田舎は観光地になるか
今回も、滋賀県米原市上丹生のTさんのブログへの感想をもとに、思いついたことを述べたいと思います。
現在日本に住んでおられる50歳、60歳以上の方は、昔の田舎の温かさをかなり知っておられるのではないでしょうか。だからといって、今、帰省しても、田舎には「昭和の田舎」は特別な地域を除いてほとんど残っていないのではないでしょうか。
里帰りをするにも、近くのホテルに泊まって過ごす人もいるぐらいの時代なのだから。今風の家では、何人もが長期に渡って泊まるだけの家屋のスペースがない場合も少なくない。
逆に、そうした「昭和の田舎」を疑似体験できる「田舎の観光地」があれば、そこへ行きたくなる人は少なくないのではないでしょうか。それぞれの季節に行きたくなる、リピーターの客をつくることができるのではないでしょうか。
100%昭和を再現するのは無理でしょうが、来訪者をお客として扱うばかりでなく、住民としての体験もできるような仕組みができないかということです。
いかに“温かさ”を感じるようなもてなしができるかということではないでしょうか。それには、「もてなす側」と「もてなされる側」がはっきり区別されているよりは曖昧な方が好ましいのではないでしょうか。要は、アットホームな雰囲気を作り出すことです。
ただし、ホテルなどは、別で、快適に泊まれればホテルの従業員との関わりは緊急の場合を除いて皆無でも客は不満を感じることがないでしょう。
しかし、民宿『昭和いなか館(?!)』は、逆で、来訪者は家族の一員であるというスタンスで、付き合うことが基本であってもいいのではないでしょうか。有名人の講演のように一方的に話すのではなく、双方向で、世間話でも、相談事でも話せる関係になることが望ましいと思っています。
名所旧跡を見て歩く物見遊山の旅行や、単純に温泉に入って美味しいものを食べるだけの旅行では満足できない人が増えているのではないでしょうか。 そういう意味では、宿や風景や名勝旧跡が売りではなく、人が観光資源であってもいいと思っています。
「あの人と会いたいから、あの民宿へ行く」、「あの人と一緒に何かしたいからあの民宿へ行く」、「あの人と話していると心地よくなるのであそこへ行く」、……と、人に魅力を感じて出かけるそんな宿があってもよいと思っています。
そうなるためには、ホテルでは物理的に無理です。やはり、田舎の民宿がその役割を担うのにふさわしいと思っています。子どもたちにとっては、「川で泳ぐ」、「川で魚を捕ったり釣ったりする」、「トウモロコシを採って炭火で焼いて食べる」、……などの体験ができるでしょう。
また、「練習して地元の祭りに参加する」、「地元の特産物を地元の人に習って作る」、「年に何度か通って作物を栽培し収穫する」、……などいろいろあるのではないでしょうか。
何かをマスターしたい人には、それを指導できる人がいるとありがたいかもしれない。私なら、元気のあり余る小・中学生か高校生を一週間ほど特訓して「和太鼓」を指導し、祭りか何かに発表してもらうこともできるだろうと思っている。
田舎体験をしながら、一日に1~2時間はパソコンを勉強する(ワープロ機能をマスターする・ネットを自由に使えるようにする)のも、よいかもしれない。私もパソコンによる歌作りなら少し指導できるかもしれない。
こんな事を考えているだけでも楽しい。我々は人間として育っているので、人間らしさが発揮できる場所を無意識に望んでいる。そんな場所が今の時代にあってもよいのではなかろうか。
「孤食」、「孤独死」等の言葉が出てきた。「お一人様食材」、「お一人様専用レストラン」、「お一人様カラオケ店」、……と一人専用の店が増えている。人と人との関わりを好まない人がどんどん増えている。なおさら、人の温かさを感じる場所が必要であるように思う。
(日記 午前9時より,神社で初詣の後片付け。本殿や拝殿の鍵を閉め、お賽銭を計算し、供え物や幕の片づけ等を行った。その後、宮番の者3人でしばらく雑談。午後は、福井の孫のそり遊びに付き合い、地元の雁ケ原スキー場へ行く。最初は雪が降っていたが、急に太陽が出て目映いぐらいだった。)
寺田幸彦
2013年1月5日 at 2:13 AM
昨年、「新しい観光の時代・体験型観光と地域活性」と題した講演を聞いたことがあります。
その講演の中で・・・
『物質的に豊になった現在、人々が真の豊かさは心の豊かさであること気付き、体験型観光が注目を集めている。
体験型観光は、体験のための体験でも体験自体が目的でもない。
人と人の交流から、互いが高まることが目的である。
それが心の豊かさを求める旅であり、教育の向かう方向であり、精神文化の向上でもある。』と話されていました。
米原市では、中学生を対象に農家民泊を推進する動きがあります。
