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『じいじ達の子供時代』

25 3月

第3章 働くことは生きること
私たちの子供時代を一口で表せば、「働くこと」、「遊ぶこと」そして「食べること」ではなかっただろうか。この中の一番は「働くこと」ではなかっただろうか。
働いたから遊べる
働いたから食べられる
これが子供時代の私の体に染みついていた感覚ではなかっただろうか。

 

 
 

『じいじ達の子供時代』

24 3月

第2章 助け合いで成り立つ日々の生活

かつての田舎の暮らしは、何事も助け合いで成り立っていたと言っても過言ではない。その中の一つに「結」私の地区では「い」と言っていたように思う)がある。人手のほしいときにお互いが助け合う仕組みだ。また、仕事ばかりでなく、何事も隣近所の助け合いで成り立っていたのだ。

 

 
 

『じいじ達の子供時代』

23 3月

退職プロジェクト

私も退職後にいろいろやりたいことがある。そこでそれらを称して『退職プロジェクト』と呼んでいる。いくつかを挙げると、《音読絵本『じいじ達の子供時代』》、《高校数学参考書》、《歌作り(演歌・ポップス・ボーカロイド曲)》、《楽器練習(ウインドシンセサイザーほか)》、《盆踊りの復活》・・・・・などがある。

今日はその中の一つ『じいじ達の子供時代』の一部を紹介したい(以後、時々その一部を紹介したい)。これは大人のための音読絵本である。そのため文章は全て七五調にしてあり、拙い自作の挿絵が添えてある。リズムよく読んでいただければと思う。子供達にはじいじと孫の対談調の冊子ができればと思う。高齢者の任意症予防のための《回想療法》の一助になれば幸いである。(後日、冊子にできればと思っている)

第1章 私の生まれた頃

第1章にもいくつかの項目がありますが、その中から今回は3つだけ紹介させていただきます。(全部で10章あります)

 

 
 

ダブルナビで北海道・東北3000km  ⑩

23 3月

旅行最終日~長野へ寄って帰宅
旅行最終日。北海道の釧路から始まって、札幌、旭川(動物園)、富良野、室蘭、江差、松前、函館と見学し、津軽海峡をフェリーで渡り、大間へ上陸して東方へ移動。その後十和田湖へ寄り、盛岡から宮古へ移り、ここから東北の被災地を巡って福島まで行き、最後にスパリゾートハワイアンズへ寄り、さらに、埼玉の次女の家へ寄り、長野県へ寄り帰宅したのだ。最初は日本海フェリーで小樽へ渡って始まった10日あまりの北海道・東北旅行は終わった。

「ダブルナビ」としたのは本当のカーナビと助手席に座る妻の案内(ナビ)のダブルナビで無事全行程を終えたからだ。無事帰宅できてよかったと思う。車での10日かあまりの旅行はこれで二回目だ。一回目は家族5人での北海道旅行、そして今回は、6人の孫がいての二回目の旅行だ。いずれも出発は北海道の小樽であった。

池波正太郎 真田太平記館前にて

途中で寄った次女とその息子(孫)

 
 

ダブルナビで北海道・東北3000km  ⑨

23 3月

スパリゾートハワイアンズへ~福島から
北海道・東北旅行もいよいよ終盤戦。昨日までは東北の被災地を中心に巡ってきたが、今日は福島のスパリゾートハワイアンズへ。テーマパークだ。このハワイアンズができる一部始終を描いた映画『フラガール』を見て、一度は行きたいと思っていた場所だ。

この映画『フラガール』のテーマソングの楽譜を偶然ハワイの楽器屋で手に入れることができたので、よく練習して演奏会でも披露した曲だ。
また、今もハワイアンバンド(フラダンス付き)で時々やる関係もあり、ここは是非とも訪れたいところだった。フラダンスやポリネシアンダンスのショウがあり、様々なプールや温泉があり、一日遊んでも飽きのこない施設であった。孫達とも再度来てみたい施設だった。

