RSS
 

Archive for the ‘未分類’ Category

半夏生(はげっしょ)鯖

21 6月

創作紙芝居『越前大野・はげっしょ鯖物語』
  おかしな行きがかりから、創作紙芝居『越前大野・はげっしょ鯖物語』を作ることになった。大野へ勤めている知り合いから頼まれたからだ。頼まれたことに対しては「いや」とは言わない(言えない?)性格なので、自分で自分を忙しくしてしまう。

  とはいうものの、頼まれたとき引き受けるかどうかの判断基準ははっきりしている。「忙しいかどうか」よりも、「面白いかどうか」だ。いくら好きなことでも度が過ぎるとストレスになってしまう。

  さてこの鯖物語だが、確たる資料がないのだ。それならそれで勝手に解釈してやればいいだろうと思って気軽に引き受けた。最初にフィクションだと断っておき、もっともらしく創作して、演じればいいと思っている。

創作紙芝居『越前大野・半夏生(はげっしょ)鯖物語』の一場面。

  半夏生に、鯖を食べるのは、我が村にもずっと伝わっていた。そして、我が家では今でも半夏生鯖を食べている。昔はこのときだけは、一匹の鯖をもらい、2、3日かけて食べたものだ。

  最近では、最初は焼き鯖で食べ、残りはネギをたっぷり入れ、煮て食べるのだ。生の鯖を煮てもそんなに美味しくはならない。焼いた鯖を煮るから香ばしくて美味しいのだ。

 鯖はいろんな食べ方がある。「鯖のなれ寿司」もあれば、「焼き鯖寿司」もある。私は、やっぱり「焼き鯖」をそのまま食べるか、焼き鯖を煮て食べるかだ。

  ここ半月ほどの間に3回出番がある。なんとなく紙芝居作りに追われている。(退職者が)こんなに忙しいはずではなかったのにと思いながら、紙芝居の絵を描いている。今日から、2枚をノルマに絵を描き続けたい。

(日記 今日は、用事がなく、雨も降っているので創作日和。しかし、寸暇を惜しんでパソコンに向かっている。楽しいが、目と腰は疲れる。何とか2枚のノルマだけは果たしたい。しかし無理のようだ。)

 
 

心洗われる一日

20 6月

忙中閑あり
  先日の村の道場での『永代経』で説教を行った西宮寺の住職のM氏から、今日、西宮寺で『特別法座』があることを知った。午前中は説教の他に、人形劇『嫁脅しの面』があり、午後は、講演があることを知った。

西宮寺の住職のM氏の説教。いつもユーモアを交えた法話に感心する。

  幸い今日は私用しかないので、家内と二人で西宮寺へ出かけることにした。よそのお寺まで出かけて仏事に参加するのは初めてだ。全員で読経の後、最初に住職のM氏のお話があり、続いて人形劇が行われた。

 プロの人形師役者だった鯖江市の藤本宏美さんの人形劇だ。内容はよく知っている吉崎の『嫁脅しの面』の話。藤本さんは一人で2体の人形を扱いながら、表情豊かに、方言を使って劇を進めた。

  紙芝居をやっている私たちにとっては、参考になることがとても多かった。人形に魂が籠もっている感じがした。約45分間一人で話し通しだった。三味線の伴奏も入っていた。ここで午前の部は終わり。家内と外食。

  午後は、1時半から始まった。最初に全員で読経した後、今度は、北九州市の青少年問題カウンセラー外松太恵子先生の『私も輝いている』と題した講演があった。

三味線音楽をバックに人形劇『嫁脅しの面』を好演。保育園児も真剣に聞いていた。

 「見えないものに気付く眼差し」の必要性を説いておられた。また、反対(相手)の立場で考えることの大切さを説かれた。そうすることによって見えないモノ画見栄、普段気付かないモノに気付くのだ。そこから、感謝の「ありがとう」が出てくるのだという。

