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Archive for the ‘未分類’ Category

和太鼓の後期授業始まる

25 10月

後期授業開始
  私は、今年の5月から週一回だけ北部中3年生の選択音楽で和太鼓を教えている。高校生に数学を教えていたのは、今から12年前であるから生徒の前に立つのは本当に久しぶりであった。それでも、やはり生徒の前に立つことは楽しい。

  そして、今日は後期の第1回目の授業である。前期は16人の女生徒であった。メンバーの入れ替えがあったが、後期も16人で、そのうち12人が残り、4人が新しいメンバーと入れ替わった。

  例によって、新メンバーには自己紹介をしてもらった。名前や住所の他、趣味を尋ねた。目の前には、中学生がいる。私にも中学生時代はあったが、何もかも今とは異なる部分が多かった。まだまだ日本は貧しい時期であったように思う。

  私のクラスの人数は、56人であった。今なら、とても一人では担当できないだろう。最近は、中学校の1学級の定員が30人に向かっている。それでも、昔の1クラスの人数が多いとは思わなかった。当時の私は漫画家になりたくて明けても暮れても漫画を描いていた。

最初の授業で言いたいこと
  私は、最初の授業で子供達に言いたいことがある。一口で言えば、

 DREAM & ACTION

である。夢に向かって行動してほしい。自分の目標なり夢に向かって、行動すればわずかでも夢に近づくはずである。夢は行動を伴わなければ、いつかは幻となって消えてしまうだろう。若い中学生の皆さんには、将来に対する夢や希望を胸に抱き、毎日の学校生活を送ってほしい。

  しかし、モノがあふれた今の時代は、夢を持ちにくいかもしれない。何もかもが世の中にありすぎて、子供達は夢を描きにくいかもしれない。しかし、自分のやってみたいことは、何かはあるはずである。

  たとえ、小さくてもそれぞれが自分の夢を持ち、それらに向かって努力してほしい。たとえ夢に到達しなくても、努力することで人生は充実するはずである。今の私でさえもいくつかの夢はある。ありすぎて、何から手をつければいいのか、悩むときがある。

  初回の授業に当たって、生徒達に向かって「夢を持ち、それに向かって行動してほしい」とメッセージを送った。そして、和太鼓の練習に入った。生徒達とそれなりの人間関係ができて、楽しく時間を過ごすことができた。

(日記:午前中は数学のホームページ作り。途中で歯医者へ行く。午後は、北部中学校で和太鼓指導。帰宅してからは、部屋の整理。長い間探していたモノが見つかった。整理をしておいてもモノがありすぎて、どこに何をおいたかがわからないと必要なときに使えない。そんなことが多い今日この頃である。夜8時頃、Y君がパソコンを直しに来てくれた。)

 
 

家庭菜園あれこれ

24 10月

収穫を終えた野菜の後始末
  秋も暮れて冬が近くなると、家庭菜園も終盤戦。我が家の畑は、大根や蕪などの菜っぱ類だけになっている。トマトやサツマイモ、豆のツルなどは、アスファルトの上で乾燥させておくのだ。そして、日を見て早朝燃やすことにしている。昔は自由に燃やすことができた。そして、灰は再び畑へ返すのだ。

  ここ数日、天気がよかった。乾燥させておいたサツマイモのツルやトマトのなどもからからである。6時過ぎに起きて、事務所横の家庭菜園へ出かけた。そして、手際よく火をつけて燃やした。近くの人たちが洗濯などをする前に、燃やしてしまわなければならない。灰が飛ぶからだ。

  また、雑草はコンポストに入れて堆肥にしている。雑草は、虫や病気とともに、家庭菜園の最大の敵だ。私の知り合いも、野菜作りに力を入れているが、雑草に悩まされているという。私は、とにかく、マルチで雑草と戦っている。

  それでも、畑の畝などからは、容赦なく雑草が伸びてくる。特に、蔓性の雑草は取っても取っても地下茎であちこちから顔を出すから始末が悪い。マルチの穴からも顔を出すので本当に困る。

