RSS
 

Archive for the ‘未分類’ Category

農業の役目

22 2月

農業をビジネスと考えると
  今農業は岐路に立たされている。後継者がいない地区が多いからだ。後継者がいない理由の一つに農業で食べていくことが困難だからだ。農業をそろばん勘定で考えると、成り立たないだろう。

  私の集落では、農業の後継者不足や高齢化から自分で田畑を守っていくことが困難である。そこで、会社組織にして集団で農業に取り組んでいるのだ。それが「農事法人かたせ」なのだ。しかし、米以外は、簡単に利益を生み出せないでいる。

  と言うよりよりも、補助金がなかったらその米作りさえも経営的には成り立たないのだ。もしも、広大な外国で米作りを行ったら、一俵(60kg)15,000円あまりの米が数千円でできるのだ。

  我が「農事法人かたせ」では、里芋も作ったが大幅な赤字であった。総会では、「里芋作りは止めた方がよい」という意見が多く出た。一番金がかかるのが人件費だ。経営となると、全ての作業に時給いくらかで賃金を払わなければならないからだ。

  ところで米作りだが、本当に「農事法人かたせ」で作っているのかとよく考えてみると必ずしもそうではない。

  というのは、苗はJAで買い、田植えは自分で行うが、実った稲はコンバインで刈り取り、脱穀し、籾は田んぼからJAのカントリーへ直送するのだ。ここから先もJAが請け負うのだ。そこで乾燥し、臼すりを行って玄米にするのだ

  最初と最後は、JAで行い、途中の作業だけを法人が請け負っているのだ。そのために、JAにはかなりの金を払うことになる。これが今の米作りだ。片瀬では、乾燥から後の作業も、自前でやろうとしている。

  そこで、里芋作りを、始めと終わりだけJAではなく「農事法人かたせ」が行い、途中の軽作業は希望者が行ってはどうかということだ。全てを法人が請け負うと、赤字になるかもしれないが、個人が途中を請け負った場合には、「時給はいくら」という考えではなく、自分の生き甲斐として自分のペースで空いた時間にのんびり作業を行えばよいのだ。

  どうせ家でのんびりと過ごしている人たちが、自分の健康のためや生き甲斐のために、空いた時間に田んぼに出て里芋やショウガを育てることはそんなに大変ではないように思われる。

  結果的に、それが時給300円であろうと、500円であろうと何にもしていない時間なら、健康的な生き甲斐作業だと思えば収入があるだけでもよいのだ。年金ももらっている人ならなおさらだ。

 何とかこのような発想で法人では経営に成り立たないという里芋やショウガ作りを維持できないかと考えている。そして、片瀬の特産物作りを行えたらと思っている。今年、私はこの方法を試行しいと考えている。

(日記:午前中、メロディー作り。たいしたメロディーではないが、少しずつ増えている。午後は、事務所に区長が尋ねてきた。2時間ほど話し込んだ。その後、「数学のホームページ」づくり。余り能率が上がらなかった。夜、7時よりALT3人が和太鼓の練習にやってきた。左義長太鼓を教えた。今日で2回目だ。本番で少しでも左義長太鼓をたたいてもらいたいと思う。)

 
2 Comments

Posted in 未分類

 

「左義長ばやし」の練習を見学して

21 2月

子どもから大人までが参加して
  芳野地区のOさんに誘われて、練習会を見学させてもらった。昨日と今日の二日間続けて練習を見させてていただいた。昨年初めて芳野地区の櫓に乗せていただいた。全くの初体験であった。

  その縁で誘って下さったのだと思う。地域に根付く伝統芸能のほとんどは子ども時代から始めているようである。芳野地区の子ども達も、地域の大人の指導を受けて左義長ばやしに頑張っている。

  小学校時代に頑張って練習すれば、中学生になっても高校生になっても参加することができるのだ。その結果、若者達も頑張る。おじさん達も頑張る。

 一方、この地区に嫁に来た女性達も三味線や笛などのお囃子で頑張っているのだ。この熱気を見ていてうらやましくなる。太鼓を叩かない人たちは、あんどん作りなどで連日頑張っているのだ。まさに地区は、左義長一色だ。

