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Archive for the ‘未分類’ Category

許容範囲が狭くなる……

16 7月

想定外の異変に対応できるか
  現職(高校教員)時代、夏休み中の補習授業は本当に暑かった。教える側の教員も、授業を受ける生徒達も汗を流しながら頑張ったものだ。それが夏というものだと、誰もが疑いを持たずにいた。従って、涼しくなる秋は本当に気持ちがよかった。

   子ども時代は、家庭で暖をとるのは、炭の入ったこたつや火鉢だった。部屋にはすきま風が入ってきても、綿入れなどを着て対処したものだ。それが冬だったのだ。夏の部活動は、耐えがたい暑さであり、冬は逆に寒かった。しかし、春になれば暖かく、秋になれば」涼しくなったのだ。

 夏は、「♪アイスキャンデー~♪」と自転車でアイスキャンデーを売りに来るおじさんがいたし、池には、スイカやキンカン瓜が浮かんでいた。自然に逆らわず、受け入れていたのだ。そして旬のものを食べた。戸を開けて蚊帳の中で眠ればそれなりに涼しい風も入ってきたのだ。

  しかし、今はどうだろうか。学校にもエアコンが入る時代になった。教室も冷暖房が完備しつつある。こうした環境に慣れるとなると、外での部活動は過酷に思えるだろう。熱中症などで倒れる子どもが増加している。

  暑さ、寒さに耐えられないのだ。許容範囲が狭くなっているのだ。少し暑くても、少し寒くても、耐えられないのだ。何か想定外の異変が起こったらどうなるだろうか。

  許容範囲が狭くなっているのは、気温ばかりの話ではない。他人から、叱られたとき、叱られ慣れていないので極度に落ち込む子どもがいる。こうした面でも、許容範囲が狭くなっているのだ。上司が部下を叱るのに気をつけないと、即会社を止めたり、引きこもってしまう。

  温室育ちの子どもが増えるのは、温室で育つ野菜が増えるようなもので、自然に育ったものとは大きく異なる。野菜なら、本来持っている味が出ないだろう。こんな事では、病気にも抵抗力の無い人間が増えていくのではなかろうか。そのうちに野性味溢れる国々の人達に太刀打ちできなくなるのではなかろうか。

終日余った竹を使った作業。合って方の新型プランター作りにチャレンジした。

(日記 今日は、終日、竹プランターづくりで余った竹を使って、花壇の囲いを作ったり、新型の竹プランターづくりにチャレンジしたりした。竹を縦に使ってのプランターだ。三階建てのプランターなのだ。これで、夕方まで時間を費やした。夜、7時半からゲートボールの練習。といっても、私は普段はゲートボールをやらないが、地区対抗ということで、付き合いで参加している。我がチームのキャプテンは93歳の男性だ。ゲームに参加しているだけでも、感心する。彼の長生きの秘訣である「胃袋を休める」と「友達を作って語る」を地でいっているような生き方だ。ある意味では手本になる。)

ナイターでのゲートボール練習。昼の暑さが嘘のようだった。円内は私。半ズボンで立っているのは93歳の監督。

 
 

いつどこで何が……

15 7月

災害は“想定外”でやってくる
  最近の自然災害を見ていると、共通した部分が見られる。それは、被災地の高齢者の方々が“異口同音”に「長いこと生きてきたが、こんなことは初めてだ」という発言だ。今回の九州の豪雨災害にしてもそうだ。近年の“福井大豪雨”の際にも同様だった。

  昔から言い古された言葉に“災害は忘れた頃にやって来る”があるが、最近はそうではないのだ。それまで全く被害に遭わなかった地域が、あるとき突然大災害に遭うのだ。それまでは、雨が降っても河川が氾濫したことのない地域に、突然大雨が降るのだ。

  いつ何時、何が起こるかわからないのだ。現代は、“想定外”の事が起こりうるのだということを私達は肝に銘じておかなければならない。自然災害のに対して普段からどう対処すべきかを考えておかなければならない。

