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田舎の良さを孫達に

26 7月

夏はやっぱり水遊び
 一昨日帰ってきた孫達が約1ヶ月間が我が家で生活することになった。昨年から横浜に住んでいるが5歳と2歳の内孫である。幼稚園の夏休みということで勝山で過ごすことになったのだ。  

 息子は、1ヶ月間は単身赴任である。息子の嫁も孫達と勝山で過ごすからだ。息子は今日一人で横浜へ帰っていった(職場は東京)。  

 田舎の良さを孫達に味わってもらいたい。口で説明するよりも、いろんなことを体験させてやりたいと思う。特別なことをするのではなく、自然な形でよい思い出を作ってやりたい。  

 今日一日は休養を兼ねてのんびり過ごそうと決めた。昨日とうってかわって、ゆったりと時間が進む。今日は半日は孫達の相棒をすることに決めた。  

 午前9時頃から家の前へビニールのプールを設置し、隣にでっかいプラスティックの桶を置いて井戸水を入れた。そして、脚立にピーチパラソルをくくりつけた。暑ければ太陽の移動と共に場所を変えればいいのだ。  

 午前10時頃孫達はプール遊びを始めた。様々なおもちゃを使って水遊びを始めた。じょうろでみずを汲んだりお互いに水をかけ合ったり、浮き輪で遊んだりして夢中になっていた。  

 おやつは、我が家で育てたでっかい完熟トマトである。普段はあまり食べないそうだが、二人とも夢中になってトマトを食べ、お代わりをした。途中で私にもプールに入れという。何度も言うので、水泳パンツに着替えて孫達とビニールプールに入った。とても気持ちがよかった。  

 昼食後、下の孫娘と昼寝をした。退職以来、初めてのんびりした一日を過ごしたように思う。  

 私も、昔、母親の実家で夏休みを過ごしたが、その思い出は今でもはっきりと記憶に残っている。九頭竜川が近かったので水遊びも印象に残っている。焼いた川魚の味もかすかに思い出として残っている。  

 母の実家でのよい思い出を孫達にも伝えたいと思う一日であった。今年も、孫達を海や川へも連れて行ってやりたいと思う。孫達のおかげで私はこの年になっても海水浴ができる。有り難いことだ。  

トマトは畑で
 孫達は、トマトは八百屋やスーパーで買うものだと思っているだろう。そこで、水まきを兼ねて孫達を家庭菜園へ連れて行った。そして、紅いトマトを自分の手で取らせた。  

 今まであまりトマトを食べなかった孫達も、我が家の完熟トマトには目がないのだろう。おやつにも、ご飯の時にもたくさん食べてくれた。これからは毎日完熟トマトを食べるさせてやることができる。  

 田舎の者は私に限らず。自分の作った作物を有り難いといって食べてくれる人がいることはとても嬉しいと思うものだ。自分の身内となればなおさらだ。  

 トマトの他にも、なす、キュウリ、オクラ、ニガウリ、ササゲ(豆)、そして、もうじきトウモロコシや瓜類も実るだろう。夏休みのうちに孫達にうんと食べさせてやりたいものだ。  

家の前に設置したプールで水遊びに夢中になる孫達。脚立にくくりつけたピーチパラソルの中で、家内が孫達の遊び相手をしている。

 

(日記:孫達とプール遊び。午後は孫と昼寝。夕方は孫達と水やりを兼ねて野菜の収穫。その後、自作演歌のCD化。夜はウナギ。午後9時過ぎに区長がやってくる。今年の村祭りについて話し合う。村祭りの活性かを願う区長に協力したい。 

家庭菜園でトマトを収穫する5歳の孫娘

 

でっかいトマトに大喜び

 
 

久々の『春駒太鼓復活』

25 7月
『春駒太鼓』復活に感謝
 今日は『越前大仏夏祭り(灯籠祭り)』の日だ。ここで、久々に復活した『越前勝山春駒太鼓』の演奏を行う日だ。高校時代の部活動の時のようには練習に十分な時間をとることが出来ない。そんな条件の中で、高校時代に和太鼓をやっていた5人の若い女性が名乗りを上げてくれた。