施設内の撮影ポイントで

思わずうっとりする華麗なフラダンスショウ 1

次々と舞台に登場する華やかなダンサー達

入場者で賑わう大型室内プール

流水プールで

 
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ダブルナビで北海道・東北3000km  ⑧

06 1月

越前松島へ
被災地を後にして車は越前松島へ。最初に遊覧船で日本三景の一つ松島を見る。その後、天長5年(828年)に慈覚大師が開山し、慶長14年(1609)に伊達政宗が再興した瑞巌寺を見学する。

松島見学の遊覧船乗り場

松島見学の遊覧船乗り場

 

遊覧船上から見える島々

遊覧船上から見える島々

 

瑞巌寺への参道脇の洞窟には修行の場や石仏が並んでいる。

瑞巌寺への参道脇の洞窟には修行の場や石仏が並んでいる。

 

瑞巌寺境内の銅像など

瑞巌寺境内の銅像など

 

瑞巌寺本堂

瑞巌寺本堂

 

福島へ向かう自動車道には放射能測定表示板が設置されている。道路は原発からかなり離れているが、原発に近づくにつれて数値が大きくなっていった。

福島へ向かう自動車道には放射能測定表示板が設置されている。道路は原発からかなり離れているが、原発に近づくにつれて数値が大きくなっていった。

 

自動車〃のパーキングで見た相馬野馬追の切り絵。

自動車〃のパーキングで見た相馬野馬追の切り絵。

 

 

 
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ダブルナビで北海道・東北3000km ⑦

04 1月

宮城県。南三陸町 悲劇の防災庁舎
 最後まで職責を全うして亡くなられた職員の皆さん、被害に遭われた数多くの町民の皆さんのご冥福をお祈りします。
・・・・・河北新報(2011年3月18日号より)・・・・・
いまだに職員20数名が行方不明
「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」
3月11日の東日本人震災で、町民8OOO人以上が行方不明になっている同町。住民を避難させようと、最後まで庁舎に残った職員二十数人の行方もいまだに分からない。
遠藤副町長ら、最後の職員が陣取ったのは同町志津川の総合防災庁舎3階の建物、今は、赤い鉄骨が残るだけだ。
津波の第1波の襲来まで庁舎内には約30人の職員がいた。しがし、無事が確認されたのはわずが8人。遠藤副町長もその一人だった。
依然行方が分がらない職員の多くが防災担当だった。防災無線を使いぎりぎりまで住民に避難を呼び掛けた。屋上に避難してフェンスやアンテナにしがみついたが、津波の力は想像をはるかに超えていた。
階段の手すりにしがみついて一命を取り留めた佐藤徳憲総務課長(60)は、第1波の後、多くの仲間が消えていることに気付いた。「何とも言えない失望感。ただそれだけたった」(以下省略)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 8月1日、宮城県の南三陸町の防災対策庁舎を訪れ、亡くなられた皆様方のご冥福をお祈りして合掌し黙祷しました。津波はこの3階建ての防災対策庁舎のさらに2m上まで達したそうです。

このとき、町職員遠藤未希さん(24)が放送室に駆け込み、防災無線のマイクを握り、「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」
と呼びかけて多くの方々の命を救ったそうです。しかし、声の主の遠藤さんの行方は震災ご見つからなかったそうです。震災当時、私はこのニュースを知って愕然とし、言いようのない気持ちに襲われたことを昨日のように覚えています。

鉄骨がむき出しになり津波の被害の大きさを今に残す防災対策庁舎。

鉄骨がむき出しになり津波の被害の大きさを今に残す防災対策庁舎。

 

防災対策庁舎の周辺は、かつての市街地の面影はなく、復興を待っている。

防災対策庁舎の周辺は、かつての市街地の面影はなく、復興を待っている。

 

かつての市街地や農地にはこのような巨大な盛り土がいくつも見られる。

かつての市街地や農地にはこのような巨大な盛り土がいくつも見られる。

 