  災害に対して備えることはとても大切だ。先の福井豪雨では携帯電話や普通電話や車での連絡網はほとんど機能しなかったという。その後、我が町でも防災無線が設置され、電柱に取り付けられた拡声器によって情報を得られるようになった。

  しかし、これらも、今回の豪雨の場合には氾濫した川の水音や雨音によってほとんど聞き取れなかったっという。そうなると、自力で避難することも頭に入れておかなければならないだろう。他に頼るのも大切だが、それらが機能しなかったときには自分で判断しなければならないのだ。

  自然災害ばかりでなく、事故もどこで遭遇するかわからない。交通事故は、被害者にも加害者にもなる可能性があるので注意しなければならない。気の毒なのは、通り魔などの被害に遭うことだ。

  今、日本は、災害に打ちのめされている。いつどこで何が起こっても不思議ではない状態が続いている。他の地区の出来事を「他人事」だと思わないで、いつ自分の周辺で起こるかわからないということを、常に考えておかなければならない。

水路点検。取水口の砂利を除去した。

(日記 午前8時より、農事法人の依頼により、田んぼの水の取り入れ口の砂利の除去作業。帰宅してからはハワイアンバンドの編曲作業。東京から帰省している次女の助けを借りて、楽譜づくり。午後も、作業を継続。トウモロコシの初採り。午後8時半より横浜の長男家族とウェブカム。孫に、国語の朗読と歌を聴かせてもらった。夏休みに会うのが楽しみだ。)

横浜に住む長男の家族とウェブカム。夏休みに会えるのが楽しみだ。

 

トウモロコシの初採り。植えておいてよかった。

 
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年月をかけて仕上げること

14 7月

インスタント時代に
  この頃は何でも手に入る。金さえ出せば即座に手に入るモノが多い。しかし、金で手に入れたモノには価値がない。こんな時代だからこそ、時間をかけてじっくり手に入れた『モノ』に価値があるのではないか。

  特に、子ども達に願う。「一週間かけて仕上げる」、「一ヶ月間かけて仕上げる」、「1年間かけて仕上げる」、「3年かけて仕上げる」、「10年かけて仕上げる」……、こんな経験をしてほしい。

  ここで仕上げるとは、「モノを作ること」のみならず、「何か(技術など)を身につける」、「何かを育てる」など、“それまでできなかったことをできるようにする”ことでもよいのだ。目標を定め、時間をかけてチャレンジするということだ。

  日々の変化は微々たるもので進歩を実感できないかもしれない。短期間では、進歩どころか後退しているかもしれない。しかし、目標を定めて毎日地道な努力を続ければ、一定期間では進歩が可能だと信じたい。

  この地道な努力を私は『毎日パワー』と呼んでいる。子ども達にも理解してもらえるようにするために在職中は意識して使っていることばだ。これは何も子ども達のためばかりではない。自分自身にも当てはまるのだ。

  私も、1ヶ月、3ヶ月、今年中、今年度中の目標を密かに定めている。後は、欲張らずに毎日少しずつでも実行することでよい。目標を定めたら『毎日パワー』を信じて、その日のことさえ考えればよい。先のことを考えすぎると重荷になるからだ。

  「桃栗3年柿8年」という言葉がある。8年がかりで立派な実のなる柿の木を育てることができるのだろうか。柿の実をたくさん実らせるのは時間のかかることかもしれないが、柿の木を植えなければ収穫は期待できない。

  子ども達には、「農」に親しんでほしい。多くの作物は数ヶ月から半年はかかるのだ。時間をかけて手に入れることの「尊さ」を経験してほしい。インスタント時代の今だからこそ価値あることなのだから。

竹プランターづくり。必要な人に差し上げたい。

(午前中、「花咲くまちづくり」の一区切りとして「竹プランターづくり」を行った。三つのうち二つは村の人に差し上げたい。昼頃、家内がイチジクを収穫してきた。いよいよイチジクシーズン開幕だ。今は実が着き過ぎている。かなり摘果したがそれでも実が多すぎる。去年は、完熟できなかった実が冬まであった。木の能力と実の数のバランスが大切だ。午後も竹プランターづくり作業を継続した。午後4時から「親子太鼓教室」。保護者にとってはかなりハードなトレーニングになっているらしい。まさに“太鼓ビックス”だ。)