 こうして一日思い切って、静かに話を聞くことは私にとっては大切なことかもしれない。心を洗われ、自分を見つめることができた一日だった。充実した一日だった。

(日記 午前10時から午後3時半まで、西宮寺で行われた『特別法座』に参加。かなり多くの方々が参拝しておられた。帰宅してから、精米。その後、今日のノルマの紙芝居の絵を一枚描いた。完成したのは、午後9時前であった。レフレッシュした一日だった。)

北九州市の青少年問題カウンセラー外松氏の講演。参考になることが多かった。

 
 

久々の和太鼓練習

19 6月

一丸となって
  先週、DV審査により我が『越前勝山春駒太鼓』が和太鼓選手権に出場することが決まった。早速、今日午後7時半より、メンバーが集まって今後の練習などについて話し合った。

  個々のメンバーの技量は、素人としては、まあまあでないかと思っている。後は、どのように曲を作り上げるかだ。曲の善し悪しは私にかかっていると思っている。

若手メンバーによるイメージトレーニング(昨年の写真)。

  組太鼓であるので、全体の調和、少し取り入れるソロ、そして、曲の展開など次回までに私が原案を考え、メンバーによって変更を加えながら、みんなで作り上げていくのだ。振りは、ほとんどメンバーにまかせている。

  若いメンバーと一つのことに取り組めることはとてもうれしいことだ。この中には、ママさんメンバーも4人いる。青春時代の思い出になるよう私も自分なりにベストを尽くしたいと思う。

  目標ができると、練習にも熱が入る。この年になって、選手権に出られるなんて光栄なことだ。心地よい緊張感があるのは楽しいし、やりがいがある。8月11日までは、気合いを入れて曲作りに練習に頑張りたいと思う。

さわらび会のみなさんの踊りの練習(於:猪野瀬公民館)

(日記 午前中は、敬老会に出演する『さわらび会(食生活改善推進員)』の余興練習に顔を出す。敬老会の余興なので、楽しいモノにしたいと思う。みんなかなり上手になってきた。午後は、オカリナの編曲。和太鼓のDVD作り。午後7時半から、久々のオカリナ教室と和太鼓の練習。同じ時間帯なので、事務室とスタジオに別れて練習した。楽しかった。)

 
 

伝えたかったこと

18 6月

「断捨離」に思う
  身の周りにいろんな「モノ」がある。自分にとっては大切でも、家族や他人にとって大切でないものが沢山ある。捨てたいが、いつかどこかで間に合うのではと思うと、簡単には捨てられない。

  いろんな本や資料、そして衣類などもそうである。現職中の3年前まではカッターシャツと背広さえあれば他の衣類はあまり要らなかった。しかし、今は逆である。一番要らない衣類がカッターシャツと背広であり、ネクタイもほとんど必要がない。

 現役(学校時代)のいろんなものが捨てられないのは、そこに自分の足跡があり、それぞれの時代に奮闘していた自分が存在するからである。この年になると、自分の成果を誰かに伝えようとは思わない。

  成果などあったかどうかも分からないし、そんなものを他人に披露する必要もない。しかし、子どもたちには、「いつ何を周囲の人に伝えようとしていたか」を残せたらと思う。これは成果ではなく、何を目指して生きていたかだ。そのほとんどは結果が出なかったかもしれない。

  そして、もしも文字化するとしたら、当時書き表したものをそのままの形で掲載できればと考えている。当時作ったものならそのまま掲載したいと思っている。今になって「あのときはこう思っていた」と言っても、「後出しじゃんけん」のようで価値がない。

  20歳の頃、30歳の頃、40歳、50歳……に何を考えて生きていたのかを当時書いた原稿そのまま(原文のまま)で書き残せたら、持っている全ての資料は捨ててもいいと思っている。 

