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宇宙船地球号

06 4月

もっと快適に過ごせないのか
 私たちの住むこの地球を大きな目で見れば、無限の大宇宙に浮かぶ一粒の砂よりももっと小さいかも知れない。その小さな地球上で日々殺戮が行われている。いつ終わるとも知れない戦争だ。

 尊い命が毎日のように失われてる。命が失われていると言えば、戦争ではなくて餓死している人も少なくないという。ところが同じ星の上では、食べきれずに食べ残して捨てる食べ物がゴミとなって捨てられている。

 そうかと思えば、同じ国の中でいがみ合っている。それが争いとなってここでも殺戮が行われている。そうかと思えば、その争いを利用して他国が一方に荷担し、別の国が反対側に武器を送り、いつまでも平和が訪れない。

 もしも、地球以外に生物が存在していたとして、この有様を眺めていたらあきれかえるだろう。動物だって、仲良く暮らすために、いろんな方法で無用な争いを防ぐ方法を編み出している。

 話し合いでは収まらず、石を投げ合っていた者同士が、やがては、弓矢を持ち出し、それが鉄砲や爆弾に変わり、もっと威力を持った武器にということで核になり、さらに……と、いつまで続くのだろうか?

 世界は大きく米ソを中心に二極化していたが、ここに第三極“グルーバルサウス”が登場した。これが平和をもたらす存在になるのか、それとも、三つ巴の争いになるのか。

 この三番目の南半球を中心とした新興国や途上国グループ“グローバルサウス”が、このクレイジーな国々の頭を冷やす役目を果たすよう期待したい。 

 
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選挙を身近なものにしてほしい

05 4月

低投票率の理由は
 統一地方選挙の年だ。福井県でも知事選と県議選の運動真っ盛りだ。長年選挙のなかった県議選が、一主婦の西山さんの登場によって久々に行われることになった。

 彼女の、主義主張は今一はっきりしないが、彼女の登場によって選挙が一気に身近なものになったことは確かだ。その部分では、彼女の登場には感謝したい。

 保守的な福井県の、そして勝山市の「新しい風が吹く」さきがけとなることを祈りたい。誰にも出来そうで誰にも出来ることではない。今後、身近な選挙としては今年の夏に勝山市の市議選、そして来年末には市長選が行われる。

 立候補者の政策をよく見極めて、勝山市の将来を託せる人に投票してほしいと思う。今がどんな状態であろうと、それは選ばれた者の責任であるというよりも、選んだ私たち市民の側の責任であることを自覚し、慎重に選挙に臨みたいと思う。

 所で、低投票率の理由は何だろうか。それは、関心がないことだろうか、日々の忙しさから何が起ころうと自分には関係がないと考えるからだろうか。それとも、自分の小さな一票では何も変わらないと考えるからだろうか。

 政治は、私たちの日々の生活に直結しているのだということを、特に若い人たちには自覚してほしいと思う。自分も地域の一員であることを忘れずに、自分ために、家族のために、地域のために貴重な一票を投じてほしいと思う。

 今地域で何が問題になっているのか、それをどうしてほしいのか、どの候補にそれらを託したいのか、よくよく考えて行動してほしいと願う。候補者には、自分が何をどうしたいのかを明確に訴えてほしい。

  

 

デジタル時代、そしてAIが席巻する時代へ

04 4月

アメリカまで最短一週間
 通信のスピードは私の生きている間にずいぶん進歩した。若い頃は、アメリカまでは航空便で最短でも一週間はかかった。返事をもらおうとすれば更に一週間だ。

 今なら、秒単位で出来る。それも文字だけではなく、写真でも音声でも、動画でも何でも送れるのだ。通信者発達は、驚くべき速さで進歩した。

 ただし、それは通信の速さであって、ハートとなるとまた別問題である。一言一言考えながら書いた手紙と、LINEで送ったメールが同じ働きをするとは限らない。

書かれた文字の息づかい
 村の総会の会議録が保管されているが、和紙に毛筆で書かれた記録は今でも息づかいを感じさせる。あまりの達筆に時には読めない部分もあるが、それでも書いた人の息づかいまでが考えられる。

 ところが、最近それらがパソコンで書かれるようになった。なんとなく、信頼性と共に、誰が書いても変わり映えのしない明朝体の活字に人の息吹は感じない。従って、書かれたことの重みもない。

手書きが当たり前だった頃
 学校勤務時代、会議の資料、連絡のための書類、試験問題などを作るのは大変だった。ガリ版が主流だったのだ。ヤスリ版の上に蝋原紙を置き、鉄筆でガリガリと書いていくのだ。