「左義長子どもばやしコンクール」の練習をする芳野区子供会の皆さん。

  このような熱気を我が村で何に求めればよいのだろうか。今年度から始めた村の伝統芸能から産み出した『片瀬豊年ばやし』が、このような活気ある芸能に育ってくれるとありがたいのだが、簡単ではなかろう。

  私は、わくわくしながら、なるほどそういう風に太鼓を叩くのかと、夢中になって練習に見入っていた。時々、近くにいる人達に話しかけ、色々教わりながら見学させてもらった。

  今年も、一度は櫓にあげていただきたいと思う。ただ、私のような年齢の者は太鼓を叩かないで伴奏にまわることが多い。でも、太鼓に関しては、なるべく長い間、関わっていたいものである。

(日記:午前中、歯医者へ行き、その帰りに、作曲の仕方と、Jpopの本を買った。これまでは、演歌を中心に歌を作ってきたので今度は若い人たちのための歌を作れないかと思っている。午後、北部中学校で和太鼓の指導。今日は左義長の練習を行った。その後、帰宅して少しばかり、『数学のホームページ』づくり。その後、孫娘の誕生祝いを買いに大野へ行く。夜は、芳野区の左義長の練習を見学しに行く。)

 
 

ちょっと悲しき“誕生日”

20 2月

気持ちを若く持ちたい
 2月20日は私の誕生日。(歳は異なるが長嶋監督も月日は同じだ。)ちょうど、長女と二人の息子が来ていたので、一緒に祝ってくれた。一昨日は、長女の息子の誕生日だった。

  昨日は普通のケーキを食べたので、今日は家内に頼んでゼリーのケーキを作ってもらった。孫達も喜んで食べていた。横浜から、息子の二人の娘からも「じいちゃん、誕生日おめでとう」と電話がかかってきた。息子からも祝いの言葉があった。

二人の孫に囲まれて誕生日を祝う。ゼリーのケーキを前に、「ハッピーバースデー」を歌う。

  しかし、誕生日がうれしくない歳になってきた。後2年で70歳だ。だんだんできないことが増えていくだろう。しかし、これからは、その日にできることを少しずつやっていきたいと思う。

  特に、創造的なことは継続して行きたいと思う。一昨日から、毎日メロデーを作っているが、これはずっと続けていきたい。身体の方は、時々痛みが出てくる。誕生日を機会に、今まで以上に健康には気をつけたい。

  自分が年齢を気にする時があるとすれば、それは鏡の前に立ったときだ。いやに、老けたおじさんがいるなあとがっかりしてしまう。気持ちからは老けないようにしたい。

(日記:午前中は、農事法人『かたせ』の総会に参加。昼過ぎまでかかった。いろんな意見が出

左義長太鼓の練習をしたALTのみなさん(山児童館スタジオ)。た。私個人としては、「かたせ」をブランドにして、独自に米を売り出すこと、かつては片瀬の特産物であった里芋とショウガを再び特産物にしたいという願いがある。  午後は、少し孫と遊ぶ。夕方4時より外国人女性(ALT)に和太鼓を教えた。特に、今日は左義長太鼓を教えた。夜8時過ぎに芳野区の左義長の練習を見に出かけた。芳野区のOさんから声がかかったからだ。今年も、一度ぐらいは櫓に登って太鼓を叩きたいと思う。) 本番に向けて左義長太鼓の練習に励む芳野区子供会の皆さん。

 
 

平尾正晃さんのテレビを見て

19 2月

刺激を受ける
  昨日、テレビのチャンネルを回したら、「平尾正晃さんの番組」をやっていた。私より6歳上だが、我が青春時代のあこがれの存在だった。最初はウェスタンミュージック、そして、ロカビリーと当時は音楽の世界では流行の先端を走っていたのではなかろうか。