初採りの大きなイチジク。早速、初物は仏壇にお供えし、味わった。いよいよいイチジクシーズン開幕だ。10月いっぱいは収穫できる。

 
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バランス

13 7月

人はパンのみで生きられるのか
  NHKの午後7時半からの番組『退院後が変わる▽遠隔医療 カルテ共有で介護』を見ていた。医療費抑制のためか、最近は、長期入院が許されない状況になっている。テレビで、 I Tを活用して、“家庭にいながら病院にいるかのごとく、看護師や医師と顔を見ながら話すことができ、心電図などのデータも病院で把握できるシステム”についての番組だった。

  患者は、まるで病院にいるかのごとく、I T技術によって、体調を管理してもらえるシステムだ。寝ている間に異常があっても、病院側ではそれがキャッチし、対応できるというわけだ。一人暮らしの高齢者には安心できるシステムだろう。

  自分もこのようなシステムにお世話になるかもしれない。体調管理や、病状の突然の悪化に対しては、データが病院と直結しているために、いろいろ指示を受けることができ、安心だろう。しかし、健康管理だけでは、人は生きてはいけないのではないか。

 健康維持だけでは孤独な一人暮らしを乗り切り難いのではないかと思った。体と心のバランスが必要ではないのか。身体の健康は、こうした I T技術の進歩によって保たれるだろうが、生き甲斐や精神面での満足感は別の次元の話であろう。

  どうせ I Tを活用するならば、こうした高齢者こそ、遠隔地にいても顔を見ながら話せるシステムも必要ではないかと思った。長年の人生経験で得たものを次世代に伝えるのは生き甲斐につながり楽しいことではなかろうか。いつまでもどこか小さな部分でも現役でいたいのだ。

  心電図や脈拍、血圧、などのデータを病院のパソコンに送り健康維持に努めると同様に、いつでも話せる仲間がいて、子ども、若者、同年代の者と情報交換ができるシステムも必要ではないのだろうか。I T関係者の活躍を期待したい。

  そんなことを、番組を見ながら考えていた。健康作りは何よりも大切だ。しかし、それだけでは人は生きてはいけないと思う。生き甲斐づくりにも I Tを活用できないかを考えてみたい。医者とI T関係者のコラボで一人暮らしになっても、人とつながることのできる社会出会ってほしい。

 こんなことを考えていたら、「人はパンのみで生きられるか?」という問いかけを思い出した。

・・・・・・・・  マザーテレサの言葉 ・・・・・・・・

  貧しい人たちは、私たちが彼らに与えるよりはるかに多くを、私たちに与えてくれます。富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。貧しい人たちは、私たちが彼らに与えるよりはるかに多くを、私たちに与えてくれます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

倉庫を改装した集会所で、高校生の指導を受けてヨサコイ風のパフォーマンスをする若い衆。今から今から三十年余り前のこと。

(日記 午前中は、居間と自分の机の周りを片付けた。また、公民館から借りてきたアルバムから「片瀬区民が活動している場面の写真」をスキャンした。いつか『かたせ瓦版』で紹介できるだろう。 アルバムを見ていて、「みんな青春があったんだ」ということを発見した。30年、50年前の写真を見ていると、それぞれの団体が公民館祭や防災などで頑張っていたことがよくわかる。午後は、バンドカラオケづくり。かなり時間がかかった。昨晩最終電車で帰省した次女がいて少し賑やかだ。特に、家内は喜々としている。)

AKB48風に踊る若妻達。今やみんなおばあさんだ。

 
 

モノ探し

12 7月

時間の無駄
   今朝は、大切な鞄を紛失し、かなりの時間探し続けた。自分勝手に忙しくしているために、使ったモノを元へ戻さないからだ。家内の入院で一時期一人暮らしをしたが、このとき、一番恐怖だったのは、モノの紛失だった。誰にも聞くことができないからだ。