 もろに書き手の字の上手さや癖などが出るのだ。中には上手い人がいて、まるで活字のようだと、感心したものだ。一方、印刷屋はどうかというと、活字を一字一字広い箱の中に納めて、文章にするのだ。

 校正でもしようものなら大変だった。箱の中の活字を一字一字順送りするなどして、並べ直さなければならないのだ。印刷を終えた活字は1つずつ、元の場所へ戻さなければならないのだ。新米をここから仕事を覚えるのだ。

AIが席巻する時代到来か
 どうも今のままでデジタル時代が進むと、最後はAIが全てを取り仕切る時代になるのではなかろうか。そんな予感がする。将棋の世界では、プロ棋士でもAIによる研究が欠かせないようだ。逆に言えば、百戦錬磨のベテランよりも、AIで鍛えた若手の方が勝負に向いているような気がしないでもない。今後はどうなるあろうか。

 病気の診断、天気予報、天災の予知はもちろんのこと、創作活動に於いてもAIが活躍する時代にあるような予感がする。かつては、ベルトコンベヤーに人間が合わせていたように、今後は、AIの指示によって人間が動く時代になるのではと考えられなくもない。

 数万、数億の人間の知恵を集めて学習したAIが席巻する時代とは、人間にとってどのようなものだろうか。希望が持てそうで持てないような不気味な時代にならなければよいがついつい思ってしまう。

 
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変わりゆくパソコン環境

03 4月

2年ぶりに音楽の環境復活
 私の趣味の1つに歌作りがある。昔はデジタルな環境がなかったので、歌を作った場合、それらを形に残そうとすると大変だった。例えば作った歌を録音しようとすると、一本のマイクの周りに様々な楽器の演奏者と歌い手が集まり、録音するわけだが、素人にミキサーなどあるはずもなく、マイクからの距離で楽器の音量などを考えたっりしたりしたものだ。

 誰かが途中でミスすれば、それで初めからやり直しだ。民謡を作って吹き込んだときには大変だった。歌い手は、小舟渡の釜風呂温泉に来ておられた『三波貴志一座』の座長三波貴志氏にお願いすることにした。

 そして、学校の音楽室で、英語科の使うテープレコーダーに歌を吹き込み、それをソノシートにしたものだ。こうしなければ一般の人に聞いていただけなかったからだ。

 時は移り、今では、パソコンとデジタル音源とソフトさえあれば簡単に歌を作ったり、CDにしたりできるのだ。しかも、間違った場合にはその部分さえ訂正すればよいのだ。歌も、数回歌ってもらい、一番よい部分をつなぎ合わせればよいのだ。

 このような環境で、30年以上は音楽を楽しむことができた。そしてできた作品は映像と共にYOUTUBEにアップしたり、CDに焼いたりすることもできるのだ。

 ソフトなどは少しずつ性能がよくなるので、購入した場合、その都度新しい部分を覚えればよいのだ。昔なら考えられもしないような環境で、趣味として音楽を楽しむことができたのだ。

 ところが、少しずつ事情が変わり始めたのだ。ソフトもバージョンアップし、パソコンの性能もよくなり、OS(オペレーティングシステム)もバージョンアップされるのはよいことなのだが、少しずつ、私にとっては不都合なことが起こり始めた。

ソフトウエアとハードウエアを仲介するOSがアップされることはよいことなのだが、自分の好みの音楽ソフトや音源がOSに対応していない場合も少なくないのだ。私の場合、どんどんソフトを新しくしてきたが、あるとき、音源がOSに対応できなくなり、これまでの環境が維持できなくなってしまった。

 他にも、いろんなソフトがOSに対応しなくなって慣れ親しんだソフトが使用不能になってしまった。しかし、この年になって、全く異なる新しいソフトに乗り換えることは大変勇気のいることだ。

 慣れ親しんだソフトが、OS二対応していない場合、古いパソコンで動かしてみたらかろうじて動作するということもありうるのだ。昔のノートパソコンの捨てるわけにはいかないのだ。

サブスクリプションライセンス
 サブスクリプションライセンス は、所有権の購入ではなく利用権の契約を行うライセンス形態である。ソフトを購入するのではなく、毎月使用料金を支払って使わせてもらうのだ。

 私のような昔型の人間には、なかなかなじめない方式だ。多少高価でも、買い取ってしまえば、自分のもので好きなときに好きなように使える。いつ使うか使わないかがはっきりしないものを借りているというのはどうも落ちつかない。

 仕事で使うならまだしも、趣味であれこれ、借りて使うのもどうかと思ってしまう。しかし、そういう時代になってきているのだと割り切らなければならないのだろう。

 何はともあれ、私の音楽的環境は里帰りした息子によって昔に戻った。ありがたい。時間があったら、歌でも作ってみたいと思う。今は脇見も出来ないほど別のことで忙しいので、一段落したらの話だが。

 
 

なんでこうなったのか?

