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Archive for the ‘未分類’ Category

次世代育成は幼児期から

03 3月

子どもは大人の背中を見て育つ
  地域の時代を担うのは、紛れもなく子どもたちである。しかし、その子どもたちを育てるのは大人であることも間違いない。その指導は大人にかかっている。大人の背中と言い換えてもよいかもしれない。

 しかし、その大人が、子供時代に当時の大人からそれなりの指導を受けていなければ次世代は育てられない。核家族は、こうしたリレーが上手くできないということになる。ということは、大人も子供も同時に、自分自身を磨き続けなければならない。

 といっても、特別なことをすることではない。社会人としての常識を身に付け、それなりに郷土への愛着を持てばよいのではなかろうか。子供に何かを言う前に、自分から何事も始めればよいのではなかろうか。

 あいさつを例にとれば、子どもたちにあいさつの大切さを指導するのではなく、大人自らが、誰に会っても爽やかなあいさつを交わすことから始めればよいのではなかろうか。その背中は幼児期の子どもたちにも伝わるはずである。

  こうして、あいさつをすることを習慣化した子どもたちが、それを続ければさらにその次の世代もそのことを繰り返すはずである。昔は、地域でそうしたことが次から次へと自然に伝わったのではなかろうか。

  私が役所へ移った平成13年頃から3年間ぐらいは、市長は職員に対して「あさつしなさい」と口癖のように言っていた。そして数年後にあいさつがようやく定着したように思う。一端定着すれば、それが次の世代へ伝わっていくのではないだろうか。

園芸講習会『みんなでつくろう!すてきな花壇」で花上を終わりほっとしたひととき。

(日記 ◆午前中、手紙を書いていた。◆午前11時から仏母寺の役員会が開催された。私も充て職で役員になっている。私の村のほとんどが浄土真宗だが、この仏母寺は曹洞宗である。しかし、村の先人がこの寺を片瀬に移し、今日まで守り続けてきたのである。しかし、近年、この寺の運営が困難になっている。それは参拝者が減少しているからである。私も役員の一員である以上、今月行われる総会でこうした状況を皆さんに伝えたいと思っている。それと同時に、今月の30日に行われる『涅槃団子撒き』には、是非とも子供達が多く参加できるようにしたいものである。私たちは、子供時代からこの行事に親しんできている。しかし、途中で長年中止になり、3年ほど前から復活した行事である。経験のない子供の保護者が沢山いるのである。私たち、経験者が孫世代である今の子どもたちに伝えていかなければならないと思っている。◆午後1時半からは県主催の園芸講習会『みんなでつくろう!すてきな花壇』が行われた。しかし、この講習会の人集めは親切さを欠いていた。公民館で行われた区長会で知らされたが、全体像がはっきりしないので、「これでは区民に伝えられない」と問題になったのだ。最初の案内には一切講習会の全体像を示していなかったからである。今日初めて分かったことだが、この講習会は、6月に行われる県の『緑化大会』に主催者が沢山の花のプランターを並べたいので開催したものである。そこで、今日は、1㎝ほどに育った小さな苗を一人が24個のポットに植えるのだ。私は、配られた紫サルビアを植えた。今日はここで終わりだ。これらのポットは一旦県のグリーンセンターの温室で育て、4月中に、再び講習会を開き、プランターに移植させるのだ。そして、受講生はそのプランターを自宅へ持ち帰り、育てるのだ。そして、6月には、それらを恐竜公園へ持って行くのだ。行事が済んだら、持ち帰って地域に飾ってほしいというものだ。案内には、そうしたことを一切書かずに、講座生を地域割り当てで動員したのだ。私の隣にいた人もそのようなことを一切知らずに動員されてきたのだ。最初から、「緑化大会を花で飾りたいので、協力してほしい」と言えばよいものを、それらを一切明かさずにこうした講習会を開設するやり方は、好ましいことではない。私は、最初からはっきりと協力を申し出られても参加するつもりでいたのでなおさらだ。)

 
 