  常に、携帯、免許証、車のキー、デジカメは、定位置に置くよう心がけた。いつ何時、緊急事態が発生してもすぐ動けるようにするためだ。しかし、今朝は、完全に見失ってしまい、一時間ぐらいは「モノ探し」に時間を費やした。

  モノを探さなくてもよいように、定位置に置くと言うことで、専用の鞄まで買った。「バンド」、「和太鼓」、「オカリナ」、「民謡」、そして、「子育てマイスター専用のグッズ(紙芝居の箱、絵と脚本)」などを個別の鞄に入れるようにしている。鞄には入りきらないモノもあるが。

  しかし、バンド一つとっても、一つの鞄の中へ収まるような量ではない。ギターだけでも、予備の弦、ピック、エフェクター、アンプ、コード、そして楽譜などがあるからだ。楽器が異なればまたいろんなものが必要になる。

  考えてみると、いろんな事をやり過ぎるからだ。しかし、「どれかを止めろ」と言われても、簡単にどれを止めればいいのか決めきれない。結局、あれこれやり過ぎてモノが多くなり、どこに何があるのか、忘れてしまって、長時間探す羽目になるのだ。

  時々、自己嫌悪に陥ることがある。「急がば回れ」ではないが、次に使うことを考えて所定の位置に使ったモノを戻すしかない。今日は、失ったモノがもう出てこないだろうと諦めかかった。昼過ぎに家内が見つけてくれた。出てこなかったら大変なことになるところだった。

初共演。果たして成功するか、少し心配だ。

  だんだん、記憶力が悪くなり、物忘れも多くなっていくだろう。これからは、加齢と戦いながら、何でもやっていくのだろうか。寂しくはある。しかし、百歳過ぎても絵を描き続ける画家・豊田三郎さんや九十歳をこえてなお創作し続けるアンパンマンの作者・やなせたかしさんのような方がおられると勇気が湧いてくる。

 今後は、貴重な時間をモノ探しに費やすことのないように、何か具体的な対策を考えてみたい。これまで何度同じことを考えただろうか。今度こそ本気で考えたい。

(日記 午前十時半より市役所に於いて開催された『平成24年度勝山市林道愛護組合連絡協議会』の総会に出席。午後は、家庭菜園作業。久しぶりにのんびりした一日になった。夜は、ハワイアンバンドの編曲作業。フラダンスとの共演が楽しみ。)

 
 

保育のヒントを紙芝居で

11 7月

 難しいシチェーション
  今日は大野公民館で、保育に関する講座の日だだ。私達夫婦は招かれてここで紙芝居や手遊び歌を演ずることになった。講座に参加しているのは、0歳~2歳ぐらいまでの幼児とその母親、そして、保育の関係者であった。

  素人の私にとっては、今日の参加者は的の絞り難い組み合わせだ。子ども達はあまりにも幼く、私達が得意にしているストーリーのある紙芝居はできない。そこで、幼児相手に、先ず手遊び歌を3曲、私のギターの伴奏で家内が演じ、その後、「かくれんぼ」と題するオリジナル紙芝居を演じた。多少は手応えがあった。

手遊び歌を演ずる私達。楽しかった。

 紙芝居の後、手遊び歌を一曲挟んで今日初披露の保育紙芝居『ことばのちから』を演じた。団扇の表裏に、「叱るママ」と「誉めるママ」の絵を描き、これを使って家内に演じてもらった。私も「パパ」と「祖父」の絵を描いた団扇を持って応じた。今回の保育紙芝居『ことばのちから』で言いたかったことは、おおむね次のようなことだった。

                     『ことばのちから』
 1.言葉の力
  ・言葉は、時には勇気を与えるが、時には、凶器となり命を奪うこともある。

2.コミュニケージョン
 ・コミュニケーションとは、「言いっぱなし」ではなく、お互いに、想いを伝え合うことである。

3.おかたづけ
 ・同じ場面でも、言葉遣いでずい分変わるので、頭越しに叱らない。言い方を工夫する。

紙芝居の最中に、小さな女の子が寄ってきた。興味があったのだろうか。

4.テレビとの付き合い
 ・食事時、家庭が大切だと思うなら、テレビを切り、家族の会話を大切にしたい。
 ・見たいテレビを大人は我慢するのではなく、録画しておいて後から見ればよい。