02 4月

20年分の教育関係市議会議事録を読む
 一昨年途中から、中学校再編に関する説明会に出ているうちに、現在進んでいる『中学校再編計画』について疑問をも持つようになった。

 「なぜ、勝山高校のグラウンドの中に勝山唯一の中学校を建設しなければならないのか」 これが、勝山市の子ども達のためになるのか?誰がこのような計画を発案したのか?誰が決めたのか?

 そのうちに、このような問題について考えている団体のあることを知った。しばらくは集まりに参加していたが、途中からは自分で調べるようになった。

 そこで、議会議事録を見ることから始めた。最初は、数年分しか議会議事録に目次がついていないので、教育関係の部分を探すのは大変な作業だった。議員の全ての内容を見なければどこに教育関係の記録があるのか分からないからだ。見出しも何もついていない、文字だけが並ぶ議事録から必要なものを探すにはかなりのエネルギーが必要だった。

 たまりかねて、知り合いの議員に頼んで目次をつけてもらうようお願いした。しかし、今でも平成14年以前は目次がついていないのでそれらを見るのは大変だ。おそらく誰も見ていないのではなかろうか。

 そして、私なりの理解は得られた。しかし、それらは決して納得のいくものではなかった。併設の相手となる勝山高校の教職員にはほとんど知らされないまま、一部の者によって強引に進めらた計画だからだ。

 特に、不可解なのは、併設の相手校となる勝山高校の校長がこの5年間、毎年1年で交代しているのだ。そして一般教員には何も知らせないで転勤してしまい、計画が進められてきたからだ。

 一般市民のほとんどは、何が起こっているのか全く知るよしもない。勝高界隈を文教地区にするのだとか、これで、高校の定員増が期待できるとか、ジオアリーナや長山を使えるとか、一部の情報ばかりをネットや広報誌で市民に一方的に知らせて現計画を進めている。

 市民の納得のいかないままに、強引に進めた計画はきっと上手くいかないように思う。私は今でも再考を願っている。今ならまだ考え直す余地があると思うからである。

 

統一地方選挙に当たって考える

01 4月

二元代表制は機能しているか
 地方自治体では、市議会議員と市長の両方を市民が直接選挙で選ぶ二元代表制を取っています。

 1.市長がサービスを行うための予算や条例などを提案し、
 2.議会の審議・議決を受ける必要があります。
  そして初めて、
 3.市長が市民サービスを行えるようになります。

 その中で、二元代表制において、ともに市民の代表である市議会議員と市長が、お互いに対等の立場に立ち、議論を重ねながら、市の発展のために取り組んでいます。

 なお、このように市民サービスを提案・実施する市長のことを「執行機関」、市長からの提案を審議・議決する議会のことを「議決機関・議事機関」と言います。

 ちなみに、「二元代表制」は地方自治体の特徴であり、国の場合は、執行機関のトップである内閣総理大臣を国会議員の中から国会の議決で選ぶ「議院内閣制」となっています。

 市民が期待するのは、市の提案に対して、議員がその善し悪しを慎重に考え、問題によっては市民の意見を十分に聞き、市民の代表として議決していただきたいということです。

 しかし、実際に事はそのように進んでいるでしょうか。二元代表制のメリットは立法権と行政権が独立していることです。例えば、首長が強引な路線を取ろうとしても議会で議員により否決されればその案が通らないようにしたりと行政を監視することができます。また、市長は直接選挙によって住民が選んでおり、首長は民意によって選ばれているのです。

 二元代表制のデメリットは、議会に期待される行政への監視という役割が果たされない可能性もあります。別々に選ばれているはずが、いつの間にか市長べったりになってしま得事が少なくないからです。

 そのために十分な審議が行われず、安易に物事が決まってしまう可能性があります。その結果、行政が決めたことに対してオール可決・賛成となることが少なくありません。そのしわ寄せは全て市民にかかってくるわけです。

 私たちは、市長と議員の両者の言動に気をつけ、選挙に際しては棄権したり、何も考えずに投票することは避けたいものです。最終的には、私たちが被害者になる可能性があるからです。 

 他にもデメリットとしては、行政と議会が対立した場合が上げられます。行政がストップする可能性があるからです。そこは、いずれもが市民から選ばれた代表ですから、個人的な損得を抜きにして市民のために慎重に審議していただきたいものです。