 先月のことである。約1ヶ月あまりの短い期間ではあるが、それなりに練習してきた。今日も越前大仏の門前町に午前9時に集合した。しかし、一人は福井での仕事があり全員が揃わない。午後は、別の一人が福井で仕事があるために福井へ向かう。

 全員が揃ったのは、午後4時頃。約1時間しか全員で練習できなかった。こうした条件の中で、午後6時20分頃、本番が始まった。そして、あっという間に終わってしまった。今日初めて演奏した曲もある。桶胴太鼓を担いで演奏する『春馬』だ。

 まだまだ練習しなければ身体が覚えないが、初めてにしてはまあまあかなと思った。楽器を全て片づけた頃には午後8時を過ぎていた。久々の和太鼓演奏で、私は主に篠笛を吹いていた。5人のメンバーには感謝したい。

 今日一日でかなり汗をかいた。かなり水分を補給した。和太鼓の準備や後片付けでかなり腕の筋肉を使った。正に肉体労働であると思った。文化系の活動であるというよりも、体育系の活動であると言ってもいいくらいだ。

 ところで、今日の大仏の祭りだが、年々さみしくなる。越前大仏の木村監院さんと根本的に考え直さなければならないと話した。時間をつくって大仏について私見を述べたい。

(日記:大仏の夏祭りに和太鼓をたたくために、終日、楽器運搬、練習、本番などに明け暮れた。孫達も太鼓を見に来ていたが、ろくに相手をすることができなかった。)

初めて演奏した新曲『春馬』

 

チームのテーマ曲『春駒囃子』を演奏するメンバー

 

チャッパを使った楽しい演奏

 

女性には過酷な大太鼓の演奏をするメンバー

 
 

授業とは

24 7月

授業は教師の命
 教員になれば誰もが等しく行うのが、授業である。この授業であるが、うまくいったと思えることは少ない。というよりも、個人の中で常に進化し続けるものであると考えた方がよいかも知れない。

 私はずいぶんたくさんの授業をしたと思っているが、一方ではかなり沢山の授業も見てきた。そして、自分の授業観も年齢と共に変わっていったと思っている。

  授業は、説明ではない。少しでも児童・生徒がよく分かるようにあの手この手を使って理解させることでもない。別の言い方をすれば、教科書を教えることではない。教科書で教えるといった方が当たっているかも知れない。

 他人よりも、知識の量が少しでも多い子どもを育てるよりも、未知のものを探求しようとしたり、学ぼうという意欲を持った子供を育てる方が大切であろう。今の時代は、その気になればいくらでも学ぶチャンスはあると思う。

 大切なことは自ら学ぼうとする子どもを育てることである。となると、教科書を教えているだけでは子ども達にそのような気持ちを育てることはかなり困難である。教科書を使いながら、子ども達が、自ら考え、自ら解決しようとする気持ちを持たせることが必要であろう。

大人の背中で育てる
  子どもに向かって親や教師が「夢を持ちなさい」ということは簡単である。よほどでない限り、そうしたメッセージは子ども達に伝わり難いであろう。それよりも、大人自身が自分の夢に向かって努力する姿を見せることの方が大切であろう。

 「もっと生き生きとしなさい」と子どもに向かっていうよりも、その言葉を発する人間が生き生きとすれば子どもにもそれは伝わるはずである。言葉で教えることができることと、言葉では伝わりがたいものがある。

 私も数学を選んだが、大学で数学を学ぶ楽しさを常に口にする教授の姿を今も忘れない。「数学を学ぶことが楽しくない人間は、数学を学ぶ意味がない」というようなことをおっしゃったことを今も覚えている。

 楽しそうに数学について語るその姿は今も私の脳裏に焼き付いている。

 何歳になっても、日々の生活を楽しむ心の余裕がほしいものである。教員を目指す人、現在教員である人に贈る言葉があるとすれば「教師という仕事を楽しんでほしい」という一語に尽きる。

