作物の水やり、買い物などで終わってしまった。午後は、紙芝居の絵のプリント。厚紙に印刷するので1枚1枚が非常に時間がかかる。半日ではとてもプリントできない。夜は、「片瀬豊年ばやし」の練習。今年も、いろんなイベントに出演予定。)

 
 

勝山に根ざした祭りの創造

19 5月

(仮称)「勝山城博物館夏祭り」の開催
  私は、これまで「盆踊り復活」を目指して様々なアクションを行ってきた。今年は、どうするか、先日商工観光課の課長やGLにその思いの一端を語った。

  そこで、今日は勝山城博物館の館長と学芸員と3人で祭りのあり方やねらい、博物館の方向性などについて語り合った。

  これまでのいろんなアクションで得た人間関係を活かしたい。会場を勝山城博物館に移すことによって、どんなメリットが生まれるのか。いろんなことを3人で語り合った。

  午前中は、地域の野菜などの物販販売、場合によってはフリーマーケットも加える。そして、朝から夕方までは子ども達が楽しめる企画。できれば、福井大学、県立大学、仁愛大学の学生達の協力を得たい。

  毎年夏に交流している関西学院大学のワンダーフォーゲル部の連中にも協力してもらえるとありがたい。中学生や高校生の協力もあればうれしい。

  昔の遊びや工作などの体験的なイベントも取りいれられればと思う。こうした体験活動の指導者として、60歳代、70歳代の人達にも参加してもらえるとありがたい。

話し合いを終えて玄関でパチリ。館長(右)と学芸員(左)と私(中)。(勝山城博物館の入り口で)

  午後3時頃から午後6時頃までは、「芸能発表」の時間を持てればと思っている。市民の皆さんに和太鼓でも、歌でも、楽器演奏でも郷土芸能でも何でもいいので、発表してもらえればと思う。

  できれば子ども達の参加も期待している。とにかく、勝山城博物館へ行ってみようと思ってもらえればと思う。魅力ある内容のある祭りができるかどうかにかかっている。

  そして、夕方から9時頃まで「ふるさとの踊り大会(盆踊り)」だ。これは例年の通り生演奏で郷土の民謡を演奏し、誰でも気軽に踊りの輪に入ってもらえればと思う。

  また、祭りの楽しみの1つは「食」だろう。何か美味しいものが食べられるような屋台があるといいと思う。市内のソバ打ちグループや女性の協力が得られればと思う。

  夏ならではの、冷えたメロンやスイカもあるとよい。ラブリー牧場のソフトクリームやポニーの乗馬体験もあると面白いかもしれない。

  また、市内に避難してきている「福島県」の皆さんを多少意識して、踊り大会には福島県の民謡「相馬盆歌」を取り入れられればとも思う。

  どのような祭りにすべきか、私個人の思いつきを書いたが、企画はいろんな年代の、いろんな団体の人達の意見を聞いて作り上げていきたいものだ。

  祭りの成功は、どのような団体の、どのような人達にこの祭り作りに加わってもらえるかにかかっているように思う。

  今日は、まだ案の前の段階だが、勝山城博物館で、色々話し合った。今月中には、おおよその祭りの形を決めたい。また、今年の夏も忙しくなりそうだ。

(日記:午前中、ジャガイモの土寄せを行う。堆肥と化成肥料をジャガイモの間に入れて、鍬で土を寄せた。その後、ナイロン紐をつけた草刈り機で自分の田んぼの草を刈った。午後は、勝山城博物館で「夏祭り」について話し合う。まだまだ案の案の段階だ。その後、孫の書いた手紙を持って家内の入院している医科大へ行った。早く退院して元の生活に戻りたいものだ。夕食は、病院の食堂で食べた。従って自分で作らなくてもよかった。結構忙しい一日だった。)

 
 

草刈り機の特徴

18 5月

全く異なる2つの刃
  私は、草刈り機を持っている。しかし、それは、今まで村の山道作りに使うだけだった。1年に1度しか使わないということだ。

  しかし、今年から、法人に田んぼを預けてはいるが、自分の田んぼの畦草は自分で刈ることになった。そこで、草刈り機の刃をどうしようかと考えた。今持っているノコギリ型の刃で今後も作業を続けるか、紐(ナイロン製)型にするかで少し悩んだ。