どんなに忙しくても……

02 3月

区民に望む
  私たちは、自分の気の向かないことを断るのは簡単だ。「時間がない」、「金がない」、「人手がない」などと言えば大概のことは断ることができる。このような調子でやるべきことから逃げていると、やりたいことも見つけられないのではないか。

  どんなに忙しい部活動をしている学生でも、1年365日間のうち、2,3時間ぐらいは地域のため、または学校のために奉仕的な活動をしてほしい。テレビを見る時間があるなら、携帯を操る時間があるのなら。

  子供であろうと、若者であろうと、高齢者であろうと、男であろうと、女であろうと、区の年中行事のうち一つぐらいは、真剣に取り組んでみてほしい。時間にして、せめて一日ぐらい、頑張ってみてほしい。

 今日は、区の3月の定例役員会があった。今年の決算を考えながら、来年に向けていろいろ話し合った。「おかしなことは指摘してほしい。」とお願いして、いろいろ話し合った。三時間半、区のことについて語り合った。

 自分の住む地域なんだ。一年に一度ぐらい、区のために頑張ってほしい。それには「忙しい」ことを理由にしないでほしい。真剣に取り組めば、何かが得られるはずだ。最初に考えていたこととは違う方向に進み、時には充実感も得られるはずだ。

(日記 今日は終日、区の会計処理。午後7時から、3月定例役員会。今年を締めくくりながら、来年に向けて頑張るときだ。昨日は男の子、今日は女の子が二人、『かたせ瓦版』に載っている「違い探し」の答えを持ってやって来た。子どもたちには、粗品として学用品とお菓子をプレゼントした。今日は、保育園の年長組と小学2年生の女の子だ。あいさつから始まり、花育て、そして、「違い探し」などですっかり親しくなった。このまま大きくなってほしい。そして、どこで会ってもあいさつのできる関係を続けたい。よその子も、みんな村の子だ。立ち話ができる子を増やしていきたい。)

 
 

地区の活性化と予算

01 3月

「例年通りです」は水戸黄門の印籠か
  現役の頃の話だが、職員会議でいろんな計画が出されるが、「例年通りです」というと、あまり意見が出ず、簡単に決まってしまう。みんな安心してしまう。しかし、こんなことを繰り返していると、物事はどんどん停滞してしまう。

  これは職場ばかりではない。どこでもそうだった。そのうちにマンネリ化してしまう。何をやっても盛り上がらず、そのうちに参加者も減ってしまう。地区の行事なら、何とかしなければと、抽選会などをやって人を引き留めようとするのだ。

 我が地区も同様である。区民運動会に抽選会があり、秋祭りにも抽選会がある。最近では収穫祭にも抽選会がある。もう少し大きな範囲で考えると、我が猪野瀬地区の町民運動会にも抽選会があり、町民文化祭にも抽選会がある。

盆踊り研究のために八尾へ出かけた頃(おわら資料館の前で)。

  そして、多くは模擬店などがある。どれもこれも同じようなパターンになってしまう。抽選会や模擬店が悪いというのではない。これは車で言えば、片側の車輪である。もう一つの車輪は、祭りそのものを盛り上げることではなかろうか。

  例えば、徳島の阿波踊りが人を惹きつけるのは、抽選会があるからでも、露天店があるからでもなかろう。踊りを競い合う各地の、各団体の「連」があるからであろう。見応えのある踊りが人を惹きつけるのだと思う。

  これは、参加できる郡上八幡の祭りでもそうだろうし、見(魅)せるおわら「風の盆」もそうであろう。抽選会につられて八尾に行く者はなかろう。たとえ小さな村祭りでも祭り本体を盛り上げる努力は欠かせない。

 我が片瀬でも、最近3年ほど前から、少しずつ祭りを盛り上げる努力をしている。いよいよ年度末の3月だ。小さい村なりの予算を組まなければならない。たとえわずかな金額でも、行事の盛り上げに、繋がるようにしたい。