震災から5年余りが過ぎた今、ガレキが取り払われ、道路が整備されつつあるが、建物が建ち、まちが復興されるのはまだまだ先のようである。

震災から5年余りが過ぎた今、ガレキが取り払われ、道路が整備されつつあるが、建物が建ち、まちが復興されるのはまだまだ先のようである。

 

至る所で道路工事が行われていた。道路ができて始めて上下水道や宅地ができるのだが、簡単には工事は進まない。

至る所で道路工事が行われていた。道路ができて始めて上下水道や宅地ができるのだが、簡単には工事は進まない。

被災地を車で走らせていただいたが、復興間まだまだ先のようであると感じた。ガレキが確かに多くの町では取り除かれ、道路はでき始めてはいるが、そこに住居や商店街ができ、人が行き交うまでにはまだまだ時間がかかりそうである。
その間、子供達は大きくなり、高齢者の人たちはますます年を取り、ふるさとを離れて新しい生活を始めておられるのではなかろうか。そうでなくても、地方は少子高齢化と過疎化の波が押し寄せ、衰退の一途を辿っているだけに、被災地の方々のまちづくりの苦労は想像を絶するものがあるように思われる。こんことを忘れてはならないと肝に銘じた次第である。

 

 
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ダブルナビで北海道・東北3000km ⑥

03 1月

震災被害地を行く 十和田湖から東北自動車道で盛岡へ行き、そこから宮古へ向かう。海を見ると穏やかであるが、陸地を見ると景色が一変する。電柱や道路は目立つが住宅はほとんど見当たらないところが多い。復興はまだまだであるという感じがする。実際に車で通り、被災地を歩いてみるとテレビや写真で見ていたものとはずいぶん異なる。震災の被害の大きさが改めて知らされる。自然の猛威にはただただ驚くばかりである。これは何も被災地だけの問題ではない。いつどこで何が起こるかわからない。まさに、天災は忘れた頃にやってくるから、天災は明日起きても不思議ではないと思わなければならない時代になっているようだ。被災地の皆さんのご苦労を思うとき私達一人一人に何ができるのかと考え込んでしまう。

海はどこまでも穏やかである。宮古市

海はどこまでも穏やかである。宮古市

 

一方、内陸方面を見ると景色は一変する。工事現場が広がる。

一方、内陸方面を見ると景色は一変する。工事現場が広がる。

 

かつての市街地は、今更地が広がる。地元の皆さん方の無念さが伝わる。

かつての市街地は、今更地が広がる。地元の皆さん方の無念さが伝わる。

 

復興に向けて様々な工事が行われている。(大槌町)

復興に向けて様々な工事が行われている。(大槌町)

 

 

道路の至るとことに見られた「津波浸水区間」を表す立て看板。「こんなところまで津波が来たのか」と津波被害の大きさを示している。

道路の至るとことに見られた「津波浸水区間」を表す立て看板。「こんなところまで津波が来たのか」と津波被害の大きさを示している。

 

かつての名勝「高田 松原」は津波で跡形もなくなり、たった一本だけ残った「奇跡の一本松(モニュメント)」。

かつての名勝「高田 松原」は津波で跡形もなくなり、たった一本だけ残った「奇跡の一本松(モニュメント)」。

 

奇跡の一本松の立て看板

奇跡の一本松の立て看板

 

「震災前の白砂青松の高田松原」(現地立て看板より)

「震災前の白砂青松の高田松原」(現地立て看板より)

 

巨大な護岸工事が今も続く。

巨大な護岸工事が今も続く。

 

 

 

 

 

 

 
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ダブルナビで北海道・東北3000キロ ⑤

29 12月

函館から大間へ 早朝函館へ向かいコインランドリーで洗濯をして、昨日iPhoneで予約しておいた「津軽海峡フェリー」で大間港へ向かう。

 

