なるべくしてなる
昼食後、何気なくビデオの録画リストを見ていたら、NHKの「日本のこれから」と称して『無縁社会』を特集した番組が見つかった。興味があるので、何気なく見ていたら、社会と無縁なのは、高齢者ばかりでなく、若者にも増えていることを再認識した。
田舎の人間関係の煩わしさを断ち切って(捨てて)都会へ出た人たちが、若いうち、元気なうちはいいが、高齢化するにつれて田舎とは疎遠になり、地域社会とも我が子とも会社とも疎遠になって孤立するパターンが多いということが語られていた。
最近、私は思うが、人間「いいとこどり」はないということだ。「煩わしさ」と「縁」はものの裏表のような存在であり、煩わしさを捨てれば、いつかは同時に縁も捨てることになるということだと思う。
そう考えると、無縁社会は「なるべくしてなった」といういうことがわかる。だからといって昔に戻ることはできない。勝山市では、各町代表で組織する連合青年団も、連合婦人会もなくなってしまった。
そして、今また、町の婦人会もなくなってしまった。集落には辛うじて残っているが。「面倒くさいことはなるべくやめたい」という考えも分からないではない。面倒くさいと思う団体活動も、終わってみると仲間作りができたり、いろんな事が身についてよかったと思う場合が少なくない。
私としては、「年がら年中、地区のために何かをしましょう(して下さい)」というのではなく、せめて年に一度ぐらいは真剣に、地区のために自分のできることをやってほしいという願いはある。
例えば、「秋の祭り」でも、少しでも充実したものにしたいという人が増えれば、祭りは楽しいものになると思う。そうすることが、結局は自分のため、自分の家族のためになるのだということを周囲の皆さんに理解してほしいと思う。
少しでも自分から動き出せば、『無縁』になることはないと思う。何かをやれば、必ず、誰かと縁ができるはずだと思う。しかし、残念ながら今の世の中は、少しずつ『無縁社会』に向かって進んでいるように思う。
(日記 今日は、紙芝居作りに専念。特に、今力を入れているのは、高齢者の皆さんの前で『親鸞聖人物語』を演じること、子どもたちの前で『童話紙芝居』を演じることだ。そのために、必死で絵を描いている。この延長上に、東北地方へ出かけることがあると信じながら。)