 それと同時に、子どもたちの出番を増やしたい。子どもたちの愛郷心を育てたい。地域での種々の行事は子どもたちを育てる教育の場でもある。子供にとっては、指導性を養うチャンスでもある。創意工夫を凝らすチャンスでもある。

八尾のおわら踊りを研究して作った『勝山よいとこ』とその歌のCD。

 楽しみながら、いろんなことを学ぶチャンスである。それには、私自身がいかに楽しめるか、そして子どもたちといかに楽しむか、これが今の私の課題である。楽しくて苦しい課題でもある。明日は役員会。このことをアピールしたい。

(日記 終日、区の会計処理。その中で、区費を少しでも安くできないか、一方では、地区の活性化を図れないか、そんことを考えながら、一日を過ごした。夜、前区長が我が家へ来た。2時間ほどいろんなことを話した。いかに地域の力のベクトルを合わせるかが我が村の課題だ。二つの力は、反対方向に引いたら、一歩も動かない。いろいろ話したが楽しい時間だった。)

 
 

毛筆で書かれた文書のよさ

28 2月

軽い印刷文字
  私の周りには、役目柄、毛筆で書かれた古文書が沢山ある。区内の総会議事録から事件の顛末を書いた古文書など沢山ある。黒々とした墨の文字が今も鮮やかである。そして、押された判子の朱肉の色も鮮やかである。

  我が地区でも最近はパソコンで議事録を書いているが、有り難みは全く感じられない。しかし、両者にはそれぞれメリット・デメリットがあるように思う。

区の会議録。私にはやっと判読できる限界だ。

  毛筆の特長としては、簡単には改ざんできないような雰囲気がある。一字一句心を込めて書いているように思われる。しかし、書いている人間のくせが出て読み辛いのが欠点であろう。

  人にはそれぞれ字の崩し方に個性があるので、達筆になればなるほど素人には読みづらい。前後の文章や文意から判断しなければ判読できない。書き直し(校正)ができないので、時々、主述の関係が曖昧な場合も少なくない。

  パソコンの文字は、ほとんどくせがなく、文字は読みやすい。しかし、文章を何度も簡単に書き直すことができるので、読みやすい文章にすることは容易だが、どれが本物なのか分からないという欠点がある。

  達筆で書かれた記録などは、それ自体芸術的であり、ほれぼれすることもある。内容もさることながら文字の美しさには目を見張るものがあるからである。そして、そのような文字を読み下す人は学があるように思われる。

  パソコンの文字はそれに反して全く機械的である。パソコンで書かれた文字がどんな文字かは明白だが、知識が不足していると判読できない場合がある。しかし、会議録程度の場合にはそのようなことはあまり起こらないだろう。

 私も、筆で書いてみたいという願望は常に持っている。しかし、練習する時間がないので、筆を使うチャンスは最近激減している。自分の能力と偶然性から思わぬ効果のある文字が書けることを期待して毛筆を使ってみたい。

(日記 午前中は、区の広報誌『かたせ瓦版』の編集作業の詰め。午後は、区長代理に我が家へ来てもらって、区の決算総会に向けて帳簿整理を行った。その後、『かたせ瓦版』をコピーし、他の配布物と共に、班長宅へ配った。一月に二回瓦版を発行しているが、今日が一番ほっとする日だ。)

 
 

地区の子供との接点

27 2月

子供が興味を引くかどうか
  私は根本的には人間が大好きだ。それは自分の生い立ちに影響があるかもしれない。早くから両親をなくしたために、結婚するまでのある時期、一人暮らしとなった。

  頼りになるのは、信頼できる仲間や先輩だけだった。そんな中で、赤の他人でありながら、親父代わりになってくれそうな人、兄貴になってくれそうな人、姉になってくれそうな人が周りにたくさんいた。

  また、前向きに生きていれば誰とでも友達になれるとも思っていた。そんな中で、バンドをやっていたので、仲間は常に自分の周りにいた。音楽のおかげで救われたとも言える。

  さらに、和太鼓を始めたので、子どもたちとも接点ができた。最初は自分の集落で始めた太鼓が勝山に広がり、福井県に広がっていった。今私のところで太鼓を練習している一番小さい子供は、小学1年、2年生だ。この中には村の子はいない。