  しかし、これは簡単ではない。できないうちに、やる気を失ってしまうかもしれない。ということは、周りに不要なモノがあり続けて、断捨離が遠のくばかりだ。

制作を依頼された創作紙芝居『越前大野はげっしょ鯖物語』の一場面。

(日記 午前中は、先ず、ニンニクの収穫。午後から雨が降るとの予報が出ていたからだ。掘り穫ったニンニクを車庫の天井に吊り下げたら昼になってしまった。午後は、しばらく読書。その後、紙芝居の絵描き。今月中に仕上げなければならない。一日1枚描かなければ間に合わない。ノルマを守りながら、完成を目指したい。)

 
 

歌うこと

17 6月

挨拶・会話・そして歌
  4月の途中からスカイプを使って横浜の小学校3年生の孫と『爺ちゃん勉強』を始めた。姉は、算数や国語を中心に勉強しているが、幼稚園年中組の妹には毎回テーマを決めて絵を描いてもらっている。お姉ちゃんばかりを相手にしているのはよくないからだ。

  勉強も大切だが、それ以外にも孫達に望むことは、挨拶ができて、会話ができるようになったら 、歌を歌うことだ。週三回、毎回の勉強時間は30分。その後、二人の姉妹は毎回歌を歌ってくれている。

  今の若者達が最も苦手とするのはコミュニケーションだ。自分の思いを相手に上手く伝えられないことだそうだ。(福井新聞『県内企業の人事担当者の今の若者に望むこと』より)

   人前で自分の思いを伝えられれば、社会へ出てもいろんな方面で役立つだろう。そのための第一歩は挨拶だ。周囲の人に対して気持ちよく挨拶できれば、次は会話へと発展しやすい。

 我が家はみんな音楽好きだ。孫達にも、上手下手は別として歌を歌うことを苦にしないことを願う。そんなわけで、恥ずかしさを感ずる前に歌を歌うことに抵抗をなくしてほしいと思っている。

 今日、上の孫は武田鉄矢の『贈る言葉』を歌ってくれた。昨日は『カントリーロード』だった。横浜の孫の小学校では、「◎月の歌」として、月曜日を除く毎日歌を歌っているという。小学校2年生の時に、『翼をください』などを伴奏なしで歌ってくれた。

 去年の勝山の夏祭りに、上の孫は抵抗なくオカリナバンドで歌を歌ってくれた。国語や算数と共に歌を歌ったり絵を描いたりすることも同様に大切だということを自然に孫達に伝えられたらと思う。

(日記 午前中は、里芋の畝の間の草取り。その後、里芋の追肥をし、土をかけた。真夏のような暑さだった。午後は、地区の事務処理のために、市役所・JAへ行く。午後は、紙芝居の絵描き。午後7時半より『爺ちゃん勉強』。)

 
 

防災訓練……月日の経過を感じる

16 6月

災害を防ぐために
  午前4時半に携帯の目覚ましで起きた。早い朝食を取り、区のポンプ小屋で自衛消防隊の出発を見送り、今日の『猪野瀬地区自衛消防隊合同訓練』の会場である高島へ出向く。

高島地区で放水する我が区の自衛消防隊。

  午前5時45分待機場所へ集合。そして、午前6時より訓練開始。各地区の自衛消防隊が順次放水開始。区長会一行と消防署員が巡察。各区の自衛消防隊のみなさんが活動が頼もしく見えた。

  訓練終了後、式典。その中で講評などがあった。メンバーを見ていると顔なじみが多かった。共に歳を取ったなあ徒感慨深くなる。市民体育大会で、野球やソフトボールをやった仲間、祭りに各区対抗で相撲を取った仲間……、いろんな顔が見える。

  しかし、みんな歳を取っている。そういう自分も歳を取っている。相撲を取った頃とはみんな体格はずいぶん変わっている。かくいう私も、相撲を取っていた頃よりは20kgも体重が減った。