5.子どもの好き嫌い
 ・子どもは、親の影響を受けて苦手になったり、好きになったりする場合が多いものだ。
  ・子どもが夢を持つことを望むならば、その前に、どんなに小さくても、保護者が夢をもつことが大切ではないか。

6.マナー
 ・駄目なことは駄目だと、はっきり言い聞かせることが大切である。
 ・叱るのは、子どもを一人前の人間にするためである。

7.子どものやる気
 ・ 子どものやる気を奪うのは親である場合が少なくない。
 ・子育てに必要なことは、忍耐力と待つことではないか。
 ・少しでも、上手にできれば、その行為を認めてやることが必要である。

紙芝居に見入ってくれた子ども達とそのお母さん達。

8.生活のリズム
  ・寝る時間がまちまちだと、起きる時間も当然そのようになる。
 ・親の生活に合わせていると、子どもは夜型になってしまい、翌朝に影響を及ぼす。
 ・幼児期から「生活のリズム」を確立したいものだ。

9.本に親しむ
 ・読書は、学業はもとより、将来、あらゆる場面で大きな力になる。
 ・読書の出発点は、幼児期の保護者による「本の読み聞かせ」ではないか。
 ・親子のふれあい、家族とのふれあいのためにも、先ずは「読み聞かせ」を始めることを勧めたい。

10.おしまい
 ・母親も輝いてほしい。そのためにも、気分転換が必要。

 以上のようなことを、紙芝居にて演じ、コメントした。その後、保護者から、質問や意見を述べてもらい、自分なりに答えさせてもらった。紙芝居を見て、何か一つでも、持って帰ってもらえればと思う。

 終わった後、保護者が寄ってきて家庭の悩みを打ち明けてくれた。子どもの両親、祖父母が心を一つにしての子育てに当たらなければ効果は出ないだろうが、なかなか難しいことだ。

「叱るママ」の顔を描いた団扇を持ってセリフを語る家内。これも私達の工夫。

(日記 午前中、子育てマイスターとして、大野公民館で手遊び歌や紙芝居を演じながら、保育に関する想いを伝えた。外食して帰宅。午後は、『かたせ瓦版』づくり。夜は和太鼓の練習日だが、瓦版づくりで出られなかった。完成したのは午後10時前だった。充実した一日だった。)

 
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コミュニケーション力

10 7月

「成り立つ会話」「成り立たない会話」
  今、子育てに関する紙芝居を作ろうとしている。「ことばのちから」をテーマにしている。その中で、コミュニケーションについて考えることになった。私のコミュニケーションの定義は「双方向に想いを伝える」ことだ。

  これは、簡単なことではない。大概の場合、一方通行になるからだ。子どもと保護者の場合、保護者から子どもへの一方通行だろうし、会社や公務員の場合には、上司から部下への一歩通行が多いだろうし、学校の場合には、教員から児童・生徒への一方通行になりやすい。

  選挙で選ばれた首長の場合には、職員への一方通行が多いだろう。話していれば、それでコミュニケーションが成立しているというものではない。上下関係があまり問題にならない者同士の場合でも、双方向に想いを伝え合うには、それぞれのテーマに双方が関心がある場合に限られるように思う。

 そうなると、単なる話し合いは浪費的時間になる場合が多い。そう思って、自分の周囲を見渡すと、コミュニケーションが成り立つ人間はそんなに多くはない。コミュニケーションが成り立たないのは、言葉を使う能力だけではなく、関心あることが共通えない場合もある。

 まちづくりに関心のある者とそうでない者がまちづくりについて話し合う場合には、一方通行になりやすい。まちづくりに関心のある者とプロレス大好きの人間がいた場合には、それぞれの話題で一方通行になりそうだ。

