食べたくなくても
もしもの話だが、「食べるものがなくて、パンを食べなければならない」とする。店には、パンが二種類しかないとする。どんなに食べたくなくてもこのパンを買って食べざるを得ない。
選択肢が多ければありがたいが、パンが一種類か二種類しかなかったり、仮に二種類あっても、一種類は明らかにおいしくなさそうな場合には、残りの一種類を買わざるを得ない。
本当は、自分の食べたいパンがあったり、美味しそうなパンがある場合にはよいが、そうでない場合には消費者は選択の余地がなく、悲しい。
何とか、多種類のパン、または、種類が少なくても美味しそうなパンが売られることを望む。さて、これはパンの話だが、もしこれが、パンではない場合はどうだろうか。
アメリカにでは、主に二種類のパンが売られている。売れ筋のほとんどは、民主党と共和党というパンだ。今は民主党パンだが、時々売れ筋が変わる。消費者のほとんどは、この二つのパンを選んでいる。
我が国では、数種類のパンが売られているが、今は、〇〇党パンを買う消費者がほとんどだ。しかし、中にはこの味に飽きた消費者も出始めているようだ。
消費者の願いとしては、店側が売りたいパンよりも、消費者が食べたいパンが売られることを望むが現状では困難だ。パン屋のほとんどは、世襲制だ市、パン屋はフランチャイズ制で、味はほとんど決められている。
こんなパンを作って欲しいという願いがあっても、それは簡単ではない。今は、完全にパン屋主導であり、消費者にはほとんど選択の余地がな区、あり合わせのパンで間に合わせている。
果たしてこれは何の話だろうか。読者の判断に任せたい。選択のない世の中、きっと息苦しい世の中だろうと思う。願わくば、みんなに指示されるパンが売りに出されることを祈る。
(日記 午前中、鹿谷の女性銭太鼓グループの銭太鼓練習用DVD作り。その後、少し数学の教材作り。午後一時半より鹿谷公民館へ銭太鼓の指導に行く。帰宅してから、数学の教材作り。午後7時半より横浜の孫の『爺ちゃん勉強』。最後に、長女の伴奏で次女達の歌を聴く。)