政権が代わって
政権が代わって、「景気回復」、「円高是正」など経済対策が次々と打たれている。原発再稼働も同じ方向性にあるのだろう。果たして、日本はどうなるのだろうか。目を見張るばかりである。
どのような政権になろうと、私たち大人がつくる社会は、子どもたちにとってはどのような影響を及ぼすのだろうか。一見快適そうに見えて、実は、子どもたちの考える機会を著しく奪っているように思えてならない。
優秀な大の大人が考える種々のゲームは、確かに子どもたちや一部の大人を簡単に惹きつけることができるだろう。しかし、子どもたちは、そうしたものに多くの時間を奪われているのもまた事実である。
一生に一度の多感な時期、人と人とが交わるよりも、これらを手にした子供たちをよく見かける。ゲーム機に夢中になっている間は、周囲の仲間と話したり遊んだりもしない。それぞれが、孤立しているように見える。
景気回復のためには、不必要なものも買わなければならないような日本というのもどこか情けない。人が、物を中心に振り回されているように見える。子どもたちには、何もない時間、空間を与えることもまた大人の責任ではなかろうか。
物がなくても、子どもたちは、不幸にはならない。それが当たり前になれば、子どもたちは大人が考える以上にいろんな遊びを考え、仲間と過ごすことになり、そこから多くの楽しみや生きるための知恵を手にするはずだ。
ファイルを整理していたら、数年前に書いた詩らしきものが出てきた。『昭和の子供』と題して十数編、自分の思いを書いたものだ。たいした物ではないが、今の時代にも合うような気がするので紹介したい。
何もなし
何もない家 子にゃ宝
ないから考え 湧いてくる
物と思考の シーソーだ
物多ければ 思考減り
物少なくば 思考増す
何もないから 考える
物溢れれば 創意なし
何にもない家 退屈だ
表へ出よう 友がいる
友集まれば 遊びあり
遊びの中で わかること
我慢・生き甲斐 思いやり
何もないなら 作りゃいい
昭和の時代 物不足
平成時代 物余り
「何あり」「何なし」 考えて
幸(しあわせ)探し 始めよう
物、物、物
物があるから 考えぬ
物あり過ぎて 考えぬ
あるからなくて なけりゃある
考える暇 与えずに
物を作って 儲けてる
考える暇 ないほどに
物を作って 売りまくる
物に溺れて 物を買う
物に流され 物を買う
物を買うため 働いて
働いてまた 物を買う
気がつきゃ「時」が 流れてる
買えない「時」が 減っていく
貴重な「時」が 過ぎていく
気がつきゃ子育て 終わってる
後でどんなに 悔やんでも
月日はただただ 進むだけ
(日記 午前中、鹿谷公民館でおばさん達に『銭太鼓』の指導。私と年齢の近い人たちだ。午後は、『かたせ瓦版』を印刷し、市の広報紙と共に各班長へ配布。その後、次回の創作紙芝居の童話と親鸞聖人物語の下調べと絵の準備。)