3度忘れたら4度覚える
以前と比べると、私も物事を忘れることが多くなった。「忘れた」で済まされることと、「忘れた」では済まされないことがある。私は、先月(10月)の15日に行われた大学の「軽音楽部OB会」に向けて練習していた。
曲目によっては、楽譜を見ることができるものと、ハワイアンギターのように、手元が狂ってしまうので楽譜を見ていられない場合があるのだ。そこで、楽譜を見ていられない場合には、曲を覚えるしかない。
「覚えても忘れる」、「覚えても忘れる」を繰り返すために、その都度、「忘れたら覚える」、「忘れたら覚える」を繰り返すしか方法はない。悲しく思うときがあるけれでも、ここであきらめてしまっては2度と弾けるようにはならないだろう。
若い頃(約四十年から五十年前)は、物覚えも今よりよかったのだが、今は、せっかく覚えたのに忘れてしまって、残念に思うことが少なくない。「物忘れ」と闘っているようなものだ。
今日の午後は「さわらび会(食生活改善推進員)」の踊りの練習日だ。来週の日曜日に行われる「猪野瀬公民館祭」で、民謡を2曲踊るからだ。2曲とも私が作詞・作曲した勝山の新民謡だ。このようなグループのお陰で、私の作った民謡が廃れずに今日まで歌い踊られているのだ。
特に、今日は、「勝山よいとこ」では女踊り、「勝ち山ほがらか音頭」では本来の踊りに加えて、手ぬぐいを使った踊りをするグループの特別練習日だ。家内と私が練習に付きい合った。
練習で一番悲しいのは、せっかくい覚えたのに、いざ踊るとなると忘れてしまうことだ。従って、一回目の踊りは、ミスがとても多い。しかし、私は皆さんにこう説明しているのだ。
「忘れたら覚えればいい。覚えると言うことは、とても脳のためにはよいことです。踊りを練習することによって脳が鍛えられていると思えばいいのです。」
忘れたら、さらに練習すればよいのだ。これは自分自身にも言い聞かせていることだ。忘れることは悲しいことだが、忘れたら それらを身体全体で覚えればよいのだ。無駄なことではなく、脳のトレーニングになっているのだ。
筋力も衰えるが、そんな場合は少し運動して衰えのスピードを遅らせればそれでよいのだ。忘れたら、覚えることによって脳を鍛えればそれでよいのだ。悲観せずに、脳のトレーニングだと思って、今より少しでもよくなるようにいろんなことに取り組んでみたい。
(日記 午前中は、部屋の整理。午後は、猪野瀬公民館で踊りの指導。今日は「手ぬぐいを使って踊るグループ」の練習日だ。火曜日には他のグループの練習日だった。このグループの練習の最初はミスが目立ったが、練習を続けているうちに上手になってきた。来週の合同練習と、本番が楽しみだ。)