 村の子との接点は、先ずあいさつ運動からだと思っている。引っ込み思案であいさつできなかった子が、今では進んであいさつしてくれるようになった。花の水やりをほぼ毎日やっていたので、子どもたちと接する機会も増えた。

明日発行の『かたせ瓦版』に「七つの違い探し」として掲載予定の絵の一枚。正解の小学生には粗品進呈だ。

 また、月二回発行する『かたせ瓦版』のうち、第4木曜日のものには小学生対象に『七つの違い探し』を掲載している。そして、違いを見つけた子には、ささやかながらお菓子と学用品をプレゼントしている。子どもたちが瓦版片手にやって来る。

 そんな中で、何か一言は話すことができる。こうして話すことができる子供が少しずつ増えている。まだ、一つ奥の手があると思っている。それは紙芝居だ。これはまだ自分の集落では披露していない。今年は、自分の集落でもできたらと思っている。

  それに、算数や高校数学を仲立ちにして、子どもたちと接点ができないかを考えている。そのために、子どもたちが年齢を超えて興味を持ってくれる何かを提供したいと思っている。

  少しずつ、それができていると思っている。会えば、あいさつだけではなく、立ち話ができる関係になりたいと思う。そんな子が小・中・高校生にできつつあると思っている。こうした子供が増えれば人生は楽しくなる。

(日記 午前10時より、まちづくりの話し合いのために、公民館へ行った。前向きの人間とまちづくりに関する話をするのは楽しい。昼までに終わるつもりが飯も食べずに午後2時近くまで話し込んだ。今年は、猪野瀬地区でもまちづくりのアクションを開始したい。家内が昨晩から福井へ行っていないので昼はソバ屋で外食。ソバ屋の奥さんから私の作った『勝山よいとこ』の踊りを教えてほしいと頼まれた。この民謡だけは、見(魅)せる民謡のつもりで作ったものだ。ありがたいことだ。午後は、もっぱら『かたせ瓦版』作り。夜は、『七つの違い探し』の絵を描いているだけで終わってしまった。)

 
 

恐竜はなぜ滅んだのか?

26 2月

自分の身体をコントロール不能
  最近、ロシアに隕石が落下し、大きな被害を与えた。その隕石によって恐竜が絶滅したと言われている。隕石の衝突は想像を絶する破壊力があるという。恐竜を絶滅させた隕石は、直径が10キロを超え、重さ1兆トン、地球に衝突するときの秒速30キロメートルで、衝突時の温度は百万度以上にもなったそうだ。

   このとき、ほとんどの恐竜は絶滅したが、全ての生物が絶滅したわけではない。ここで生き延びた動物の中から人間が進化してきたのだから。大きな身体の恐竜は、自分の身体をコントロールできなかったのだろうか。

我が勝山郷土研究会のホームページ『恐竜博士になろう』。

  さて、ここまでは恐竜の話。これを国家に置き換えてみるとどうなるだろうか。大きな国家が自国を生き延びさせるのは簡単ではない。恐竜が少しの温度変化で絶滅したように、国家もどこかそのようなところがあるように思えてならない。

  大きな身体の恐竜(国家)が生き延びるために、餌を食べなければならない。恐竜同士は、常に餌の奪い合いをしているのだ。少しでも良質な餌を獲得しようとしてうろつき回っているようだ。

   しかし、ギリシャ恐竜は、生きるのに四苦八苦している。中国恐竜は、餌があるかもしれないが、餌場の環境が悪化している。それと同時に身体が大きいのでさらに餌場を広げようとして隣近所の恐竜と常に争いを繰り広げている。

  我が富士山恐竜はどうにか生き延びているが、アメリカ恐竜がTPPという餌場を求めて我が冨士山恐竜の餌場場へ侵入してきそうだ。富士山恐竜は、今のところ体力が弱っているが、元気を回復できるだろうか。阿倍調教師の思うように冨士山恐竜は生き延びられるのだろうか。

