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人にドラマあり

13 1月

昔は「おしん」が何人もいた
  絵を描きながら、テレビを聴いていたら(見ていては絵は描けない)、昔の連続ドラマ「おしん」が放映されていた。子供時代の生活は壮絶を極めるという感じだった。

  また、最近の朝ドラに出てくる主人公はみな食うや食わずの大変な人生を送っていたように思う(今回の朝ドラは少し異なるが)。戦前・戦後を生き抜いてきた主人公のほとんどが、大なり小なり「おしん」のような苦労をしている。

  田舎に住む子供のほとんどは、貴重な労働力として扱われていた。自分だけなら、文句の一つも言いたくなるが、誰もがそうだったので、当時はそんなに大変だったとは思わなかった。

   しかし、こうした苦労は今の子どもたちは体験することができない。いろんな仕事が「割り当て」として与えられ、いつもお腹を空かせていたように思う。

  村の背後にある大師山の登山道には、いろんな地名と共に、「下休み場」、「中休み場」、「上休み場」などの名前が残っている。まちづくり委員会で、マップを作ったりしたが、今の子どもたちには、何のことやら分からないだろうし、興味もないだろう。

  私たちは、夏休みになると、毎日のように山の裏側から薪を背中で担いで運んだのだ。私たち年配者にとっては、上記の休み場は貴重な休憩所だった。重い荷物を運ぶと、膝ががくがくするのだ。

  これを「膝が笑う」と称していたが、この休み場のおかげで、何とか家まで薪を運ぶことができたのだ。また、秋の稲刈り時期には、夜の9時まで田んぼで作業をすることは当たり前だった。

  そして、次男以降は中学を卒業すると、都会へ「丁稚奉公」に出ていったのだ。都会の生活に慣れない中で、盆と正月以外は休みもなく働き詰めだったらしい。村の男子の半分はこのようにして都会へ出て行ったのだ。

  田舎に残った者も、貴重な労働力として、冬以外は、年がら年中何らかの農作業があった。こうして、大人も子供も働いて、今の世の中を作ったといっても過言ではないだろう。

  勝山から出て行く者もあれば、逆に、北海道・東北・九州から多くの女性が、繊維会社の女工さんとして毎年勝山へ集団就職でやって来たのだ。彼女たちも、立場は逆だが、苦労は同じだっただろう。

  「おしん」は日本の至る所に存在していたというのが、私の感想だ。今、少しぐらい景気が悪いからと言って、悩む人が少なくないが、私たちの父母や祖父母の時代は貧しさに耐えて強く生きてきたのだ。

  私も、少しはそのような経験があるので、今の時代は、贅沢な時代だと思ってしまう。贅沢に慣れきった現代人は、厳しい時代が来たときに耐えていけるのだろうか。それにしても、日本は大きく変化したものだ。

9歳の松若麿(後の親鸞聖人)が出家する場面。左側は、延暦寺の高僧・慈円、右側は叔父の日野範綱。

(日記 ありがたいことに、今日も、自分のペースで時間を使うことができる。農作業はシーズンオフなので時間がたくさんある。午前中は、区の会計処理、文書の整理などを行った。午後は、紙芝居の絵描き。ようやく、一つの場面が完成した。基本的な絵をたくさん描いておいたので、後、2、3場面は簡単にできるだろう。夏までには全体を完成させたい。)

 
 

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