 どうすれば、子ども達を意欲的にできるか、創造的な人間にすることができるのか、そんなことを考えながら、あれこれ思案することは教師冥利に尽きる。苦労は多いが、楽しい取り組みであり、やりがいのある仕事であろう。

(日記:午前中、越前大仏へ和太鼓を運搬。午後は、車庫や部屋を清掃。まもなく息子の家族が帰ってくる。孫達との再会が待ち遠しい。)

 
 

デスクワークから肉体労働

23 7月

机仕事を離れて
 退職してから、体重が4kgほど減った。標準的な体重になった。ダイエットをしたわけではない。毎日汗をかくからだ。1日に2、3回は下着を替えたり、シャワーを浴びたりしなければならない。

 これまでは、夏はクーラーの効いた部屋で、冬は暖房の効いた部屋で仕事をしていることが多かった。汗をかくことが皆無ではなかったけれど、今ほどではない。

 今は、下着どころか上に着ているシャツまで汗で濡れてしまうほどだ。一日に何度も着替えなければならない。腹回りもだいぶすっきりしてきた。

 今日は、朝、6時頃から日曜大工を始めた。長胴太鼓の台を作るのだ。私は長胴太鼓を5個持っているので、キャスターの付いた台を5個作るのだ。木材は全てのこぎりで切った。正に力仕事だ。腕がとても疲れた。

 移動しやすいように、車を着けた。完成したのは、午後5時過ぎだった。かなりの長時間の作業だった。特に、途中で和太鼓を一人で越前大仏の門前町まで運んだ。日曜日に行われる越前大仏の夏祭りに出演するためだ。

 午後8時頃から、和太鼓の練習を始めた。私以外は働きながらの練習なので、なかなか大変だ。特に日曜日も仕事があるものが多いのでなおさらだ。それでも和太鼓をやりたいという若い娘らの気持ちはとても有り難い。

筋肉が悲鳴を
 せめて裏方だけは頑張りたいと思って、楽器を運ぶのだが、この暑さには参ってしまう。若い頃はそんなに感じなかったが、今は太鼓の重さが身体にこたえる。筋肉が痛くなる。呼吸をしても横腹が痛くなった。筋肉痛だろうか。

 この調子で毎日生活していたら、筋肉も付くのではないかと思われるが、その前に身体が悲鳴を上げるのではという心配も頭をよぎる。身体と相談しながら、肉体労働とつきあっていきたい。

(日記:早朝より午後5時過ぎまで木工作業。7時過ぎに家内達の夏祭り練習を覗きに行く。私の作った『勝山よいとこ』などを踊ってくれるらしい。3曲踊るなら1曲は愉快なものをやるようにアドバイスした。その後、和太鼓の練習。帰宅は午後11時頃だった。メンバー全員が揃ったのは午後10時頃だったので遅くなった。)

 
 

時間を主体的に使う

22 7月

午前4時起床
 年をとると夜いくら遅く寝ても、朝は決まって5時過ぎに目が覚めてしまう。私は寝付きはいい方だ。床に入ってだいたい5分で寝てしまう。しかし、一端目が覚めると、2度目は寝付きが悪い。昨日は、12時過ぎに寝たが、朝4時頃目が覚めてしまった。

 日中は暑いということで家内は、午前5時に畑へ出かけた。私も、午前5時から庭の草取りをした。まだ朝日が昇っていないので、涼しく作業をすることができた。

 周りの人に聞いても、朝早く行動する人は多い。役所勤めの時は、早朝家庭菜園へ行くことはできなかったが、今はいざとなったら昼寝をすればいいという頭があるので時間に縛られることは少ない。

「ひまですか?」
 昨日まで和太鼓を教えていたDさんは、個人的に和太鼓の練習をしたいときに私に次のように問いかける。

 「明日、ひまですか?」

と。返答に困る。“ひま”とは、私の考えでは“することが全くない状態”をさす。「ひまですか?」と問われて「ひまじゃない」と答えると、おそらく彼女は忙しくて個人指導は無理だと思ってしまうだろう。