  今は、我が菜園では、大根、カブラ、野沢菜などが少しずつ大きくなりかけている。その都度、間引いてはアゲと一緒に味噌煮にして食べている。緑を食べることは健康的にもよいだろうし、おいしい。

ノンオイルで野菜をたっぷり食べられる「タジン鍋」。ふたのてっぺんに穴は開いていない。

タジン鍋で野菜たっぷり
  一月ほど前、エルパの中を歩いていたら、妙な形のふたのついた鍋を見つけた。そのときは、おかしな鍋があるなあぐらいにしか考えていなかった。その後、長女の家へ米を持って行った際に、娘に聞いてそれは「タジン鍋」であることを知った。

  野菜を入れて蒸すための鍋だということだった。早速、帰りに、エルパヘ寄ってその「タジン鍋」を買った。鍋の中へたっぷりと生野菜を入れてその上へ肉か魚を入れて I Hの上に置けば、短時間で野菜は蒸し上がるのだ。そして、好きなタレで食べるのだ。

  油を使わないでたっぷり野菜を食べることができるのだ。生野菜は健康によくても、そんなに食べられるものではないが、「タジン鍋」を使うとたくさんの野菜を食べることができる。サツマイモなども入れておけば蒸し上がって美味しい。自分で作った野菜もたくさん食べれる。

  健康を考え、野菜中心の食事にすべきだと思っている。最近少し体重が増えて困惑している。退職直後は、毎日汗をかくほどいろんなことをして、体重は順調に減ってきた。しかし、最近はそんなに汗をかくことがない。野菜と運動で再びダイエットに挑戦だ。今週から妻のリハビリに付き合ってプール通いも始めたい。

(日記:早朝、野菜くずの処分。午前中、家の掃除。午後、寺より報恩講回りのためにお坊さんが二人来られた。その後、うまいもん祭りを見に出かけた。野外でよさこい踊りを見た後、手打ちそばを食べて帰ってきた。3時頃から、久々に数学のホームページ作り。ようやく、16問中の6問を完成させた。)

 
 

孫は親子の鎹(かすがい)

23 10月

孫達との別れ
  今日は勝山へ帰る日。例によって昨日も、孫達と風呂に入り、体や頭も洗ってやった。孫達は、「じいちゃんとばあちゃんが勝山へ帰る日」だと朝からわかっているようだ。長女は、「今は一緒にいるから握手ができるね」と、家内と抱き合って喜んでいる。パソコンでの対話では、顔も見られるし、話もできるが、握手はできないからだ。 

孫達と別れを惜しんだ新横浜駅

  息子は、我々を車で新横浜まで送ってくれるという。息子親子4人と我々合わせて6人が、新幹線の新横浜駅へ向かった。駅で、最後の食事をしようとしたが、朝たくさん食べたので、誰もあまり腹が空いていなかった。駅のレストランに入って軽いものを注文した。

 

  そして、孫達と別れた。孫達が、我々夫婦と息子夫婦の鎹(かすがい:二本の材木をつなぎとめるための両端の曲がった大釘。 転じて二つのものをつなぎとめる役をするもの。)になっている。 

  両親にとっては、“子は鎹”と言われるが、私たち祖父母にとって“孫は鎹”になっている。孫達が我々になついてくれるので、私たちは息子の家へ行きたくなる。今回の東京行きでも、観光よりも孫達に会うことの方がはるかに楽しかった。 

  その後、我々は、午後1時頃の新幹線に乗って、米原へ向かった。そして、白鷺に乗り換え、午後4時頃福井へ着いた。そして、えち鉄で勝山へ着いたのは、5時半頃だった。新横浜からは、自宅まで約4時間半ほどかかった。 

I podで津軽演歌に集中
  新横浜から、福井までの3時間あまり、I podでずっと一つの演歌を聴き続けていた。それは、島津亜矢さんの『流れて津軽』であった。私は、今、津軽演歌を作りたいと考えている。そのために、津軽三味線も習っている。 