  石の多い場所やコンクリートなどの際の草を刈るには、紐の方がいいとは聞いていたが、どちらがよいかを決めかねていた。ノコギリ型の方がいいという人もいたからだ。

  一昨日、北部中学校へ出向いた際に、校務員さんが草刈り機で草刈りをしていた。見ると、紐型の刃を使っている。服装は完全武装に近い。

  公務員さんにいろいろ聞いてみると、紐型の特徴がよくわかった。どちらにも一長一短があるということだ。しかし、石が多かったり、舗装がしてあったり、コンクリートの際などが多い事務所の周囲の草を刈りたいので、紐型の刃を使ってみることにした。

  そこで今日、紐型の機具を買い、刃となる補充用の紐を買い、メッシュの前掛けを買い、同じくメッシュのついた帽子を買った。めがねは草刈り機についていた。これで完全武装だ。

  そして、昼食後、草刈りをしてみた。ノコギリと紐の違いははっきりわかった。特に、紐型は、草刈り機を高速で回転させなければならない。考えてみれば当たり前だ。

  村の人が言っていたように、たぶん燃料は沢山使うだろう。そして、きれいに草を刈ろうと思うと、草の根元まで紐を近づけなければならないので草は飛ぶし、小石や砂も飛ぶ。

  前掛けをしなければ、草の屑と小石や土などでどうしようもないだろう。おまけに、メッシュ付きの帽子をかぶっていても、顔へも容赦なく小石が当たる。目は、保護用のめがねをつけているのでいいが、ほおなどには網を通り抜けた小石がかなり当たった。

  校務員さんが話していたとおり完全武装が必要だ。ノコギリ刃の場合には、エンジン回転はそんなに高速でなくてもよく切れるし、草が飛んだり石が飛んだりすることもほとんどない。普通の作業着で十分草刈りができる。

  切れ味は、ノコギリ型の方だ。小枝なども簡単に切れるが、紐では、堅い草や小枝も切れないだろう。しかし、紐型は、地面すれすれに生えている草でもきれいに刈ることができる。

  聞くだけではなく、やってみて初めて両者の違いがわかった。今後は、状況によって使い分けたいと思う。刃の付け替えは少し面倒だけど。

完成した堆肥枠の雨よけ屋根。写真は開口部が最も小さい場合。普段は、この上にブルーシートを被せておく。

(日記:午前中、堆肥枠の雨よけの屋根を作った。屋根は、必要に応じて三段階に開けることができるようにした。堆肥を取り出す量が異なってもいいように考えた。午後は、紐型の草刈り機具と前掛けや帽子を買い、早速事務所の周囲の草刈りをした。帰宅してから、いちじくの苗を大型の鉢に植え替えた。その後、紙芝居『白山平泉寺物語』の絵の整理を行った。ここ数日、肉体労働が続いているので少し疲れた。地枯れていても、夕食の準

自宅にある大型の鉢に植え替えたいちじくの苗。うまく育つだろうか。

備はしなければならない。疲れていても、充実した一日だった。)

 
 

勝山城博物館のあり方(私案)

17 5月

平泉寺の入り口にあるという地の利を活かす
  午後2時過ぎに勝山城博物館へ出かけて、杉本学芸員と雑談をまじえて話し合った。3県6市1村が「白山」を中心に平泉寺を含めて「世界遺産」への登録を目指している。

  「白山と山麓の文化的景観」のタイトルのもと、世界遺産登録を目指しているが、金色堂で有名な平泉に中尊寺に先を越されてしまった。

   また、平泉寺区の中に、「平泉寺に関するガイダンス施設」を現在建築中である。この建物は、平泉寺の遺跡から発掘された種々のものを展示しながら、観光客などに平泉寺を案内する施設である。

  おそらく、この建物は発掘物中心に、映像や写真を使って平泉寺を案内するであろう。そうなると、勝山城は平泉寺に関してどのような魅力ある展示ができるのであろうか。

  平泉寺は、約800年の歴史があるが、その壮大なドラマを知っている人は少ないと思う。まして県外から訪れた人達ノ多くは、そうした魅力ある平泉寺の歴史は全く知らないであろう。