 特に、ロカビリーでは、山下敬二郎とミッキーカーチスの3人が当時の若者音楽のスターであった。今考えてみると、私の若い時には、二通りの音楽が同時にはやっていた。

  一方では三橋三智也、春日八郎、美空ひばりなどの日本の演歌が、他方ではポールアンカやプレスリーなどの外国の音楽が流行していたようだ。私は、両方の音楽に興味があった。そして、大学に入ってからバンドを組んで主に外国の音楽を楽しんだ。

  昨日の平尾正晃さんだが、歌手としての絶頂期に不祥事から音楽活動の表舞台から身を引かなければならなかったのだ。しかしながら、歌作りは休まず続け、布施明の数々の歌を提供し、作曲家として蘇ったのだ。

  鳴かず飛ばずだった福井県の「五木ひろし」さんも、平尾正晃さんの『横浜たそがれ』で歌手として蘇ったのだ。宝塚から転身し多「小柳ルミ子」さんも、平尾さんの『私の城下町』で歌手としてスタートしたのだ。

  このように、いろんな歌手に素晴らしい歌を提供し続け、」作曲家としての絶頂期に今度は病魔(肺結核)におそわれ、肋骨を6本も切る大手術をして再び蘇ったのだ。入院中も、ギターと持ち込み、作曲を続けたという。

  ずっと感動しながら、この番組を見た。そして、私も趣味として歌を作っているが、今日から、毎日、一節はメロディーを作ってみようと決めた。明日からでは遅い。今日からだとの想いでギターと五線紙を用意してメロディーを作った。

家の前でソリに興ずる長女の息子。一人でできるようになった。

  そして今日。平凡ではあったが、2曲のメロディーを作った。16ビートの歌とロック調の歌だ。メロディー日記とでも名付けてなるべく毎日続けたい。そして、日を改めて聴いてみると、おそらくそのほとんどは平凡でつまらないメロディだと思う。

  100のうち一つでも少しまともなメロディができればそれでいいのだ。とにかく、行動しなければなにも始まらない。昨日は本当にいい番組を見たと思っている。

(日記:午前中は、自宅で孫達を触れ合う。午後は、メロディー作りと孫との雪遊び。午後4時頃事務所の駐車場の排雪作業。数学のホームページを作りながらの作業だった。)

 
 

春未だ遠し……政界と相撲界

18 2月

出口の見えないトンネル
  9年間の市教委時代に学んだことの一つに「いやなこと、難しいことは後回しにしないで真っ先に取り組む」ということだった。誰でも、楽なことや楽しいことを先にやりたくなるものだ。

  そして、いやなことは、後回しにしたいものだ。相撲界の八百長問題も、これまで何度も話題になりながら、その都度目をつむって先送りにしてきた問題だ。先代若乃花の録音テープが残っていてこの件について強く警告している。

  これから先、どのように解決を図るのだろうか。不正をした証拠のある者だけを処分しても、国民は納得しないだろう。いかに、現理事長が元「カイケツ」であっても、解決は容易ではない。

  証拠がなければ、悪くないというメッセージを今の子ども達に与えたら大変なことになる。相撲界の構造改革に期待したい。おそらく、現親方、現理事も困惑し、いつ自分に火の粉が降りかかるか気が気でないだろう。

  政界も、よく似た状況にある。今のままでは、そう遠くない時期に解散総選挙があるのだろうか。元々、人の意見は色々あるはずだ。同じ政党であっても、意見の異なることはよくあるものだ。

  まして、野党とは意見が異なることは当たり前である。これらを調整し、よりよい意見にまとめ上げるのが知恵というものではないだろうか。しかし、実際には政治家はそのようには動かない。

  もしかしたら、次回の国政選挙では既存政党に冷たい風が吹くかもしれない。名古屋や大阪を見ればそのような予感がする。市民政党、地域政党が力を持つようになるかもしれない。世界の動きがそうであるように、