 それなら、「ひまです」と答えると、することがなくて毎日をぶらぶらと過ごしているように思われてしまうだろう。「ひまですか?」と問われたときの私の本当の答えはこうである。

「全くひまではない。現役時代と同じく毎日がとても忙しい。自分のやりたいこともあまりできないほど忙しい。毎日することがたくさんあり過ぎてとても24時間(1日)には収まらない。しかし、現役時代と一番異なることは、スケジュールをやりくりすればいくらでも自由な時間を生み出すことができる。だから、あなたに和太鼓を教える時間もつくれる。しかし、ひまではないですよ。」

 退職した今、現役時代と一番異なることは、“時間を自分の納得のいくように主体的に使うことができる”ということである。

 旅行へ行きたければいつでも行けるし、ショッピングにもいつでも行ける。産業支援センターの講座を受けたければ申し込んで参加することもできる。盆踊りの復活に自分の時間を使うこともできる。時間に、縛られることは少ない。

 ひまだから何かをやっているのではなく、やりたいからいろんなことをやっているのである。生きているという実感がある。人生は、やはりこうでなければならないと思う。現役時代には全く味わうことのできなかった感覚である。

(日記:午前中、自宅の周りの草取り。絨毯洗い。日中はとても暑いので、午後は、まず昼寝。昼寝は退職してから3度目。その後、家庭菜園作業。夜は孫達とウェブカム。孫達はいつもダンスを見せてくれる。比較的のんびりした一日だった。)

 
 

ミニミニコンサートでお別れ

21 7月

「えっ?三宅を知ってるの?」
 「趣味は何ですか?」
 「和太鼓です。大学で三宅を勉強しました。」 「福井のカルチャーセンターで和太鼓を習っています。」

 これが全ての始まりです。和太鼓に興味のある外国人と輪太鼓好きの男が出会うのに外国語の壁などありませんでした。まもなく、彼女たちは私の元へ通うことになりました。好きであるということは大切なことです。

 わずか半年の付き合いではありますが、左義長祭りには地域の集会場へ出向き練習させてもらったり、櫓へ登らせてもらうこともできました。4月からは、普通の和太鼓の練習を始めました。

 彼女たちにとっては和太鼓の練習になったでしょうし、私にとっては英会話の練習になりました。いつでもたくさんの質問をしました。

 「英語でなんと言うの?」

が、私の口癖になりました。特に外来語の発音には大きな差を感じていました。「オカリナ」でも彼女たちが発音するとまったく違うものに聞こえました。

 そして、今日最後の和太鼓のミニコンサート。Kさんの通っていた北部中学校の校長先生ご夫妻始め勝山の先生方、そして、彼女の仲間のALTの先生方もたくさんおられました。

 一区切りができて私も満足しています。

ミニコンサートポーズを決めるALTの二人(遅羽公民館で)

 

かっこいいフォームで「三宅」を演奏中の二人

 

初対面の方が賛助出演
 私のブログで知り合った福井市のKさんがこられました。初対面でした。そして、私が40数年前に作った『勝山小唄』と『津軽じょんから節』を歌ってくださいました。とても、上手な歌と三味線で感心しました。ミニコンサートに花を添えてくださり感心しました。

 人生において、人は何処で誰と知り合いになるかは、まったくわかりません。しかし、一ついえることは、前向きに生きていれば、誰とでも知り合いになれるということです。前向きに生きていれば、いろんな友達ができるということです。

 初対面の方が、一緒のステージに立てるなんて、すばらしいことです。今後とも、何らかの形でつながっていけるのではと感じています。何かで共演できればと思っています。

ミニコンサートで40数年前に私の作った『勝山小唄』を歌い演奏するKさん夫妻。私は即興の和太鼓でお付き合い。

 

 その後、外国人の方々に太鼓に触れていただきました。最後に、再結成した私のメンバーが練習中の『白山物語』を演奏しましたが、8月15日に向けての練習中の曲でまだまだということを痛感しました。