  観光客の皆さんは、平泉寺の厳かな雰囲気ときれいな苔を見て、感動して、帰られるのが現状ではなかろうか。一部の人は発掘現場まで足を伸ばすであろうが。

  平泉寺は、かつては常に全国の動向を情報収集し、時の権力と上手に折り合いをつけながら生き延びてきたのだ。

  南朝か北朝か、源氏か平家か、織田信長とは、朝倉氏とは、一向一揆とは、比叡山とはどういう関係だったのか。

  平泉寺は、常に情報を収集しながら、800年の長きにわたって生き延びてきたのだ。その壮大なドラマを理解しなければ平泉寺の面白さや魅力は理解できないであろう。

  そこで、勝山城博物館は、その壮大な平泉寺のドラマを視覚的に見せることができないのか。映像や絵や解説、模型などを含めて平泉寺の興亡がよくわかる展示ができないのだろうか。

 そうした平泉寺の歴史の流れを理解することによって、今の平泉寺の遺跡や発掘した遺物が生きてくるのではなかろうか。平泉寺の歴史の流れを理解するためには、必ずしも発掘した遺物が必要ではない。

  私自身も平泉寺を理解するために、息子と簡易アニメ『平泉寺物語』を作成したが、勝山城博物館でもとても好評だったという。それはそうだろうと思う。また、県庁では平泉寺の歴史を絵に描いたが興味を持って見ていただいたようだ。

  そこで、「市のガイダンス施設は発掘した遺物などから、平泉寺の歴史を語り」、「勝山城博物館は平泉寺の壮大なドラマを絵や写真で展示する」という棲み分けをしてはどうかと思う。

  両者を見てから、平泉寺旧境内の発掘現場を見れば、平泉寺の歴史を深く理解できるのではなかろうか。そんな話を杉本学芸員とした。とても、楽しい時間を持つことができた。

(日記:午前中は、堆肥枠の屋根作りを行った。雨が降るとブルーシートで覆っておくが、雨水がブルーシートに溜まってしまう。そこで、やはり、屋根をつくってその上にブルーシートをかけておく予定だ。昼過ぎまで作業を続けたが完成しなかった。作業の途中に、春江のSさんが創作中の民謡を持って編曲を頼みにきた。午後は、勝山城博物館へ行って学芸員と話し合い。その

今日は半日堆肥枠の屋根作り。雨が入り込まないようにするためだ。材料はかつて自分で作った車庫の板や材木。

後、末娘からの小包を持って福井医科大の家内の所へ出向き、そこで夕食。家内は今リハビリ中。帰宅途中に、食材を買った。残りのご飯は、サランラップに包んで冷凍。変化に富んだ一日だった。)

 
 

特産物作りにチャレンジ

16 5月

芋とショウガと美味い米
  作物作りは天候と折り合いをつけなければならない。こちらの計画通りに晴れてはくれない。ゴールデンウイークは天気に恵まれた。ショウガの種も届いた。

  そろそろ法人に借りたショウガを植える場所を耕そうと思っていたら、雨また雨。畝には水が溜まってどうしようもない。ようやく乾いた日が続いたので今日はショウガを植えることに決めた。

  法人の「きりあげ(米以外の作物を作る場所)」は、区民に貸しているので、常にいろんな人が作物作りに励んでいる。普段は滅多に話さない人とも野菜作りの話が弾む。

  ショウガの育て方も、懇切丁寧に教えてくれる。今日は、村の女性のNさんのやり方を参考にショウガの畝をミニ耕耘機で耕し、中央に溝をつくってそこに、鶏糞と長期間効果のある化成肥料と堆肥を入れた。

  そして、溝を埋め戻し、溝の両側に細かく割ったショウガの種を植え、最後に黒マルチで覆っておいた。午後6時少し前にようやく作業は終わった。腹ぺこになった。

  ショウガは温度が高くならなければ芽が出ない。里芋は4月中に種イモを植えたので今はすることがない。これで村の特産物の里芋とショウガは植え付けを終わった。

  村の特産物を多くの人に作って貰いたいと思うが、先ず自分でどれだけ大変なのかを試してみたい。私は、これらの里芋やショウガは収穫したら、知り合いにあげればいいと思っている。