ホームページ『恐竜博士になろう』は http://dino.iexam.jp/ をクリック。

  三種類の餌を食べて、TPPという餌場でアメリカ恐竜と共存していけるのだろうか。本物の恐竜が絶滅したように我が冨士山恐竜がそうならないように祈るばかりだ。ここが正念場だ。

中年会と『役員との語る会』でアンケートを書く会員。

(日記 午前中、大正4年以来の区の総会会議録を読んだ。そして、午後から『かたせ瓦版』の編集を始めた。午後7時から、中年会と『役員との語る会』に出席。楽しく話し合うことができた。いい話も聞けた。)

 
 

今も昔も、虫や鳥獣の害に苦労

25 2月

市の『鳥獣害対策研修会』に参加して
  午後七時より、勝山市の『鳥獣害対策研修会』に参加した。県の鳥獣害対策室の主任N氏が、『正しく進める獣害対策』として、主に猪やニホンザルの獣害対策について話をしてくれた。勝山でも、他人事ではない。

  我が集落でも、『農事組合法人かたせ』の山際の田んぼには電気柵を張って被害を少しでも減らそうと努めている。また、山際の集落は獣害に相当悩まされているようだ。

  「猪については、数を減らせばよいというものではない」という話があったが、なるほどと思った。銃や檻などを作って個体を減らしても、残った個体の餌がかえって豊富になり、繁殖力の旺盛な猪はどんどん子供を産んで個体はかえって増えるということだった。

  これは嶺南での経験で分かったことらしい。それよりも、餌を提供しないことが大切だということだった。餌を与えるということは、猪の繁殖を手伝っているようなものだとのことだった。

 ところで、こうした鳥や獣による農業被害は何も今に始まったことではないようだ。今、今週、発刊の瓦版の参考にと、区の議事録を読んでいるのだが、その中には次のようなものがあった。

今日の『鳥獣害対策研修会』のテキスト。

◆イナゴの卵採集の件◆(大正14年の初寄り合いでの決議事項)
・イナゴの卵、一戸当たり1升(1.8㍑)を義務採集とする。一升当たり四十銭で区が買い取る。
・最終期限は、6月15日とする。
・義務数量を採集しない者に対しては、区が1円を徴収する。
・採集した卵は、煮え湯に浸し十分殺し、区長宅へ持参すること。
 
◆モグラ捕獲の件◆(昭和3年の初寄り合いの決議事項)
・モグラは一匹十銭で区が買い取る。

  確かに、私の子供時代、「イナゴ」は、ありとあらゆるものを食い荒らしていたように思う。トウモロコシの葉にもたくさん捕まって葉を食い荒らしていたし、稲にもたくさんのイナゴが群がっていた。その被害たるや半端ではなかったと思う。

  私たちの子供時代には、イナゴを捕まえるノルマがあった。一升瓶にいっぱい捕まえたのだ。焼いて人間が直接食べることもあったが、多くは、鶏の餌にしたものだ。

  私たちの集落では、イナゴの害を少しでも減らそうと、卵を取ることを義務としたのだ。今も昔も、こうした悩みは同じようだ。ところが、イナゴに関しては、「ホリドール」という強力な農薬が出てあっという間に激減してしまった。しかし、人間にも大きな被害があって後に使用禁止になった。このことは今も覚えている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「ホリドール」とは(ネットより)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「ホリドール」は、無色・無臭の油状物質で、きわめて強力な殺虫作用を示し、稲作害虫に対する効果が大きい。1951年にバイエル社から「ホリドール」という商品名で日本に輸入され、多量に使用されたが、人畜に対する急性毒性と著しく高い欠点を有し、さらにその後の開発研究によって低毒性の有機リン酸エステル類が続々と開発されたため、日本では1969年にその製造が中止され、1971年には使用禁止となった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

区長と農家組合長を対象に開催された『鳥獣害対策研修会』(於:すこやか)