  今の議員を選んだのは私たち国民なのだ。試されるのは、政治家ばかりではない。私たち国民だ。自分の一票をどのように使うのかによって国の方向が変わるからである。「たかが一票、されど一票」である。

  政界と相撲界の前途は全く見えない。しかし、別の見方をすれば、新しい政界や相撲界が誕生する「産みの苦しみ」の時期かもしれない。

(日記:午前中、『数学のホームページ』作り。途中で、排雪作業。午後は、「音楽制作ソフト」の研究。夕方、今度は外孫がやってくる。長女の長男の誕生日だ。ケーキで祝う。17日は長女の誕生日、18日は長女の息子の誕生日、20日は私の誕生日、23日は長男の娘の誕生日。2月は誕生日ばやりだ。)

 
 

厚さ2cmのマニュアルに四苦八苦

17 2月

こたつの上がスタジオに
 
ノートパソコンさえあればどこでもスタジオになるというハード『MOBILE STUDIO CANVAS SD-50』を買ってから100日間が経った。今日始めて本格的にマニュアルを読んで勉強を始めた。

  これを動かすソフトが同梱されていたが、以前に買ってまだ使っていないソフト『SINGER SONG WRITER 9 Professional』を使うことにした。このソフトは、以前には一つ前のソフトを使っていたので多少は使えるからだ。

  これらのハードとソフトでどこでも音楽制作の場になるという触れ込みだ。また、これに適応したキーボードがあれば、路上で演奏することにも使えるのだ。簡単に言えば、シンセサイザーとしても使えるということだ。

ノートパソコンの横に置いた小さな箱がこたつの上をスタジオにしてくれるはずだが、今はそれどころではない。マニュアルと格闘中だ。

  別の言い方をすれば、どこででも、雑音のないデジタル録音ができてCDやDVDが作れるということだ。まさに移動式スタジオだ。ただし、これはこれらの機器を使いこなせての話だ。

 これまで持っていた機器でもこのような作業はできたのだが、今ある機器は持ち運びが楽で、性能も今までのものより優れているものだ。

  しかし、これらの機器を使いこなせるようになるには、いくつもの壁を乗り越えなくてはならない。厚さ2cmのマニュアルを前にするとぞっとする。音楽用語も馴染みのないものが多い。

  しかし、ここで引き下がるわけにはいかない。今日から、時間を見て少しずつ勉強していきたい。1年間で、何とか最低限の作業に使えるようにしなければと思う。

  こんな機器が20歳代にあったらとつくずく思う。しかし、私の大学時代は、計算機と言えば、歯車式のものや計算尺が主流であった。本格的なものは、どこかにあったのであろうが、おそらく部屋いっぱいになるような大きさではなかっただろうか。

  技術の進歩はすごい勢いで進んでいく。しかし、私は、デジタルとアナログ、音楽ならパソコンと生の楽器の併用で楽しんでいきたいと思う。コンピュータミュージックは創作のツールであってそれ以上でもそれ以下でもない。

 以前の機器を用いてMさんの台所で録音してCDにした『磯鴫の宿』
   http://song.inakamon.net/s_iso.html

(日記:午前中は事務所で『数学のホームページ』づくり。作業の合間に、駐車場の排雪作業。午後は、コンピュータミュージックの勉強。厚さ2cmあまりのマニュアルに後ずさりしたくなる。夜は、NHK大河ドラマ『江』の第1回目を見る。朝ドラの『てっぱん』はこの1ヶ月で4ヶ月分の録画を見て放送に追いついた。)

 
 

春と言えば(1)

16 2月

春は人事の季節
  「春」という言葉を聞くと、いろんなことが思い出される。その一つが人事異動だ。現職で一般教員だった時代には、勤務期間が長くなると「自分も異動があるのか」と、多少気になったものである。

  前の職場に愛着があると、異動するのはどことなく気が進まなかった。しかし、新しい職場で働き出すと、そうした気持ちはなくなり、自分なりに居場所を見つけて生活したものだ。そして、結果的には「異動してよかった」となるのだ。