  これで法人に借りた畑の春の作業は終わった。当分、この畑へ通う必要がない。後は、自分の事務所の周りにある家庭菜園を見ていればいいのだ。

  散歩がてらに、散歩がてらに、法人で借りた畑に立ち寄って育ち具合を見ることができる。楽しみがまた1つ増えた。ショウガは、9月以降に、里芋は11月に入ってから収穫だ。途中で、2、3度土をかぶせる作業はあるが、それも楽しみだ。

(日記:午前中、オカリナの楽譜の整理。その後、捜し物で1時間近く時間を無駄にしてしまった。11時に家を出て北部中学校へ向かった。毎週月曜日の4時間目は「選択音楽・和太鼓」だ。集中力の欠いた生徒をいかに集中させるかが課題だ。女子は皆集中して取り組んでいるが、男子の一部に私語が多い。午後は、商工観光課の課長とグループリーダーが「夏祭り」について話しに来た。その後、ショウガの植え付け作業を行った。法人に借りた畝を耕し、肥料を入れ、ショウガ種を植え、黒マルチをかけた。夜は、オカリナ教室。来週土曜日に、大師山の頂上で演奏するので、その練習をした。途中で、お茶をしながらの楽しい練習だった。)

 
 

トマト作り

15 5月

いつもと方法を変えて再育苗
   トマトは、買ってきた苗のポットからいきなり畑に植えないで1段目の花が1つか2つ咲くまで大型ポットで再育苗した方がよいと雑誌『家の光』に書いてあった。

  そこで、家内に、15本ほどのトマトを雑誌に書いてあったように、少し大きめのポットに移し替えて貰った。そして、1本のトマトの苗だけが2つ花をつけたので、家庭菜園へ植え替えた。

下の方の葉っぱはないが、元気を取り戻した再育苗中のトマト。

  しかし、残りの苗は1つ花をつけたものはあるが、まだ条件を満たしていない。そうこうしているうちに1本の苗が枯れかかってきた。

  この苗をどうしたら救えるだろうか。せっかくポットに移し替えて成長を待っていたのに、がっかりした。何とか元気を取り戻したい。新しいポットで肥料に当たったのだろうか。

  そこで、枯れかけた下の方の葉っぱを切り取り、残りの少しの葉っぱだけ残して、少量の水をやり、朝から夕方まで太陽がよく当たるように一日2、3度場所を変えて面倒を見てきた。

  ところで、今日は「農事組合法かたせ」の田植えで、私は補助員を務める日だ。朝8時から夕方5時まで田植えの補助員として、田植機に苗、肥料、除草剤などを補充するのが私の仕事だ。

今年も庭先で大きな花を咲かせてくれたボタン。現職中に行商のおばさんに球根を買って育てたものだ。

  そして、仕事が終わって帰宅するとトマトが元気になっているではないか。元気になれと一生懸命祈って世話をした甲斐があった。

  少しオーバーにいえば、病気になって落ち込んでいる患者を治療して健康を回復させたような気分だ。1つだけ花をつけているので、もう一つ花をつけたら畑へ移したい。どんなトマトを実らせてくれるか楽しみだ。

(日記:午前8時より午後5時まで、「農事組合法人かたせ」の田植えの補助員を務める。全くの肉体労働だった。市教委時代と比べるとかなり筋肉を使うように思う。パソコンや家庭菜園などで左手の親指が腱鞘炎になって思うように動かない。おまけに痛い。少し休ませてやりたい。

同じく行商のおばさんに勧められて買ったボタン。毎年大きな花を咲かせてくれる。ありがたいことだ。

電気屋さんに事務所のスタジオの照明を明るくして貰うために、電灯を増やして貰った。6時頃見に行くと確かに明るくなっていた。これで、オカリナ教室も気分よくやれるだろう。肉体労働でかなり疲れた一日だった。でも、気分はよい。充実感があった。毎回、田植えはオペレーター一人と補助員4人がチームになって仕事をする。一日中いっしょにいるので、いろんな話ができて楽しかった。こんなことがなかったら、こんなにいろんなことを話すことはできなかっただろう。)

 
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農の一日

14 5月

草刈りで我が家の田んぼを確認
  我が片瀬の特産物は、「イモ(里芋)とショウガとうまい米」だが、里芋はこれまで一度も作ったことがなかった。私の菜園では、里芋に適していないことと、狭すぎることなどからこれまで作ってこなかったのだ。