  腕力にはかなり自信があったが、今は昔だ。まわしを取れば猪野瀬地区では負けない自信もあったが、今は、相撲どころではない。「やりたいことは今のうちにやっておかないと」ろ思う。

区内にある曹洞宗『佛母寺』で行われた『大般若会』。区民は浄土真宗だが区の先人がこの地区に移設した曹洞宗の寺である。区民は違和感なく昔からこの寺を守ってきた。

 ところで防災の話だが、私たちは、防災に関心を持ち、日頃の安全確保にもう少し努力しなければならないと思う。火災報知器も、どこへいくつ付ければいいのか、自分のこととして考えなければならない。

 災害が発生した場合に対処得きるようにしておかなければならない。「災害は滅多に起こらないと言っても、皆無ではない」のだから、改めて防災について考えなければならない。

(日記 午前4時半起床。猪野瀬地区自衛消防隊合同訓練に参加。午前10時半より、地区にある曹洞宗の仏母寺の「大般若会」にお参りする。正午に帰宅。ようやく一連の忙しさから解放された。午後は、疲れて昼寝。その後、新聞小説の切り抜き『親鸞(怒濤編)』を読む。五木寛之さんの書かれたものだが私が紙芝居にしようとしているものとはずいぶん違う。脚本化がいよいよ難しくなってきた。でもやりがいはある。大野のショッピングセンター方頼まれた創作紙芝居『大野はげっしょ(半夏生)鯖物語』の絵を一枚描いた。最低10枚を今月中に描かなければならない。またまた忙しくなりそうだ。午後7時半より横浜の孫の『爺ちゃん勉強』。私の楽しみの一つにもなっている。父の日のプレゼントを子どもたちからもらう。感謝。)

 
 

昭和の思い出

15 6月

「村に一台の電話」時代
  初七日のお逮夜が料理屋で行われ、一同が食事を共にすることになった。その中には、70歳代の者が何人か含まれていた。戦後の貧しい時代を過ごした経験者だ。同じ地区の者ではないが、共通部分は多かった。

  そんな中で、電話の話が出た。その頃は、村の道場に1台の電話があるのみだった。こちらから電話をかける場合は道場へ出かけてかければよいが遠方からかかってきたときが問題だった。

 私の横の席にその1台の電話があった道場のMさんがおられた。Mさんによれば、冬の電話は本当に大変だったという。風呂に入り寝床へ入ったとたんに、電話がかかり出てみると「Fさん(Mさん宅から最も遠い)に電話したいんですけど……」とのこと。

 長靴を履き、暗い夜道を歩いてFさん宅まで出かけ電話があったことを知らせ、自宅へ戻ると身体はすっかり冷え切っていたという。それでも相手がいればよい方で、いない場合には何度でも足を運ばなければならなかったという。

 電話がかかったことを隣へ知らせるだけでも大変だったのに、いつどこへ電話がかかってくるか分からず、遠い場合などはとても苦労したという。そのうちに、有線電話が普及し、黒電話の時代になり、今や携帯電話の時代になってしまった。

  こんな苦労を知っている人は少ないだろう。村中に一台の電話しかなかった時代があったなんて、今の若い者は信じられないかもしれない。しかし、それが当たり前だと思って暮らしていたのだ。

 電話にしろ、自動車にしろ、テレビにしろ、急激に発達していった。そんな昭和な急激な変化を私たちは、体験して大きくなってきた。この先も、このように大きな変化が続いていくのだろうか。

私たちの『かっちゃま児童文学会』の例会で作品の批評をして下さった児童文学者の藤井則行先生。

(日記 午前中Y家の葬儀。そして、食事。午後2時過ぎから、『かっちゃま児童文学界』の例会に出席。講師の藤井先生を交えてこれまで各個人が先生に送っておいた童話の批評をしていただいた。有意義な会だった。午後6時から7日と49日のお逮夜。Y家でお参りし、場所を変えて料理屋で食事。忙しい一日だった。)

 
 