 親子の場合、子ども時代から、少しでもコミュニケーションが図られるようになるには、双方が前向きであることが不可欠であるように思われる。そんなことを考えながら、紙芝居を作っていた。

紙芝居の表紙

(日記 終日、紙芝居の表紙と最終場面を描き、印刷した。本番は明日。果たして、保護者や幼児に何かが伝わるだろうか。今回の相手は、私が最もやりずらいように思う。それだけにやり甲斐もある。夕方になって、初めて脚本を作り始めた。やや心配ではある。まだまだ生煮えの状態だ。)

 
 

関心を持つこと

09 7月

「言葉の力」を信じたい
   政治に関心を持っている若者はどれだけいるであろうか。自分の地域に関心を持っている人はどれだけいるであろうか。関心を持たなくても、よいような仕組みができあがっているのかもしれない。

  大人社会は、ゲームや刺激的な図書類で子ども達の関心を引こうとしている。最近制作される映画などを見ていると、ありもしない架空の世界を題材にしていたり、過激な戦いをテーマにしているものが少なくない。

  非日常的な世界でしか、楽しめないかのような状況が展開されている。そして、その裏でしっかりと利益を上げている集団がある。その結果、架空の世界と現実の世界が混ざり合ったような状況が見られる。アニメの世界がそのまま現実のファッションになったりしている。

 様々な事件を見ていると、人の命も、ゲームの世界に登場するキャラクターの命と同様に軽くなっているように思われる。現実の世界には、架空の世界では味わえない大きな喜びがあることを知ってほしい。

  子ども達の日常生活はかなり多忙である。学習塾、ピアノや水泳などの習い事、野球やバレーなどのスポーツ少年団活動……と、毎日忙しそうである。そうなると、すきまの時間は、暇つぶし的に、漫画やテレビやゲームに費やすことになる。

  それで一体全体、何に関心を持つことになるのだろうか。漫画や映画やゲームは、成長するに従ってドンドン刺激的なものを求めるようになっていく。逆に、政治に関心を持つ者はドンドン少なくなっていくだろう。

  今日も、国会答弁を聞きながら、保育紙芝居の絵を描いていた。そして、この頃つくづく思うことは、やはり政治の世界は、我々が見聞きする表の世界と、別次元での裏の政治の世界があるように思えてならない。

  そして、この世の中には「シロアリ族」がうようよしているように思えてならない。口では、国民のため、国家のためと言いながら、裏ではシロアリのごとく金(税金)に群がる多数の人間がうごめいているように思えてならない。

  今こそ、政治の世界に目を背けず、政治家の皆さんが自分たちの将来をどう導こうとしているのかに注目しなければならない時期だと思う。私は「言葉の力」の大きさを感じているが、最近政治家や専門家と言われる人達の言葉がドンドン軽くなっていくようで悲しい。

演奏会に向けて練習に励むオカリナサークルのメンバー。

(日記 朝から晩までほとんど休まず紙芝居の絵を描いた。パソコンを使っているために、キーボードを押す指が限界になってきた。それでも、一枚一枚完成すると嬉しい。今日中に完成させなければならない。またまた、一日足りなくなってきた。午後7時半よりオカリナ教室。来月の出番に向けての練習。オカリナは脳の活性化には効果のありそうな楽器だ。続けたいものだ。)

 
 

幼児教育の大切さ

08 7月

何を意味している絵かわかるでしょうか?