  そこで、今年は、30mの畝を2本借りて、一本は里芋、そして残りの一本のうち半分はショウガをつくことにした。里芋はすでに植えてあるが、ショウガは種が来なかったのでこれまで植えられなかった。

   先日種が来たが、雨で田んぼがぬかるんでいて植えられなかった。今日はショウガの畝を立てた。本当はミニ耕耘機でやりたかったが、土が軟らかいので、鍬を使って人力で作業を行った。

田んぼの畦の草刈り。腰が痛くなった(デジカメを地面に置いて自動シャッターで撮影)。

  その後、田んぼの草刈りをすることにした。今年は、自分の田んぼの草刈りだけは自分ですることにした。原則として、水管理もすべきだが、自信がないので来年以降にすることにして、畦の草刈りだけは自分ですることにした。

  会社組織になっているので、1年間管理を続けたらある程度の手間代は出ることになっている。午前10時頃から、草刈りを始めた。

  自分の田んぼが今どういう状態にあるのかがよくわかった。というのは、これまでは、田んぼだけでなく全ての作業も全てを預けっぱなしにしてあったので、自分の田んぼがどのような状況にあるのかもよくわからなかった。

  作業をしてみて、田んぼの状況だけではなく、周囲の住宅などの状況もよくわかった。昼になったが、後1枚残っていた。帰宅して昼食をとり、再び田んぼへ戻ってくるのは面倒なので、コンビニで弁当やお茶を買って軽トラの中で食べて作業を続けた。

  草は、すぐ生えるので最低でも、1年間に3度は刈らなければならないということだった。とにかく今日初めて1回目の草刈りを終えることができた。たぶん明日は、腰が痛いだろう。

  帰宅してシャワーをしてから、買い物に出かけた。ついでに、「ミニいちじく」の苗を買った。ふつうの「いちじく」は田んぼにあり、実をつけるが自宅にもほしいということで買ったものだ。

  この「ミニいちじく」は鉢で作るつもりだ。私も、家内も「いちじく」が大好きなので早く実ることを願いたい。事務所へ寄って、挿し木をしておいた「いちじく」の枝をみると芽が出ていた。うまくいけば、沢山の「いちじく」を食べられるかもしれない。

(日記:午前中、ショウガを植える畝を立てる。その後、田んぼの畦の草刈り。買い物。) 

 
 

青春時代がよみがえる……軽音楽部のOB会に向けて

13 5月

初対面の後輩
  10月に、福井大学の軽音楽同好会のOB会が浜松で開かれることになっている。もちろん私も参加するつもりだ。私は、軽音楽同好会の創立メンバーであり、先輩は1学年上にいるだけである。

  というのも、工学部を中心にバンドを組んでいた2年生と教育学部を中心にバンドを組もうとしたしていた私達1年生がいっしょになって軽音楽同好会を創立したので、私は、2代目のメンバーであり、先輩といっしょのバンドでドラムを担当していたのである。

  今日は、2学年下のKさんと4学年下のSさんが私の事務所へやって来た。主な用件は、OB会に即席のバンドを組んで演奏しようということだった。出席確認時のアンケートに、「演奏を希望しますか」という項目があった。

  私は、演歌を作っているが、当日それらを演奏することはできないので「バンド演奏は希望しない」とメールに書いておいた。しかし、幹事のKさんが「何かやりましょう」ということで、相談にきたのだ。

  今のところ、福井や金沢にいるOBを中心に演奏しようということになった。ハワイアンを2、3曲、ボサノバやジャスかロック調の曲を2曲ほど演奏しようということで話がまとまった。

  今日来た幹事のKさんは、ギターを弾くという。彼がいなかったらOB会はできないだろうと思うほど、あちこちへ電話をかけてOB会を楽しいものにしようとしている。ありがたいことだ。

  4学年下のSさんは、春江の住人だ。和太鼓グループで篠笛を吹いている。そして、今、村の民謡を作ろうとしているとのことだった。私と同じではないか。私の作ったいろんな民謡のCDをプレゼントした。

  それらを聴いて、CD化の応援をしてほしいということだった。もちろんボランティアでやらせてもらいますと約束した。Sさんに「フルートをやったら」と二人で勧めた。少しその気になったようだ。中古のフルートを探さなくっちゃ。