  一曲を聴き続けた理由は、編曲を勉強するためである。プロは、どこでどんな楽器を使うのかを学ぶためである。尺八をどう使うのか。三味線をどう使うのか。オーケストラをどう使うのかなどを勉強になることが多い。 

 寝ていても、目が覚めると、頭の中を詞がよぎり、メロディーが浮かぶ。しかし、まだ形にはならない。
♪ 肌を刺す風 地を這う吹雪 ……♪ 

  いつになったら形になるだろうか。今年中には、形にしたいものである。  

新幹線の中から見えた富士山。外国人旅行者も盛んにシャッターを切っていた。

  

 
 
 

東京散歩

22 10月

文部科学省周辺散歩
  虎ノ門近くのホテルで起床。10時チェックアウト。歩いて文部科学省へ。周辺を散歩する。11時半に文部科学省へ入る。文部科学大臣出席のもと、表彰式があり、その後、『日本の教育の優れた点、問題点』と題して元文部科学大臣の有馬朗人氏の講演があった。 

有馬氏の講演内容(於:文部科学省講堂)

 

 
  その後、日比谷公園周辺を散策し、続いて、国会議事堂の周囲を一周した。警視庁による厳戒態勢が敷かれていた。田舎にいるよりもたくさん歩いて本当に疲れた。今日は、再び、息子の住む横浜へ戻って一緒に食事した。 

工事中の国会議事堂の前で

 
 
 
 

孫たちとの一日

21 10月

横浜の幼稚園の授業参観
  山間山間横浜の息子の家で一日が始まる。午前10時より長女の通う「みたけ台幼稚園」の授業参観。息子の嫁があらかじめ頼んでおいてくれたものだ。当番の仕事、歌の練習、外人講師による英会話などを参観することができた。

見学したパナソニックの『リスーピア』

有明のパナソニック『リスーピア』見学
  今日は、孫たちが楽しめる所へ行こうと決めた。そこで、長女が幼稚園から帰るとすぐに、息子の家族とパナソニックの「リスーピア」へ出かけた。理数の魅力を体感するミュージアムだった。孫たちも楽しそうだった。

 パナソニックも教育には力を入れているとのことだった。子供たちに、“理科や数学に興味を持たせる”にはどうしたらよいのか、私にとっても大きなテーマである。連日、数学のホームページを作っているのもその一環である。何とか、数学の理解を深めるのに役立つものを作りたい。

 その後、全員で夕食をとり、息子の車で虎ノ門近くのホテルまで送ってもらった。孫たちと十分に触れ合うことができた一日だった。

 
 

孫との再会とセイタカアワダチソウ

20 10月
孫たちと再会
  週末に東京で用事があるので、ついでに横浜の孫たちとの再会のために、今日、勝山を出発した。午前8時20分に自宅をタクシーで出発し、越前鉄道で福井へ向かった。しらさぎ6号で米原へ向かい、新幹線ひかりで新横浜へ向かった。その後、乗り換えて横浜線で長津田へ。そこでさらに、田園都市線で藤が丘まで行った。

  そこには、孫たちが車で迎えに来てくれてきていた。夏休み以来の再会であった。早速マンションへ向かった。しばらく、くつろぎ、夕食を食べた。孫たちは家内にべったりであった。

  長女は、勝山ではいつも我々としっしょに風呂に入り、我々と一緒に寝ていた。次女も時々は、一緒に風呂へ入っていた。今日は珍しく、「じいちゃんと一緒に風呂へ入る。」と言い出した。次女と一緒に風呂へ入り、身体を洗い、頭をシャンプーした。自分の子供にもしなかったことをしている。

  長女は、「パソコンでは握手できないけど、今日は握手ができるね」と我々との再会を喜んでいるようであった。確かに、スカイプは、臨場感たっぷりであるが、それだけに会いたさは募る。まったく孫の言うとおりであった。