(日記 午前中、『瓦版』発行のために、大正12年からの村の初寄り合いの議事録を読んでいた。いろいろ興味のあることが書かれていた。昔も今も、区の運営には苦労していたようだ。今と異なるのは、年に何度も総会を開催していたことだ。午後も作業を継続。午後7時より、勝山市の『鳥獣害対策研修会』に参加した。)

 
 

快晴の横浜から雪の左義長・勝山へ

24 2月

春の来ない冬はない
  横浜は快晴。午前9時過ぎに息子の車で「あざみ野」駅へ送ってもらった。駅で孫達と別れることになったが、次女が泣き始めて長女も泣き、みんなもらい泣き。別れは本当につらかった。車が見えなくなるまで息子の家族を見送って新横浜へ電車で移動。

横浜を発つ前に家族全員で記念写真。

  新幹線で名古屋を過ぎると雪が見えた。そして米原で乗り換え。鯖江あたりは全く雪がなかったが、「えち鉄」で勝山に近づくにつれて雪が見え始めた。左義長にしては多い雪だった。

 そして、午後3時半に帰宅した。早速、正月の締め飾りを集めて左義長の行われている本町へ持って行った。その後、家内と二人で、少し左義長を見て回り帰宅した。

  夕方、芳野の櫓のリーダーであるOさんに誘われて、芳野の櫓へ出かけた。そこで、Oさんが指示して、私が40数年前に作曲した『勝山小唄』の左義長バージョンを披露してくれた。

 演奏を始めるに当たって、今から新曲『勝山小唄』を演奏すること、そしてこの歌を私が作ったことを紹介してくれた。私も、デジカメで動画を撮ることにした。

 そして、さらに、  「芳野地区からこの『勝山小唄』を勝山全体に広げたい」と紹介してくれた。皆さんがとても楽しそうに演奏してくれた。非常に盛り上がっていた。ありがたかった。

『勝山小唄』を踊ってくださった芳野区の皆さん。「ありがとうございました。」

(日記 横浜の息子の家を午前9時過ぎに出て、自宅に午後3時半過ぎに着いた。その後『左義長まつり』見学。そして、どんど焼きを見て午後10時に帰宅。今日は、本格的に雪が降った。)

春を呼ぶどんど焼き。いよいよ勝山にも春が来る。

 
 

孫の誕生会

23 2月

ついでに私もお相伴
  今日は、最初の孫(息子の長女)の誕生日。私の誕生日とは3日違い。どうしても横浜で祝いたかったので、この日に合わせて東京旅行を企画した。今日は旅行の4日目めだ。昨日は、息子の次女が「爺ちゃんと一緒に風呂に入ろう」ということで、一緒に風呂へ入ったが、きょうは、「爺ちゃんと一緒に寝よう」ということになっている。

側面に「70(歳)」と描かれたケーキのロウソクの火を消す八歳の誕生日を迎えた孫(長女)。

  誕生日は、子どもたちの成長を見る機会でもある。ろうそくに火をつけたケーキが登場。そこには、70の文字と8の文字が並んでいる。ケーキにはそれぞれ二人に対して「たんじょうび、おめでとう」とあった。三日前の私の誕生日も祝ってくれたのだ。

  古希祝として、長女の家族、次女から、そして、今日、長男の家族にそれぞれ祝ってもらったことになった。その後、パパ・ママから孫へのプレゼント。私達も、孫にプレゼントを送った。 最後に、妹からの折り紙のプレゼント。長女はとても嬉しそうだった。そして、私にも長男族からのプレゼントがあった。

  その後、会食。久々に賑やかな食事だった。子どもたちは、どんどん健やかに成長する。かわって私たちは、年を取っていく。時間だけは誰にも平等に進んでいくのだ。今、私のできることは、子どもたち、孫達に何ができるかを考えながら、自分のやりたいこと、地域のためにすることをやっていきたいと思う。