楽しく語り合った軽音楽同好会のOB。左は、現在和太鼓グループで篠笛を吹いているSさん、右は幹事のKさん。

  彼らは、楽器を持ってきたので、私といっしょに合わせてみた。とても楽しい時間だった。いろんな話が出た。OB会当日は、3時から6時までが演奏会。そして、宴会が始まるという。さすが軽音楽同好会だと思った。

  1時半から5時半頃まで私の事務所で彼らと語り合った。楽器があるので話は尽きなかった。Sさんは初対面であったが、同じ部のOBということで親しくなれた。

  浜松で10月に行われるOB会までには、時々集まって練習し、仲間と楽しいOB会にしたいと思う。久々にバンドをやるなんて夢のようだ。わくわくする。

(日記:昨晩は医大で泊まった。朝、バナナを食べて帰宅。自宅で朝食を食べた。その後、事務所の掃除と楽器の練習。午後1時半に福井大学系音楽部の後輩のKさんとSさんがやってくる。10月のOB会の相談などをした。途中で、楽器の練習もした。最後に、そば屋へ行って別れた。とても楽しい時間を持つことができた。)

 
 

今こそ望まれる「エリート」の出現

12 5月

真の「エリート」不足の日本
  「エリート」という言葉が曖昧になっている。現在は、単に学力試験で成績がよかったり、学歴がよい者に対して「エリート」という言葉を使っている場合が多い。。

  エリートの本当に意味は、ラテン語からきているようだ。「神に選ばれた者」すなわち「自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くせる人」を意味する。

  自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くすということに対する価値を認めることが少なくなってきているのではなかろうか。

  とにかく、ほとんどの人が、「自己中心」的である。政治家の多くは、国家のためというよりは、先ず自分のため、そして、次は党のために行動をしているように思われる。

  学者もまた、そのような人が少なくない。「御用学者」といわれるたぐいの人が多い。それと、同時に、無責任な「評論家」的な発言をする人のなんと多いことか。

原発に対して誰が一番安全を叫んでいたか
  今回の大震災により引き起こされた原発事故に対して、こんなにも沢山の原子力関係の研究者がいたのかと驚くぐらい、連日。テレビで自説を述べている。

  その中で、「安全です」という言葉が多くの学者の口から述べられている。どうも、これまでのいきさつを考えると、「安全である」のではなく、「安全であるべきだ」と先に結論があって、それにあわせて発言しているように思われる。

  「原発が、安全である」と、政治家も、電力会社も、学者も、これまで一般国民に対して説得してきたようだが、素人の私が考えても、まだまだ制御不能のエネルギーでないかと思われる。

  というのも、これまで大小様々な事故がそれぞれの原発で頻発している。しかし、原発の危うさを声高に言えない雰囲気が日本にはあるようだ。

  勇気を持って、「原発の真の姿を国民に示すことのできる学者や政治家が出てくる」ことを願う。それから、危険な原発で働く人達の、実態はどうだろうか。健康に問題がないのだろうか。

  「七次請け」、「八次請け」という言葉があるように、かなり金になる職場なのだろうか。金になるということは、危険であることの裏返しではないのか。単純に批判できないが、産業のない地区に原発が集中することだけは避けなければならない。

  バランスある日本を築くためにも、真のエリートが現れることを願う。今のように、自己中心的な人間が増え、快適さ、金、効率だけを求めて、時の政府に迎合するような人達が増えれば、日本ノ行く末が心配だ。

  他人のために身体を張って行動できる人間に価値を認めるような世の中をつくらなければならないと思う。原発事故で、全ての国民の真価が問われているように思う。

(日記:昨日病院で泊まった。病院の付添用のベッドは幅が5、60cm位だろうか。寝返りも満足にできない。私は、二日間だけ病院に泊まるつもりだ。 しかし、東日本大震災で被災して避難している人達は、2ヶ月を過ぎた。想像を絶する苦労を強いられておられるのだろう。肉親のこと、自宅、職場などを考えると、明日が見えない人が多いだろう。朝食を済ませて一度自宅へ帰りたいと思ったが、、食堂がなかなか開かないので、自宅へ帰って朝食をとることにした。その後、家庭菜園の支柱立て、植え替えなどの作業を行った。午後は、短時間、バンドのカラオケ作り。そして、夕方再び、病院へ戻った。)