  10時過ぎに息子が会社から帰ってきた。ITについていろいろ話をした。息子は、前向きになって開発に励んでいるようで安心した。息子はプロだから、私など相手にしないだろうと思うが、私の最大のライバルである。もちろん最大の協力者であるが。明日は、息子も代休を取ったので、観光など、一緒に行動したいと思う。

日本中に広がるセイタカアワダチソウ
  えちぜん鉄道に乗って一番驚いたのは、沿線の草わらや土手などに、黄色い花のセイタカアワダチソウの群落が広がっていることだった。これは、新幹線の窓からも、たくさん見られた。

藤ヶ丘駅まで車で迎えに来てくれた孫たち。遠くから手を振って私たちをあたたかく迎えに来てくれた。

  驚くことに、新横浜で乗り換えて、横浜線に乗ったときにも、鉄道沿線には、黄色い花のセイタカアワダチソウが見られたことった。手入れのしてない空き地や土手などには、どこへ行っても見られた。

  先日、新聞で、この外来植物のおかげで、日本の在来種が絶滅の危機に瀕していることが載っていた。ある地区では、集落あげてこの外来植物を退治しようとしていることも載っていた。

  危機を感じている地区と野放しにしている地区があり、はるかに野放しにしている地区が多いように感じた。実際、勝山から横浜まで行く間に、この外来植物が日本の在来種を駆逐しているように思われた。生物の多様性の観点からも、考え直さなければならないと強く感じた。

 
 

終日家の内外の整理

19 10月

庭での野菜作り終了
  午前中は、家の中の整理をした。また、自分で作ったDVDやCDの整理も行った。「自作のDVD」「自作の民謡」「自作の歌」「映画やドラマ」「教育関係DVD」「まちづくり関係DVD」「音楽関係DVD」などに分類しているが、時々分類しないと、使えなくなってしまう。

  家の中にある様々なものを捨てられたらどんなに家がすっきりするだろうかと思うが、それがなかなかできない。貧乏性が身についているからだろうか。終戦後の厳しい時代を生きてきたので、ものを大切にするということが身についてしまっているからだろうか。捨てられないので、モノを整理したり、探したりするのにかなりの時間がかかってしまう。

  午後は、家の外の整理をした。今年は、初めて家の前で野菜を作った。畑に植えた後に、知り合いからトマトと卵瓜のキンカン瓜の苗をもらったからだ。結果は、卵瓜はまあまあ育ったが、一部は何かに食われてしまった。キンカン瓜の方は明日食べようと思った矢先にこれも何者かに盗られてしまった。畑の場合には、ネットを張れば被害に遭うことはほとんど無いが、家の庭ではネットを張っても被害にあった。

昔の農作業風景。馬を使うのは当たり前であった。(写真提供:朝日印刷)

  トマトの方は、あまり実がならなかった。結果として、家での野菜作りは、動物の被害に遭うか、不作で、失敗であった。ただ、成長を見る楽しみはあった。これで我慢しなければならないだろう。来年は、やっぱり畑で全部育てなければならないと思った。

  今日は、これらの野菜作りに使った支柱などをすべて片付けた。うっとしかった家の前がすっきりした。しかし、来月初めには、雪囲いをしなければならないだろう。1年の経つのは本当に速い。雪囲いをしたと思えば、それを外す時期がすぐ来る。よほど気を引き締めないと、1年は、あっという間に終わってしまう。

(日記:午前中、家の整理。午後、家の外の清掃など。夜、野球を見ながら明日の東京行きの準備。)

 
 

パソコンの弱点

18 10月

起動不能
  私は主に3台のパソコンを使っている。今春の退職と同時に買ったデスクトップパソコンは、自分の持っている中では最速であるので、ホームページ作り、画像編集、描画などに使っている。また、これも退職と同時に買ったノートパソコンは、どこでもインターネットやウェブカム(テレビ電話)ができるので、家の中を持ち歩いて使っている。また、メールなどもこのパソコンを使っている。