じいじにになって気がつくこと

  子育てマイスターになって、幼児教育に関して話を聞いたり、いろんな本を読む機会が増えた。振り返って考えてみると、我が子の子育て期は、余裕がなかったように思う。

  それでも自分の母親や祖母から受けた指導は時々思い出すことがあった。参観日や父兄会には、母親は一度も欠かさず来てくれたことを思い出す。この頃、改めて感ずるのは「幼児教育の大切さ」ある。

  特に、「言葉の力」が大きい。「子どもを伸ばそうとする」のか、「子どもに無意識のうちに威圧感を与えている」のか出、子どもの性格はおおきく変わりそうです。

  その他、「大人の背中による教育も大きい」と思う。直接子どもを指導するのではなく、子どもが親の背中(姿)に感化されて自ら行動するということだ。「子どもにああしろ」、「こうしろ」と直接指導することと、大人が自らの背中で示すことの両方が大切だ。

  「ほめ方」、「しかり方」も大切だ。そこで、幼児教育の大切さをなんとか、保育紙芝居にできたらと思って絵を描いた。まだまだ満足できる域に達していないが、今後、絵を描き貯めて、説得力のある紙芝居を作ってみたい。

木製プリンターを作るYさん。

(日記 朝から、ずっと保育紙芝居の絵を描いていた。何とか幼児の保護者に幼児教育の大切さの一端でも伝えられたらと思う。昼、木製のプランターを作っている役員のYさんの仕事場をのぞいた。秋花壇に使えたらと思う。午後も紙芝居の絵を描いた。夜、秋祭りに演ずる「浦安の舞」の練習はじめの会に出た。)

 
 

歌心に火がついた

07 7月

JA主催『藤あや子ショウ』を見て
  身内にJA職員がいるために、例年ジュースを買ってサンドームでの「歌謡ショウ」を見ることにしている。今年は、「藤あや子ショウ」だという。少し迷ったが、福井へ行く用事もあったので、見に行くことにした。

  予想以上に楽しいショウだった。藤あや子さんの歌もよかったが、着替えの合間に行われたバンド演奏や津軽三味線と尺八のコラボがとてもよかった。

 ショウ全体も、うまく構成されていた。三味線を聞けば三味線がやりたくなり、せっかく覚えた「津軽じょんから節」をもう一度おさらいしなければと思った。三味線の先生に個人レッスンを受けてどうにかこうにか「津軽じょんから節」が弾けるようになったが、今は、弾けないだろう。

 尺八の人間のような息づかいに感動したが、これは無理だと思った。もう20年若かったらチャレンジしていたかもしれない。バンド演奏のドラムもエレキギターもとてもよかった。これはやってみたい気がした。

 それと今度の東日本大震災を機に作られたという藤あや子さんの「わすれない」という歌を聴いて、歌を作りたくなった。東日本大震災の後、何とか大震災をテーマに歌を作りたいと思ったが、多くの犠牲者が出ている現状では、簡単に手が出せなかった。

 しかし、今日の歌を聴いて、いつまでもの大震災のことを「わすれない」というメッセージがよく伝わった。なにがしかの寄付をしてそれで「終わり」だではなく、いつまでも忘れないで自分にできることはないかを考え、自分の生き方を見直したい。

 もしかしたら、私にも東日本をテーマにした歌が作れるかもしれないと思った。行く前に予想していたよりも、はるかによかったと思う。藤あや子さんが東北・秋田の出身であること、そして東北の民謡がベースにあることが、彼女を輝かせていると思った。

 帰り際に、「わすれない」と「最新ヒット全曲集2012」を買った。帰りの車の中で、何度も「わすれない」を聞いた。忘れないは、「関心がある」につながり、東北を「愛する」気持につながっていると思った。音楽的に刺激の多い一日であった。

(日記 午前9時に家を出て越前市のサンドームで行われた「藤あや子ショウ」を見に出かけた。帰宅後、休む間もなく「親子和太鼓教室」。新しい子が見学に来ていた。音楽的にいっぱい刺激を受けた一日だった。

 午後7時半より区の役員会。その議題の一つは、まちづくりについてであった。

2.まちづくり(住教育)
  (1)区民のまちづくり参画
        「愛郷心」と「無関心」について
  (2)区民の要望・生活アンケートについて
  (3)区の活性化について
 (4)区の将来ビジョン
  (5)組織について
    ・既存の組織と任意の組織について

 何のことかわかりにくい議題であったかもしれない。10年後の我が区はいっそうの高齢化が進んでいそうだ。これからもことあるごとに、考えていきたいテーマである。)

 
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