 ミニコンサートのあと少し練習し、私の事務所(山児童館)へ戻り、午後10時過ぎまで練習しました。メンバーは社会人になり仕事も忙しくなりました。その上、勤務地も福井が3人いて、しかも3人とも土日の勤務もあるなど、練習時間には大きな制限がありますが、今しかできないことにがんばってくれればと願っています。

 実に来てくださったかたがたに感謝したいと思います。また、二人のALTとはお別れすることになりました。彼女たちの洋々たる前途に幸多かれと祈りたいと思います。また、新しいALTが「和太鼓を教えてください」と言ってきています。また、0から始めたいと思っています。

(日記:午前中、ALTの和太鼓練習に付き合う。午後、ミニコンサートの準備。ホームセンターで丸棒を買ってきて練習用のバチを作る。
午後6時よりリハーサル。午後7時よりミニコンサート開始。その後、チームの和太鼓練習。かなり疲れた一日だった。)

 
 

盆踊り練習会と童話講座

20 7月

昼の練習会
 今日は夏祭りの「盆踊り練習会」の2回目を教育会館で行った。午前9時半から午前11時までの1時間半だ。昨年は勝山の民謡中心だったが、知っている民謡も入れてほしいという声があったので、勝山の民謡以外にも3曲練習した。

 別に私は盆踊りの指導者ではない。しかし、盆踊りを復活させようと思うと、やはり練習をしないわけにはいかない。そうした関係上、知っているいないに関係なく、民謡の指導をするハメになってしまった。

 しかし、私一人が指導するわけではない。盆踊り復活のアクションから生まれた村岡地区の『踊り隊ひらり』の誰かが必ず駆けつけてくれるので安心だ。今日も、『ひらり』のメンバーが3人駆けつけてくれたので助かった。輪の中心で踊ってもらっている。

 この他にも、私の地元猪野瀬地区の『さわらび会(食生活改善委員)』の皆さんや、遅羽地区の皆さん、浄土寺区の皆さんも毎回参加してくれているので心強い。

 前回より参加者が増えた。これで午前中の練習会は終わりだ。今後は、昼働いている人のために、午後7時から練習することにしている。また、今後の練習会には、伴奏隊や歌い手も加わることになっている。

夏祭りの盆踊りに向けて練習に励む皆さん(於:勝山市教育会館)

会員の作品を題材にしての童話講座
 午後7時から市民大学の『童話講座』が教育会館で開かれた。前回は所用で童話講座に参加することができなかった。今日は二人の受講者の作品3編を題材に講座が開かれた。

 受講は初めてだというIさんの作品は、初めてにしてはとてもよかった。私と同い年だが、なかなかスピード感のある童話を書いていた。彼女は、いろんなことにチャレンジしている。素晴らしいことだ。特に、小学校で童話の読み聞かせを長年やっているらしく、読み方も、上手かった。

 取り上げられた3つの作品は、三人称の立場で書かれたものと、一人称で書かれたものがあった。私も、3年間この講座に参加していて、一人称で童話を書くことを覚えた。主人公になったつもりで、文章を書くと、意外にすらすらと言葉が出てくるのには驚いた。

 最後に講師の藤井先生から宿題が出された。これからの二ヶ月間の間に童話を書いて提出するというものだ。楽しみではあるが、産みの苦しみを味わうことになるかも知れない。

 これまでの自分の作品に自分で絵を書いて童話集を作ってみたいと思っている。読み聞かせに使えるような絵本ができたらいいなあと思いながら今準備を続けている。

(日記:午前中盆踊りの指導。午後、和太鼓に使う篠笛の楽譜書き。夕方、ポンプで野菜の水やり。午後7時より市民大学の『童話講座』を受講。)

 
 

ラストレッスン

19 7月

発表の機会でやる気を
 思えば、今の二人の外人との出会い仕事の延長からだった。日本に来ている外国人の先生が問題なく、快適に暮らしているのだろうかということを尋ねるために会を持った。その会の最後に、「あなた方の趣味は何ですか?」と尋ねたときのことだった。