左:コインランドリー前で 右:車の中より乗車中の車を写す(フロントに置いた切符が写り込んでいる)

左:コインランドリー前で 右:車の中より乗車中の車を写す(フロントに置いた切符が写り込んでいる)

 

フェりー大函丸船上にて

フェりー大函丸船上にて

 

本州最北端の地、大間岬で記念撮影。大間のマグロも有名。

本州最北端の地、大間岬で記念撮影。大間のマグロも有名。

 

大間岬を出てまもなく、下北半島の風間浦村で「下風呂温泉郷海鮮まつり」をやっていた。ここで少し腹ごしらえ。

大間岬を出てまもなく、下北半島の風間浦村で「下風呂温泉郷海鮮まつり」をやっていた。ここで少し腹ごしらえ。

 

十和田湖畔にある高村光太郎作の「乙女の像」を見る。湖畔の景色や夕焼けがきれいだった。温泉も気持ちよかった。

十和田湖畔にある高村光太郎作の「乙女の像」を見る。湖畔の景色や夕焼けがきれいだった。温泉も気持ちよかった。

最近、再びブログを書こうと決めた。先ずは中途半端に終わっている「北海道・東北の旅」を締めくくってからだと思う。
いよいよ次回から、被災地慰問の旅が始まる。

 
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ダブルナビで北海道・東北3000km(④)

06 9月

江差・松前・福島へ
横綱記念館に感動(7月29日) 富良野を出て道央自動車道で先ず札幌JCTへ向かい、そこから苫小牧室蘭の経て、落部ICで一般道へ出て、江差へ向かう。このあたりの一般道は家内が運転。

途中のサービスエリアにはウオーキングコースがあった。二人でしばし散歩。

途中のサービスエリアにはウオーキングコースがあった。二人でしばし散歩。

江差と言えばなんとなく、「江差追分」が思い浮かぶ。また、ニシン漁なども同時に浮かんでくる。前回の旅行ではこのあたりは通らなかったので、なんとか今回は松前半島を回りたいと思った。

幕府の艦船「開陽丸」

幕府の軍艦「開陽丸」

1866年(慶応2年)に徳川幕府の命運をかけ建造された軍艦開陽丸。オランダで建造された開陽丸は幕末、鳥羽伏見の戦い、江戸城開城、徳川幕府崩壊を見届け、1868年10月(慶応4年)に江戸を出帆、12月に蝦夷地に到着。 箱舘戦争最中の1868年12月(明治元年11月15日)に松前を落とし、江差に向かう土方歳三らの陸軍支援のため、海路江差へ向かうが暴風雪に遭いあえなく座礁、沈没したという。

開陽丸の内部を見学する。かなり大きな船であった。

開陽丸の内部を見学する。かなり大きな船であった。

その後100年有余年を経た昭和50年から始まった海中発掘調査では32,905点の遺物が引き揚げられたという。これらの歴史を含め多岐にわたる諸技術の変遷がわかる貴重な資料画展示してあった。

江差の後、松前城へ寄り,北海道最南端の白神岬へ。

松前城の前にて。

松前城の前にて。

北海道最南端の白神岬にて。

北海道最南端の白神岬にて。

白神岬を回り、次はどうしても行ってみたかった「横綱千代の山・千代の富士記念館」のある福島町だ。小さな町から二人の横綱が生まれているのだ。しかも、横綱千代の山は勝山市ゆかりの横綱だ。千代の山の奥様のお父さんが遅羽町出身ということだ。私の子供の頃には、横綱千代の山は何度か勝山へ巡業に来ておられるのだ。

横綱千代の山・千代の富士記念館の前で

横綱千代の山・千代の富士記念館の前で

横綱記念館の展示の一部

横綱記念館の展示の一部

横綱記念館にある稽古場。毎年、九重部屋の夏合宿に使われているとのことであった。

横綱記念館にある稽古場。毎年、九重部屋の夏合宿に使われているとのことであった。

 

 

 

 

 
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