ニュースの種はつきない

14 6月

次々起こる様々な事故・事件
  この頃いろんな事件が起こる。穏やかな日は少ない。最近、特に人の命が軽くなっていくことが心配だ。あまりの事件の多さからか、取り調べる警察の不祥事も頻発している。

  日本のプロ野球のボール変更問題。飛ばないボールの在庫一掃の後、選手に無断で勝手に飛ぶボールに変更してしまった。しかし、最高責任者であるの加藤良三コミッショナーは、「私は知らなかった」として心から謝罪していない。リーダー失格では。

  最高責任者であるコミッショナーは、これまでプロ野球選手以外が務めることになっていた。さすがに今回の発言で、王選手待望論が大きくなっているという。当然だろう。知らなかったのは、自分の指導性がなかったからではなかったのか。

 自分の指導性の無さが部下の隠蔽を生んだのだということを理解していないようだ。他人事のような発言が多い。「自分は知らなかった」は、理由にならないということを理解していないのが情けない。

  復興庁職員で、「原発事故子ども・被災者支援法」の担当をしていた水野靖久参事官が、ツイッター上で「左翼のクソども」などとと市民団体に対して発言していたとのことだ。異なる意見に耳を傾けられないようでは悲しい。人間としての度量がないのだろう。

 何様なのかと言いたい。この程度のモノが、総務省出身のキャリア官僚で、千葉県船橋市副市長などを務めていたとは情けない。おまけに昨年から復興庁へ出向、「原発事故子ども・被災者支援法」の担当をしていたというからなおさらだ。

 担当を外されるだけでは生ぬるい。辞めてもらいたいくらいだ。高学歴のキャリア官僚がこの程度の見識しかないようでは、日本のエリートが泣く。こうした人物は氷山の一角ではなかろうか。

 まだまだ理解不能の事件や事故が起きる。点取りエリートでは、いつかはこのように馬脚を現すのではなかろうか。人間力が不足しているように思う。これからも、このような人物がリーダーとしてこの国を動かしていくのだろうか。そうだとしたら、先行きは明るくない。

(日記 午前中は、敬老会のアトラクションに出演する『食生活改善推進員(さわらび会)』の皆さんの余興指導。午後は、親戚に不幸があり、お通夜の準備。私は亭主役(葬儀委員長)。忙しい一日だった。)

 
 

卵かけご飯

13 6月

一個の卵で
  私の子供の頃は、卵は貴重品であった。病気見舞いの定番と言えば、卵だった。まんじゅう箱に籾殻を入れ、その中に鶏の卵を十個余り入れて持って行ったものだ。

  従って、家庭でも、卵は貴重品だった。我が家でも鶏を飼っていた時期があった。数羽の鶏が一日に2~3この卵を産んでいたように思う。雌が卵を産むと、雄鳥はさも自分が卵を生んだかのように「コココ、コケッコッコ-」と鳴いたものだ。

  この卵で、朝、父親が大きな皿に卵一個を入れて醤油をかけ、「卵かけご飯」を作るのだ。その一部のご飯を私たち家族がもらい、それにご飯をつぎ足して醤油をかけるのだ。この時点で卵はごくわずかしかご飯に含まれていない。

 「卵かけご飯」と言うよりも、「醤油ご飯」と言った方が当たっていたかもしれない。それでも当時は、「卵かけご飯」を食べているつもりだった。贅沢のできない時代だった。肉などは年に2度しか食べることができなかった。

  そんな思い出があるので、今でも、「卵かけご飯」が好きだ。ご飯の量が少ないときには、黄身だけをかけることもある。その当時の鶏は、普段は鶏小屋にいるが、時々庭を我が物顔で飛び回って餌を食べていたものだ。