 最後に、女性の方、若い方が市政に関心を持ち、選挙権を行使していただきたいと思います。そして、来るべき選挙には、立候補していただくことを願っています。統一地方選挙に際して一言書かせていただきました。

 
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商品か食品か

31 3月

目に見えない汚染
 家庭菜園のように規模の小さな野菜栽培でも、作物の「病気」、「鳥獣害や虫害」、「雑草」が気になり、肥料についてもいろいろ考えることがある。

 たとえ、家庭菜園といえども、これらを全く使わないで作物を栽培することは困難だ。せめて、自分の食べるものについては、多少見かけはよくなくても、低農薬で栽培したいと思う。

 自分で全ての野菜を栽培することができないため、かなりの野菜は店で購入しなければならない。そこでいつも考えるのは、私たちは「食品」を買っているのか、「商品」を買っているのかということだ。

 綺麗なキャベツ、綺麗なトウモロコシ、綺麗な果物、綺麗な……、きっと農薬まみれだろうなと心のどこかでは思っている。でも、食べないわけにはいかないので買わざるを得ない。

 季節によっても違うが、畑を耕したり、種を蒔いたりすると必ず現れるのはカラスか蝶だ。カラスは掘り起こした地面の中から現れる虫やカエルなどを待ち構えているようだ。

 蝶の場合は耕しているときにもよく現れるし、大根や白菜などが成長し始めると蝶がつがいで現れる。きっと卵を産み付ける場所を探しているのではないかと思われる。白菜なども、蝶にやられないようにネットを張ったりしているが、成長すると虫の被害に遭うことが少なくない。

始末の悪い病気
 素人が野菜を栽培していて一番困るのは、様々な作物の病気だ。手遅れになったら全滅しかねない。全てを諦めるか農薬に頼るかだ。農薬に頼っても必ずしも治るものでもない。

 これらを防止するのに一番手っ取り早いのは、様々な薬品類だ。生姜なども、産地では数十回消毒すると言うし、外国産の残留農薬もよく話題になる。

 自家用ならともかく、商品作物となると、そのほとんどにこうした農薬が使われると思った方がよいだろう。安全基準が示されてはいるが、それらが守られているのか、また、その安全基準が正しいのかも分からない。果たしてどこまで安全かも分からない。

 攻めて、自家用の野菜だけは自分が食べるだけに、少しぐらいの見かけの悪さは我慢している。一部が虫に食われたトウモロコシでも農薬まみれの綺麗なモノよりはましだろうと自分を納得させている。

 今年も、いよいよ家庭菜園の季節が始まった。せめて、自分の食べるものだけは、農薬まみれにしたくはないし、有機肥料に少しの化学肥料だけで加えて、楽しみながら畑作業にあたりたいものだ。

 
 

振り落とされそうになりながら

30 3月

悪戦苦闘のデジタル社会
 先日ふらりと福井の電気店へ寄ったところ、スマホ乗り換えキャンペーンの店員に捕まってしまった。言うままに話を聞いていると、よさそうな気もする。

 家内と相談して、スマホの会社を乗り換えることにした。月々の金額がかなり安くなり、使用するギガ数も増えるという。その色々な特典があった。得した気分で帰宅。

 ところが、昨日、ネットが突然不具合に。Wi-Fiも繫がらない。LINEができない。インターネットもできない。パソコンも同様だ。家の外へ出るとスマホは普通に作動するが、家の中ではできない。

 どうしたらよいのか、全く分からない。私も家内も焦る。ネットが繫がって当たり前の生活から、その圏外に放り出されたようで不安がよぎる。家内も同様だ。

 早速、勧誘してくれた店員に連絡する。指示通りあれこれするが動作不能。そもそも何が起こっているのかが理解できない。説明を聞いてもらちがあかない。

 明日、店へ来てくれと言うことで、今日の午後、家内と二人で福井へ向かった。ネットが繫がらないとなると、私のように、ネットを介していろんあことをやる身にはこたえる。

 幸いなことに店員はとても親切だった。向こうも必死になって年寄りの私に説明しようとする。図解も懇切丁寧だ。我が家は、三年前に新築したときに、進められて情報コンセントをあちこちに設定しておいたことを思いだし、それらも説明する。

 帰宅して、言われたとおり、設定すると、昨日までニッチもサッチもいかなかったネットがサクサク動くではないか。繫がってみれば何でもないようなことでも、そこへの道のりはかなり険しかった。