明後日、孫達に会いに横浜へ行く。夏休み以来の再会になる。(鷹巣海水浴場で孫達と)

 居間で主に使っている。孫達とウェブカムをするのが一番の楽しみだ。食卓であろうと、居間であろうとどこでも、孫達といっしょにいるように何でも話せる。最短でも30分以上は話している。家内は孫達と話しているのに、私は息子と話すこともできる。居間と居間を結んで顔を見ながらの会話ができる。便利な世の中になったものだ。

  3台目は、自分の部屋の机の上に置いてあるデスクトップパソコンだ。主に、歌作りに使っている。私の作る演歌のほとんどは、このパソコンを使って作っている。演歌、民謡、BGMなどの他、和太鼓の曲もほとんどこのパソコンで作っている。デジタル録音から、編集、CD作りまで、すべてこのパソコンで作業をしている。

  歌を作る場合には、ギターでメロディーを考えながら、パソコンで記録し、編曲していくのだ。できあがったら先ずカラオケをつくり、歌い手を呼んでデジタル録音し、吹き込み終わってから、エコーなどをかけたり、強弱を考えたりしながら、編集し、最終的には、CDにするのである。

  また、このパソコンでブログのほとんどを書いている。毎日、だいたい1時間かけてブログを書いている。私の子供達も、このブログを見ているらしい。

  ところが、このパソコンが起動不能になった。これまで、何度も、データを消してしまったり、消されてしまったりして、落ち込んだことも少なくない。文章なら、消えてしまっても何とかなるが、音楽のデータはもう一度作り直すというわけにはいかない。

  午後8時頃、息子の友達のY君に来てもらってパソコンをみてもらったが、重症のようで、今晩は修復できなかった。もしも、このパソコンのデータが消えてしまったら、それこそ落ち込んで立ち直れないのではないか。音楽データは、一つ一つの楽器の音に、様々な指示を与えている。音量、音色、響き、バランス、音の揺れなど、様々な指示を与えて一曲を作り上げているので、データを無くしたらもう一度作り直すことは不可能だ。

  パソコンは、我々人間のできないくらいの複雑なことができる反面、故障すると、どうしようもない。ただの金属の箱になってしまって、粗大ゴミにしか見えない。常に、故障することを頭に置いて、データはたびたびバックアップしておかなければならない。

 万能の機械であるようで、いったん故障すると、全く作動しなくて、素人の私には手に負えない。やはり、今の世の中を生きていくには、デジタルとアナログの両方が必要ではないだろうか。

(日記:午前中、数学のホームページ作り。途中で歯医者へ行く。午後は、福井へショッピングに行く。明後日、孫達に会いに行くために靴を2足と小さな鞄を買う。その後、福井の長女へ新米を届ける。夜、息子の友達のY君に壊れたパソコンをみてもらう。)

 
 

第55回猪野瀬地区町民運動会

17 10月

町民運動会今昔
 私たち「猪野瀬地区」の、運動会は、最近、南部中学校のグランドで行われている。今日は、少し肌寒いくらいの快晴の中で午前9時より開会式が行われて、競技が始まった。私は、60歳代の障害物に出ることになっていた。ピンチヒッターで他の協議にも参加した。

 この運動会も、最近は応援にまわることが多い。3年ほど前までは、各年代の総力リレーの選手であったが、世代交代が進んで、出番がなくなってきた。さらに、数年前までは、100mの選手でもあった。しかし、これも後進に道を譲ることになった。時代は確実に、動いているのである。出番は少しずつ減っているが今は競技を見るのが楽しい。

ムカデ競争で力走する我が村の選手達

   30歳代、40歳代の頃には、この運動会での100m競争では、私はとしては毎回燃えていた。2歳年上のYさんが最大のライバルであった。町民体育大会だというのに、私たちはスパイクのついたランニングスーズをはき、短距離専用のパンツをはいて本気になって競争したのだ。