(日記 午前中は、子どもたちは、次女の新体操の体験会に出て行った。留守番は、私達と息子の3人。息子の仕事のことや、自分の夢などを話し合った。まだ、私にはすることがあると思っている。今年の私のキーワードは「算数・数学」だ。昼は全員で買い物に出て外食。夕方

プレゼントに囲まれてうれしそうな孫とプレゼントされたジャケットを着て喜ぶ私。「これを来て歩くぞ!」

は、孫の誕生会。私もお相伴に預かる。色々話せたし、息子の仕事の一部を見ることができたし、孫の誕生会に出席することもできた。福井では、長女家族と温泉へ、そして東京では、次女に会えたし、横浜では、長男家族とも会えた。思い出深い東京旅行となった。) 

 
 

人と人とのつながり

22 2月

電車内で思うこと
  今日は次女のアパートを出てまず電車で渋谷へ移動する。都内では、電車網が発達している。それらをうまくつないで目的地へ移動するのだ。田舎のように待ち時間を気にする必要はない。

渋谷をぶらぶら。

 電車の中で、思うことは、まず多くの者がイヤフォーンをして音楽を聴いていることだ。そして、器用にアイフォーンを使っている。互いに、挨拶を交わすこともない。ひたすら、画面に夢中になっている。

  多くの人が行き交っているが、互いに挨拶などを交わすことはない。みな目的地に向かってひたすら移動しているだけようだ。自分の世界に浸っているように見える。音楽を聴き、アイフォーンでゲームをしている高校生もいる。

  電車の中では、それぞれが積荷のごとく関わることはない。これが、都会の暮らしやすさなのだろう。表へ出ても、知らぬもの同士で、それらの目を気にすることはない。

  年がら年中、“”旅の恥はかき捨て”の心境だろうか。そんな気持ちで、ここ二日間過ごしてきた。しかし、電車の中では、いくつかの親切な人に出会った。
  二人がそろって乗車し、家内だけが座ると、さっと私に席を渦ってくれる若者がいた。男性もいたし、女性もいた。渋谷から新宿への電車の中でも、家内は席を譲られた。こうした人が入る限り、都会もまだ捨てたものじゃないと思う。

  横浜への移動中、事故が発生して電車が途中の駅で運転停止になった。私は、後3駅を残して電車から下ろされた。いつ、電車が動くのだろうかと心配になった。

  次から次へと電車が到着し、すべての人が電車から、降ろされ、多くの人たちが構内にあふれ、自動改札はストップし、ホームと外との出入りが自由になってしまった。このような中でも、親切な人がいて、いろいろ親身になって心配してくれたりした。代行バスなどの切符も配布されたが、私たちは、事故処理が終わるまで、駅で待つことにした。再開の時間を聞きつけて、知らせてくれる人もいた。

長男宅で孫達と。クリスマスプレゼントのドレスを着てくれた孫(次女)。

  冷たそうに感ずる都会の人の動きの中でも、親切な人はいて、いざというときには、言葉をかけてくれたり、親身になって心配してくれたりするものだと感心した。 これが都会での生き方かもしれないとも思った。普段は無関係で過ごしているが、時には、親切な者がいて、他者を助ける。しかし、都会では老後はどうなるのだろうかと少し気にもなった。
息子の家でテレビを見ていると、NHK特集で、少子高齢化社会の問題点を取り上げていた。特に、問題となっている地区は、田舎から都会へ出、都心から離れた郊外で一戸建てを買った人たちの集っている地区だ。

 その人たちの子供たちが、都心へ移り、空き家がどんどん増えている問題が取り上げられていた。田舎が過疎化するのとほとんど同じ問題だった。他界の中心部以外はすべて過疎化するのだろうか。いまこそ、知恵の働かせどころだ。

(次女のアパートで目を覚まし、電車で渋谷へ移動。あちこち見て回り、横浜へ。今日は長男のアパートへ泊まるのだ。しばらく休んで、5時から始まる長女の新体操を見学に行く。前から思っていることだが、身体の柔軟性や、ほかの競技の基礎力を養うにはとてもよい運動だと思っている。)