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「お盆」に思う

14 8月

「お盆」と「ふるさと」
  お盆の3、4日間だけ帰省する人達は、「ふるさと」を味わうことができるのだろうか。家族との再会や孫達との再会を果たし、先祖のお墓参りをすることはできるだろう。それは「我が家」でのできごとで「地域との関わり」とは言えないような気がする。

  望む人には「ふるさと」を味わってほしいと思うが、今のままではそうはならないだろう。田舎の家族が高齢化したり、親が亡くなった頃には都会へ出た者達は帰省する足が少しずつ遠のくかもしれない。

  地元を離れて市外や県外へ出た者が、帰りたくなる「ふるさと」とはどんなところだろうか。何度もここに書いてきたが、それは「ふるさと」とは何かというその定義だ。

 私の「ふるさと」の定義は次の二つだ。
   ・家族以外に関わった人がいる所
   ・我が家意外に関わった場所や行事がある所

 家族の他に、温かく迎えてくれる隣近所のおじさん、おばさんや仲間がいる。そして、互いに世間話を交わすことができればと思う。また、村の内外には、自分が遊んだり関わった場所があったり、参加した行事があったりすればなおよい。

   おそらく、阿波踊りや、郡上踊り、おわら風の盆、ねぶた、秋田竿灯祭り、博多どんたく、……などはそうした行事だろう。参加しなかったら一年のけじめができないと感ずるのではなかろうか。我が勝山の左義長なども関係する町内出身者にはそうした意味を持つのではなかろうか。

  パソコン、スマートフォン、ゲーム機などが進化し、それらに夢中になる人が増え、人と人とが触れ合う機会がどんどん減っていくような気がする。オリンピックは終わってしまったが、人と人との関係の濃いイベントではなかっただろうか。「誰もが私一人で取ったメダルではない」と述べているように。

玄関先で孫達と花火を楽しむ。少しずつ夏休みが終わっていく。秋の稲刈りももうすぐだ。

  地域がふるさとが、少しずつ消えていくような気がする。気がついた頃にはもう戻せない。そして、最後は施設で静かに余生を送る時代が来るのだろうか。墓参りの道中、脇目も振らずゲーム機に夢中になっている子どもを見たが、何となくやりきれない気がした。ご先祖様はどう思っておられるだろうか。

(日記 午前6時過ぎに家内とお墓の掃除で出かける。午前中、帰省してきた娘の家族や息子の家族と雑談したりしながら過ごす。午後家族や孫達と墓参り。夕方5時半より共同墓地にある延命地蔵尊の年次法要。夕食後、孫達は花火。雨が降ったり止んだりの不安定な天候だ。自宅にいたら花火の音。勝山の夏祭りの花火の音だ。孫達と、よく見える集会所前へ移動。遠花火を楽しむ。)

 
 

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