 今の時代に流されまいと、何とか捕まってついて行っている感じだ。泣き泣きペイペイを使い、こうしてネットで情報発信しているが、理屈は全く分からない。それにしてもネットにおける様々なサービスを受けられないまま、日々を送っている人が少なくないのではなかろうか。正に「デジタルデバイド(情報格差)」である。

 役所も、ネットで様々な情報を発信するが、それらに無縁の人が少なくないのではないかと思われる。こんな時代がまだまだ続くだろう。それにしても、今はネットが復活してほっとしているところである。 

 
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衰退する各種団体

29 3月

何が団体を衰退させるのか
 勝山市では、いろんな団体が次々となくなっていく。市の婦人会や町の婦人会はなくなってしまった。各集落などの婦人会も残っている方が少ないくらいだ。青年団も市の方の団体はなくなってしまった。

 様々な団体がなくなって行く理由の一つに役員のなりでがないということもある。どうしても役員のなり手がない団体では持ち回りにするが、これも問題である。

 平等のようでも、問題がある。役員が回ってくるのを機会に団体を辞める会員が出ることだ。そのうちに、団体がなくなるということも少なくない。

 また、団体に適した人物がいても、持ち回りのために、何年も順番が回ってこないということもあり、そのうちに会員資格を失って退会するということもある。

 もう一つの理由は、自主的な活動をする前に、市から、県から、国から下りてくる様々な割り当て仕事があることだ。全てが悪いとは言わないが余裕をなくした今の人たちには負担感は多いだろう。

 時代の流れもあり、団体の世話にならなくても、自分でそれぞれにすることがあり、生活スタイルが他人の助けを借りなくてもできることも一因ではないかと思われる。

 かつては、隣近所の力を借りなければなかなか仕事が捗らないこともあり、それらを「結い」によってしのいできたのだ。だからと言って、個人的に生きていけないのが人間である。団体の自然な復活を望みたいところだ。


 

 
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止められなくなる前に熟考を

28 3月

始まる前にすることはなかったのか
 ロシアとウクライナの戦争が始まって1年以上が経過したのに、終わる兆しがない。世の中には、一度始まったら、簡単には止められないことは少なくない。

 先の戦争でも同様だった。始める前に止められなかったのか。いざ始まってしまうとよほどのことがない限り止められない。結局、多くの貴重な命が失われてしまった。

 わが勝山市でも似たようなことが起こっている。学校再編問題だ。勝山市単独の話なら再考や計画の見直しもできようが、勝山市・市教委から県議・県関係者を通して県教委へと話が進み、いったんその方向性が定まると、簡単には止められないのだろうか。

 中学校再編には、勝山高校の定員割れが大きくかかわっている。中高を併設すれば高校の定員増が期待されるという。はたしてそうだろうか。私はそうは思わない。これは高校の問題であって、中学校再編を持ち出すこと自体、間違っているように思う。

 私が高校教員ならば、定員割れが続く状態を高校の問題としてとらえ、何とかしようとしただろうと思う。一時の大野高校も、地元の校長が転勤することなく5年間踏ん張り見事に学校を生き返らせたと思っている。

 ところが勝山では、これらの計画が進んできたこの5年間、高校の校長は1年ごとに交代している。高校の活性化や魅力化を望むならばあり得ないことだ。片や校長が5年間頑張り、片やこの5年間校長は1年ごとに交代してきた。

 それで、高校の活性化に中学校を敷地の中に建設するという計画が突然現れた。このような計画は絶対に教育関係者の発想ではない。ありえない発想だ。

 そもそもこの計画は、子供たちのためになるのか、具体的に言えば、中学生にとって好ましい計画か、中学生の保護者や中学校教職員にとって好ましい計画かをよく考えての結論だっただろうか。

 一方、中学生が併設される高校側はどうか?高校生にとってはどうか、その保護者や教職員にとっては好ましい再編計画か。これらを十分に考慮した計画ではなさそうだ。高校の一般教員には一切の話がなく、計画ばかりがどんどん進んでいったようだ。しかも、これらの計画が進んできたこの5年間、高校の校長は1年ごとに交代している。高校の活性化や魅力化を望むならばあり得ないことだ。

 したがって、多くの市民が疑問を呈しているのに、計画の方はどんどん進んでいる。いや、進んでいるというよりも、何が何でもこの計画を進めるのだという固い決意がみられる。はっきり意見を言う人、沈黙を守る人、諦めている人、無関心な人、立場上言いたくても言えない人(現役の教職員や市役所関係者、そのOB)などで市民が二分されているように思う。

 肝心の子供たちを抜きにした計画が、だれも止められずに進んでいく様はどこかの国の出来事に重なり、いつか来た道に重なると思うのは私一人だろうか。