  しかしながら、管理職となると立場は一変する。自分のことではなく、自分の学校のこと、個々の教員のことを考えなければならない。全ての者が満足する異動などはないだろう。それぞれの希望は叶えさせてあげたい。

  しかし、相手のあることであり、県教委とのやりとりがある。まるで、ジグソーパズルをしているように2月、3月を過ごさなければならない。全ての異動が決まるとほっとする。高校の管理職時代には、私は、原則として異動したいという者を止めはしなかった。

  どこへ行くかは別にしても、今の学校を離れたいという者を決して止めたくはなかった。「あの人が転勤すると学校が回らなくなる」と真顔で言う者もいたが、私はそんな女々しいことは言いたくなかった。誰かは来るのだから、新しい人を育てればよいのだ。

  そして、市教委時代。人の異動に9年間関わってきた。今はそうした立場から離れて、かつては忙しかった2月をゆったりと過ごしている。どんどん歳を重ねているが、どの時代にも戻りたくはない。いつも、今を精一杯生きなければと思う。

  荷物を整理して、異動する人、新しい学校へ入学するために勝山を離れる高校生達、少なくとも、春は、多くの人が「うごく」季節だ。そして、桜の花が咲く頃には、誰もが新しい学校や職場で新しい生活を始めるのだ。

  異動のことを書いていたら、高校生を担任していた頃を思い出した。高校を卒業する者の中にはいろんな者がいるのだ。「同じ大学を合格した者」の中にも、それが希望の大学である場合と、第2、第3希望であった大学では新学期を迎える気持ちは大きく異なるのだ。

  何とか新しい学校で、頑張ってほしいと願わずにはいられなかった。「合点のいかなかった者」の中にも二通りあった。1年浪人して再挑戦する者、妥協してその学校で頑張る者、それぞれが自分に折り合いをつけて前へ進んでいるのだ。

  まもなく、l中学生や高校生も、上級学校への入学試験がある。今は、大変な時期だ。そんな中で、推薦入学によって一足先に春を迎えた者もいる。桜が満開になるまでには、まだまだいろんなドラマが待っているのだ。

(日記:午前中はパソコンのファイル整理。午後は、久しぶりに『数学のホームページ』作りを行った。やっぱり、この作業をしているときが、一番心が落ちつく。時々、除雪作業を行いながらの作業だった。夜は、『龍馬伝』の最終回を見た。今のところ『江』はまだ一度も見ていない。)

 
 

孫達の帰省最終日

15 2月

家族の親睦
  温泉で目が覚めた。隣を見れば、孫達は暑いのか、ふとんを蹴飛ばして寝ている。家内と私の間に二人の孫が寝たのだ。孫達も温泉の楽しさを味わったのではなかろうか。

  私も昨日2回、今日2回風呂に入った。いつか私は湯治に行ってみたいと思っている。自炊しながら、家内と過ごすのだ。パソコンと何か楽器があれば、私は退屈することはない。

  テレビなどで見ると、湯治の客同士が世間話をしたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったりしながら、心温まる時間を過ごすのだ。別に知り合いでなくても、年齢に差があっても、話す話題はあると思っておいる。

 祭りのこと、地域の行事のこと、農作業のこと、何でも話すことができると思っている。自炊の際、持参の漬け物を交換したりすることもできるだろう。

  パソコンで検索すると、北海道や東北にそうした湯治宿はあるようだ。とにかく、数日間行ってみたいと思っている。なるべく素朴な宿の方がよい。

福井駅で列車を待ちながら談笑する孫達。この後、孫達は何度も手を振りながら階段へ消えていった。

  4泊5日での孫達の帰省はあっという間に終わってしまった。北陸道を走り、福井駅へ孫達を送った。福井駅では抱き合って別れを惜しんだ。

  途中、「今、米原」、「今は名古屋辺り」……と刻々写真入りのメールが家内の携帯に届く。そして、7時頃、横浜へ着いたとのことだった。横浜は、遠いようで近い。近いようで遠い。