 三人のうちの二人が「趣味は和太鼓です」ということだった。おまけに二人のうちの一人は「アメリカの大学で三宅を勉強しました」という返事だった。

 三宅太鼓は、太鼓を横向きに、低い太鼓台に乗せてたたく独特の和太鼓である。リズムは比較的簡単だが、構えは全身を使う独特のもので決まればとてもかっこよいものである。

 そして、まず最初に左義長太鼓を教え、4月からは和太鼓を指導した。しかし、彼女たちは7月にはアメリカへ帰るという。いくら熱心でも3ヶ月あまりで人前に出て太鼓を打つことはとても困難である。

 そこで彼女たちに提案したのだ。「最後に友達を呼んで発表したら……」と。彼女たちは乗り気であった。しかし、時間がない。練習用のCDを持たせた。忙しくてもきっちりと練習した。

ラストミニミニコンサート
 そして、明後日、遅羽公民館でミニミニコンサートを開催するのだ。彼女たちの友達が少しは来るだろうということだった。今日は彼女たちは忙しそうだった。しかし、今日は彼女たちにとって私の事務所(山児童館)での最終練習日だ。

 地(ベースリズム)の異なる3曲を教えた。初心者にしてはとてもよいところもあるが、曲を途中で忘れてしまってミスすることも多かった。果たしてどうなることやら、21日が心配である。

事務所のミニ・スタジオで太鼓の練習をする二人のアメリカ人ALT(外国語指導助手)

せっかくの機会だからCDを
 彼女たちは歌が上手い。とくにD三はとても上手だ。彼女のために何かを作って歌ってもらいたいと思っていたが、なかなか時間がなかった。昨日から、今日にかけて曲を作った。幾つ作っても、気に入ったものができない。通常は一ヶ月以上かけて一曲作るのだが、今回は二日ほどで作らなければならない。

 彼女たちが帰国してしまうからだ。昨日作った曲を今日聴いてみると、全く気に入らない。朝から、コンピュータの前で、曲作りに集中した。頭からメロディーを搾り出そうとするが、なかなか出てこない。その前に疲れてしまった。

 ギターでメロディーを考える → パソコンに入力して聴いてみる → 修正する

 この繰り返しだ。パソコンで聴いてみるとおかしな所がよく分かる。しかし、それ以上のメロディーを作るとなると簡単ではない。正に「産みの苦しみ」だ。

 そして、ようやく、午後5時に不満足ながら、メロディーはできた。CDにした。歌詞はまだ十分ではない。今晩から明日の昼にかけて歌詞を作らなければならない。寝ている時間がなさそうだ。

(日記:終日歌作り。午後7時より9時まで太鼓のレッスン。本当に疲れた一日だった。パソコンと太鼓で腕は棒になった。)

 
 

監督は90歳

18 7月

日雇いゲートボーラー
 猪野瀬地区(勝山の1公民館区)のゲートボール大会が開かれた。3日前に選手が足りないので出てくれないかということで参加させていただくことにした。過去にも、一度誘われたことがある。

 午前8時の開会式に間に合うように弁天緑地のゲートボール場へ出かけた。我が片瀬地区からは3チームがでることになった。私はBチーム。監督は90歳のNさん。ゲートボール歴は長い。あれこれ指示が出た。第1ゲートを通過するのに苦労した。

 このNさんのように高齢になってもこんなに元気でいられるだろうか。ゲートボールが上手くて、ゲーム全体を把握していていろいろ指示を出すなんて本当に素晴らしい。

 弁天緑地は、桜の木の下に入れば涼しい風が吹いていた。ここで昼寝をしたら気持ちがいいだろうなというような爽やかな川風だった。試合を待っている間いろいろ話すことができた。我がチームは1勝1敗だった。決勝へは出られなかった。

 会場には、元気な高齢者がたくさんおられた。あの年まであの元気で頑張りたいと思った。目標ができてよかった。

反省会は4時間
 12時から村はすれの居酒屋で反省会が始まった。50歳代から90歳までの男女が集まり、生ビールや生酒を飲みながら、交流を深めた。今日に関してはゆったりとした時間が流れた。

