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今こそ望まれる「エリート」の出現

12 5月

真の「エリート」不足の日本
  「エリート」という言葉が曖昧になっている。現在は、単に学力試験で成績がよかったり、学歴がよい者に対して「エリート」という言葉を使っている場合が多い。。

  エリートの本当に意味は、ラテン語からきているようだ。「神に選ばれた者」すなわち「自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くせる人」を意味する。

  自分の利害得失と関係なく他人や物事のために尽くすということに対する価値を認めることが少なくなってきているのではなかろうか。

  とにかく、ほとんどの人が、「自己中心」的である。政治家の多くは、国家のためというよりは、先ず自分のため、そして、次は党のために行動をしているように思われる。

  学者もまた、そのような人が少なくない。「御用学者」といわれるたぐいの人が多い。それと、同時に、無責任な「評論家」的な発言をする人のなんと多いことか。

原発に対して誰が一番安全を叫んでいたか
  今回の大震災により引き起こされた原発事故に対して、こんなにも沢山の原子力関係の研究者がいたのかと驚くぐらい、連日。テレビで自説を述べている。

  その中で、「安全です」という言葉が多くの学者の口から述べられている。どうも、これまでのいきさつを考えると、「安全である」のではなく、「安全であるべきだ」と先に結論があって、それにあわせて発言しているように思われる。

  「原発が、安全である」と、政治家も、電力会社も、学者も、これまで一般国民に対して説得してきたようだが、素人の私が考えても、まだまだ制御不能のエネルギーでないかと思われる。

  というのも、これまで大小様々な事故がそれぞれの原発で頻発している。しかし、原発の危うさを声高に言えない雰囲気が日本にはあるようだ。

  勇気を持って、「原発の真の姿を国民に示すことのできる学者や政治家が出てくる」ことを願う。それから、危険な原発で働く人達の、実態はどうだろうか。健康に問題がないのだろうか。

  「七次請け」、「八次請け」という言葉があるように、かなり金になる職場なのだろうか。金になるということは、危険であることの裏返しではないのか。単純に批判できないが、産業のない地区に原発が集中することだけは避けなければならない。

  バランスある日本を築くためにも、真のエリートが現れることを願う。今のように、自己中心的な人間が増え、快適さ、金、効率だけを求めて、時の政府に迎合するような人達が増えれば、日本ノ行く末が心配だ。

  他人のために身体を張って行動できる人間に価値を認めるような世の中をつくらなければならないと思う。原発事故で、全ての国民の真価が問われているように思う。

(日記:昨日病院で泊まった。病院の付添用のベッドは幅が5、60cm位だろうか。寝返りも満足にできない。私は、二日間だけ病院に泊まるつもりだ。 しかし、東日本大震災で被災して避難している人達は、2ヶ月を過ぎた。想像を絶する苦労を強いられておられるのだろう。肉親のこと、自宅、職場などを考えると、明日が見えない人が多いだろう。朝食を済ませて一度自宅へ帰りたいと思ったが、、食堂がなかなか開かないので、自宅へ帰って朝食をとることにした。その後、家庭菜園の支柱立て、植え替えなどの作業を行った。午後は、短時間、バンドのカラオケ作り。そして、夕方再び、病院へ戻った。)

 

 
 

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