  春休みには、また会えるだろう。会う度に、孫達は成長している。一緒に和太鼓ができないのは残念だ。

(日記:午前中、温泉。昼頃、孫達を福井駅へ送り届ける。その後帰宅。今日は疲れた。風邪気味なので午後はこたつで過ごす。夜は、例によって録り貯めた朝ドラ『てっぱん』を見る。)

 
 

最後は温泉で

14 2月

一つの部屋で家族交流
  4泊5日で帰省した子ども達も、いよいよ今晩でお別れだ。最後は、温泉に泊まって別れようということになった。あっという間に、四日間が過ぎてしまった。しかし、孫達にはかなり密度の濃い帰省だったのではないか。

名残を惜しむように雪下ろしで作ったソリゲレンデでを滑り降りる孫。

  昨日は、孫達は母親の実家へ出かけた。そして、昼頃戻ってくるなり、早速昨日作ったソリコースで楽しんだ。昨日よりもはるかに滑りがよかった。隣家の雪の壁に激突するぐらいに滑った。

  完全に、アスファルトが露出していたが、孫のソリコースのために、雪をばらまいた。また、私の留守の間には、上の孫は、鎌倉の中で「イチゴ大福」を2個も食べたという。

  昼過ぎに、私は、北部中学校へ和太鼓を教えに出かけた。授業が終わった頃に家内が迎えに来てくれだ。その足で、北陸自動車道を通り、片山津温泉へ向かった。

部屋でウノを楽しむ孫達(片山津温泉)

  私は、残念ながら、風邪の引き始めのような状態であった。それでも、孫達が楽しんでくれればそれでいい。大人4人、内孫2人、家族の親睦は深まったように思う。

(日記:午前中、パソコン内のファイル整理。午後は、北部中学校の選択音楽で和太鼓の指導。終了と同時に、迎えに来た車で、片山津温泉へ。食後、大衆演劇を楽しんだ。)

 
 

餅つきと雪遊び

13 2月

餅つき
  我が家はみんな餅が大好きだ。今日は、一臼(2升)だけ餅つき機で餅をついた。いつも役割は決まっている。私は、大きさを決めて餅をちぎって並べるだけ。家内と息子と息子の嫁と孫達が丸め役をした。

正月の再来。孫達と餅作りを楽しむ。

  7~8割は丸餅にし、残りはおろし餅や黄な粉で食べることにした。孫達も、「熱い、熱い」といいながら、粘土細工のように餅を丸めた。昼食は、餅を中心に白菜の漬け物などで済ませた。子供達には、いなかの餅作りを体験して楽しそうだった。

  午後は、息子が屋根から下ろした雪の山をくりぬいて「かまくら」を作ったり、ソリ滑りのコースを作った。孫達は、スキー場で夢中になったように、いつまでも、ソリ滑りやかまくら遊びを楽しんだようだ。

  大人の私や息子の方が参ってしまうくらいに、孫達は雪を満喫したようである。「これで終わるよ」と何度も言わなければいつまでも止めないのではと思われるぐらいに夢中だった。

  全く雪のない都会の暮らしではこれほど夢中になること

雪下ろしの山で作ったソリコースでソリを楽しむ孫達。

はないとのことだった。やはり、「子供は風の子」のようだ。おやつも、狭いかまくらの中で食べたり、勢いよく滑るスロープが子供にとっては、いつまでも飽きの来ない遊びだったのだろう。

(日記:午前中、オカリナ教室の新メンバーのために楽譜を作り、練習用のCDを作った。なんと新メンバーは、私の地区の女性だった。夫がふるさとに帰って来たのを機会に片瀬の住むことになったのだ。名古屋ではオカリナをやっていたらしい。昼近くに、孫達と餅つき。その後、孫達は雪遊び。集中して雪遊びを楽しんでいた。)

かまくらでおやつを食べる孫達。