 いろんな話が飛び出した。農業のことやまちづくりのことなども出た。腹が一杯になったが、みんな去りがたく、4時過ぎまで反省会が続いた。昔は、このようにゆったりとした時間の中で話すことができたが、近年はとてもあわただしかった。

 ゲートボールに出たことよりも、こうしていろんなことを話し合えたことが収穫であった。退職したものの特権かも知れない。このゆったりとした時間の中で、地域のためにできることをやりたいと思った。

(日記:午前中ゲートボール大会。午後4時過ぎまで反省会。その後、外国人に歌ってもらうための歌作りを行った。短時間ではなかなかいいメロディーが浮かばなかった。夜、区長のTさんが来て秋祭りや奉納芸能について2時間ほど話し合った。今日は、二人の娘がやって来た。上の娘は二人の子どもを連れて福井から、下の娘は大阪からやって来た。)

 
 

コンサートとマナー

17 7月

私語を慎んでほしい
 今日は、家内の両親と一緒にサンドーム福井へJA主催の『伍代夏子とコロッケ』のコンサートを見に出かけた。私は運転手をつとめた。演歌を作っている私としては、何かと参考になることが多かった。

 特に、コロッケの芸能生活30周年記念曲である『生まれた理由』は、とてもよい曲だった。さだまさしの作った歌だそうだ。物まねをせずに歌っていたが、きっと流行するだろうという予感がした。

 いつもコンサートになると気がかりなことがある。それは私語が多いことだ。歌、語りのいずれの場面でも、隣と延々と会話を交わすのである。気になってしょうがない。やむなく、「静かにしてください。」と優しく言ったが効果はまったくなかった。

 以前に同じサンドームで『ボリショイサーカス』を見たときのことだ。3人の子供を連れた母子が私の前でこのサーカスを見ていた。子供は走り回り、うるさいやら視界をさえぎるやらでサーカスを見るどころではなかった。

 家内は止めたが、私は我慢ならずに「どうにかなりませんか」と言った所、若い母親は食ってかかってきた。他人に迷惑をかけているという気持ちがまったくないのだ。今でもサーカスの中身は忘れたがこのことだけはよく覚えている。

 今日は高齢者が多いのか、私語など当たり前であった。いちいち隣と感想を言い合うなど、周りに気配りできない高齢者が多いなあと思った。

高低差のない席では帽子をとってほしい
 今日もそうであったが、大きなつばのある帽子をかぶって席に座っている人がところどころに見られる。私の隣の人もぼやいていた。「あの帽子のおかげで何も見えない」と。

 これは今年に入ってからのできごとだ。フェニックス福井でのコンサートの時のことだ。私の前に、大きな帽子をかぶった男性が座っていた。指定席券を買ったのだが、この帽子のために舞台が本当に見難かった。家内に「前の人に言うぞ」というと、家内はやめてと言う。サーカスの件を思い出しているのだろうか。

 せっかく高価な指定席券を買ったのに、この帽子のおかげで台無しだ。どう言おうか少し考えた。

 「すみませんが、コンサートが始まったら帽子をとってもらえませんか」とやんわり言った。

 前の席の男性は、即座には帽子をとらず、コンサートが始まってからとってくれた。他人に言われるまでもなく、大きな帽子をかぶっている人は、他人の迷惑になることに気付いてほしいと思った。高低差のある席ならまだしも、フラットな会場ではなおさらだ。

 今日は、隣の席の人が帽子のために見えないので、困っていた。代わりに言ってあげようと思ったが、帽子の人はひとつ隣の席へ移ったために、結局のところ、言わないままになってしまった。

 いかなる場所であろうとも、他人の迷惑にならないようにすべきである。特に、高齢者になると、他人の迷惑になっていることに気付かないでいることが多い。自分も気をつけなければならないと思った次第である。

(日記:午前中はジャガイモをとった後の畑を耕した。暑くて汗で着ているものがずぶぬれになるくらいであった。その後、トマトの支柱を直した。午後は、サンドームへ歌を聴きに出かけた。)