  しかし、Yさんにはどうしても勝てなかった。大会前になると股上げなどの練習をしたのだが、それでも勝てなかった。Yさんは市の記録を持っているぐらい速くて大きな壁になっていた。一度、このYさんに勝ったことがあるだけで、いつも破れていた。市の大会では、Yさんが出れば優勝。私が出たときには2度2位になり、県体の選手にも選ばれたのもいい思い出だ。

  この大会に二人が真剣勝負をしたのは今でもいい思い出になっている。他の人たちにはどのようにうつっていたか知らないが、私たちは真剣であった。今は、レクレーション的種目に出ることが多いので、楽しく競技に参加している。

  大会終了後、地区の集会場で反省会が行われた。かつては、常に優勝か、次勝だった我が集落も今日は私の知っている限り、初めての最下位だった。反省会では、運動会のことよりも、次の公民館祭での演し物について話が弾んだ。

村の集会所で行われた運動会の反省会。(前列左から二人目が私)

(日記:午前9時より午後3時半頃まで、猪野瀬地区町民運動会に参加。午後3時半から地区の集会場で反省会。夜は、横浜の孫たちとウェブカム。来週、孫たちと会う」予定。)

 
 

“おばんどこ”の思い出

16 10月

川遊びの思い出
  福井に嫁いだ娘(長女)が、昨日、長男(私の孫)を連れて遊びに来た。娘は今産休中である。孫にとって我が家は楽しいのだろうか?今はまだ幼稚園児だが、小学生になても「勝山へ行きたい」と言うだろうか? 

 「おばんどこ」とは、「(母親の実家の)おばあちゃところ」という意味だと思う。そこには、母親の親である祖母がいて、優しく接してくれ、いとこ達とは楽しく遊ぶことができる楽しい場所というイメージがある。 

  しかし、私の娘や息子達も、祭りなどの行事があるとき以外は、そんなに家内の実家である平泉寺へ行くことはなかったように思う。今の時代は誰も彼もそうであるかも知れない。自宅にいても、退屈しないだけの遊び道具があり、友達もいるからであろう。 

私の子供時代の「おばんどこ」
  しかし、私の子供時代は違っていた。それは、母親の実家の近くに九頭竜川が流れていたからである。100mあまり歩けばそこは河原だったのである。川で遊ぶことは、山際に住む当時の私にとってはとても魅力的だった。

50数年前に泳いだ川の上流にある勝原で横浜に住む内孫の思いで作りに付き合った(今年の夏休み)。

   年の近いいとこや少し年の離れたおじさん達がいて、川で魚を捕って食べさせてくれた。また、母親の実家近くには、私と同様に大野市から遊びに来ている子ども達や地元の子ども達と、川以外でも楽しく遊ぶことができたのである。 

 小学校の頃、夏休みになると「おばんどこ」へ行くことはとても楽しみであった。何日間か、「おばんどこ」で過ごし、バスで勝山の自宅へ帰るときは、なぜか淋しくなったものだ。それほど、遊びの少なかった私の子供時代は、「おばんどこ」が魅力ある場所だったのである。 

    甘いものが極端に少なかった時代に、従兄弟と戸棚から砂糖を失敬して、それを新聞紙に包んで持ち歩き、舐めた思い出がある。多少の悪さも今となっては楽しい思い出である。 

  我が家の外孫達は、果たして「おばんどこ(私の家)」をぜひとも行ってみたいと思えるような魅力ある場所に思ってくれるだろうか。私も、自分の楽しかった頃の思い出の一部でも外孫達に返したいものである。 

(日記:午前中、そして、午後4時まで数学のホームページ作り。肩が凝る。眼も疲れる。少し考えなければならない。午後4時から、外へ出て家庭菜園の後始末。使い終わったものを、「燃やすもの」、「来年使うもの」に分けながら整理した。午前中、家内は孫を送って福井へ行った。娘に寄れば、孫は「ばあちゃんと別れて淋しい」と言っていたらしい。)