近隣の伊吹地域では、既に農家民泊を受け入れておられます。
市の職員さんにお聞きしたところ、学生の受け入れをお願いに行ったところ、最初から快く引き受けて下さる家は殆ど無かったそうです。
しかし、諦めずに何度も足を運び、やっと何軒かで受け入れを承諾していただいたそうです。
受け入れる側も初めてのことで、皆さん戸惑われたみたいです。
市の職員は、もてなしは必要ありません、普段通りに対応して下さいとお願いされました。
食事も特別な物でなく、普段食べておられる物で結構です。
お客さんとして扱うのでは無く、家族の一員と思って接して下さい。
仕事や用事も言いつけて下さい・・・・とお願いされたそうです。
その様子が地元のケーブルテレビで紹介されました。
最初は、双方ともぎこちない感じもありましたが、同じ食事をし、家の手伝いや畑仕事も手伝い、夕食後には家の人から色んな田舎での話も聞き、すぐに打ち解けて行く姿がありました。
二泊三日の短い時間でしたが、別れる時にはお互いに涙を流して別れを惜しむ姿がありました。
「また会いに来るよ」と、元気に帰っていく子どもの姿に感動したのを覚えています。
都会から来た子どもたちは、田舎の澄みきった空や、山や川などの豊かな自然だけでなく、農作業を手伝ったり、家の回りで採れた新鮮な山菜や野菜、あるいは川の魚などの自家食材で作る田舎料理を学びます。
また、祖父母の年代とのコミュニケーションが生まれ、家族団らんを味わい、生活が全く異なる体験をすることから、地域の人々の生き様や、命の源の食生産を担う農山村の役割を理解し、自らの生活や家庭や生き方を省みる機会になったのでないでしょうか。
お客としてではなく、家族の一員として迎え、親子や家族という当たり前にあるべき人と人の関係を確認しあうことで、互いの人生に大きく影響を与える巡り合いにも繋がったのでは無いでしょうか。
上丹生にも農家民泊の話が来ています。
上丹生の農業は自給自足の畑しかありませんが、恵まれた自然環境や、伝統産業の木彫職人さんも大勢おられます。
自分が受け入れるとなると、一歩踏み込む勇気が必要かと思いますが、村としても前向きに検討して行きたいと思っています。
Norio Yama
2013年1月5日 at 10:36 AM
全く同感です。
そして、この体験型観光では、何よりも“人”が重視されると思っています。特別なことができると言うよりも、“人好き”の人が鍵を握ると思っています。
客は、フラットな交流を望んでいるのではないでしょうか。話を聞かせてくれると同時に、話を聞いてくれる人を望んでいるのではないでしょうか。
私も、高齢者の前で話すときには、ただ一方的に話すだけではなく、聞くことも重要なポイントだと思っています。昨年も高齢者サロンで話す機会がありましたが、そのときも、自分の話の途中で、聞かせていただく時間を作りました。
「今まで食べたもので一番美味しいものは何でしたか?」という問いかけに、初めはあまり手を上げられなかった高齢者の方々も、他に人の意見を聞いてどんどん手が上がり、会場が大いに盛り上がりました。
人は、やはり、「聞くだけ」とか「もてなしを受ける」だけの一歩通行では本当の満足感を得られないのではないでしょうか。
ここに、体験型の観光の意義があり、将来性があるのではないでしょうか。
ある議員さんがしぶとく何度も議会で「三日おばんどこ」を提案されていました。「おばんどこ」とはおばあちゃんの所、つまり母親、または父親の実家のことです。
都会の全くつながりのない子ども達を三日間だけ預かり、おばあちゃんの所であるかのごとく過ごしてもらう計画です。預かる側は他人の子供としてではなく、「自分の孫」という感覚で預かるものです。
しかし、この提案に対して市長からの答弁は、「提案しているだけではなく自分でやってみてください。」いうものでした。
私自身は、外国の教員、市と交流のあるアスペン音楽協会の事務局長、教育視察団の外人教師、友達などのほか、馬が合う教育関係の業者まで自宅に泊めたりしました。
また、家族が手を焼く子供も我が子のごとく数日間預かり、泊めたりもしました。我が子と並んで居間に寝床を敷き、並んで寝たり、スキーも家族といっしょにしました。
これは我が子にも好影響を与えました。どんな子にもよいところがありますから。
話はそれましたが、上丹生も大いに可能性があると思います。「恵まれた自然環境」や、「伝統産業の木彫職人さん」、そして「素朴な村の人たち」は一朝一夕に作って得られるものではないので、大きな「生き甲斐観光」の資源であると、思っています。私も、その中の外部資源として活用していただければと思っています。
こんなやりとりをすることは、とても楽しいことですね。