昭和時代の鶏たち。田んぼで落ち穂や虫を自由に食べていた。

  ところが、その後、養鶏が盛んになり一匹ずつを小さな籠に入れたバタリー鶏舎が盛んになった。この時点で、鶏は卵を産む機械になってしまったように思う。くちばしも、卵を痛めないように先端を切り取られ、配合飼料を食べて卵を産むだけの存在になってしまった。

  気の毒な存在だ。その上、鳥インフルエンザが流行した頃には、何万羽、何十万羽と埋められることになってしまった。同じ地上の生き物でありながら、あまりにも乱暴な扱いだ。この頃は、鶏の姿を見ることがないが、卵の恩恵は計り知れない。

(日記 朝起きるなり、鹿谷の銭太鼓グループのためにCDを作ることになった。プロのレコードがあるのだが、私の作ったカラオケが銭太鼓には適しているということだった。まさか、敬老会にカラオケでバチを振るわけにもいかないだろうということで、歌を入れることにした。午前6時過ぎから午前10時過ぎまでかかって家内の歌の入ったCDを作り上げた。そこで、CDを持参して鹿谷公民館へ行き、銭太鼓の最終練習に付き合った。途中で、民謡も教えてあげることになった。帰宅してからは、『かたせ瓦版』の仕上げ作業。できあがった瓦版と市の広報を持って班長に配布。ようやく忙しさから解放された。その後、家庭菜園でのんびり作業。第2第4木曜日の午後は、一番ほっとする時間だ。)

 
 

『ふくい和太鼓選手権』出場決定

12 6月

一つのけじめ
  今年は、福井新聞社主催の『ふくい和太鼓選手権』に出てみたいということで、応募した。応募に際しては、DVDを送って審査を受けることになっていた。たまたま昨年越前市で行われた『太鼓魂』で主催者がDVDを作ってくれたのでそれを使うことができた。

昨年の『太鼓魂』に出場した我が「越前勝山春駒」のメンバー。

  現在、メンバーの半分は結婚適齢期のため、今後活動が困難となるかもしれない。今回は一つの節目として頑張ってみたいということで応募したのだ。親子太鼓は今のまま続けるつもりだが、若者の方はしばらく休まなくてはならないかもしれない。

 幸い、『ふくい和太鼓選手権』出場が決定した。新聞と手紙で知った。8月までは少し忙しくなるかもしれない。自分にとっても、一つののけじめとして、頑張ってみたいと思う。

  出場者は、10人以内となっているので、10人を三グループに分けてそれぞれをレベルアップしなければならない。若者は5人、親子太鼓のママさん3名、伴奏隊は2名。男子は私だけだ。

  私は、これまで篠笛だったが、知り合いのTさんに篠笛をお願いして、今回は三味線をするつもりでいる。伴奏をもう少し研究する必要があると思っている。そして、和太鼓とのバランスをしっかりと取りたいと思っている。

演奏会終了後、玄関前で「ハイチーズ!」(於:越前市)

  演奏時間は1チーム6分以内だ。この時間内に自分たちのチームの持ち味を生かさなければならない。私たちのレパートリーを6分間にまとめて『和太鼓組曲・九頭龍』として発表したいと思っている。九頭竜川の流れがいろいろ変化するように。

  悔いのないように、演奏したい。本番まで張り合いのある2ヶ月間が待っている。昨年同様、楽譜を完成させ、練習用CDを作成し、個人練習で曲を覚えてから、全体練習に持ち込みたい。みんな社会人なので学校時代の部活動のようにはいかない。

 私は、太鼓を叩かないが、責任は重大である。先ずは、篠笛と三味線の楽譜を完成させなければならない。そして、太棹(津軽三用)三味線を練習しなければならない。元気が湧いてきた。

(日記 午前中、『かたせ瓦版』を編集。ようやくできあがった。今回は、『山道作り』をテーマにした。少子高齢化が進む我が片瀬において、こうした作業の実施は少しずつ困難になっている。幸い、今回は作業範囲が減ったので、高齢者にも配慮した作業計画を立てたいと思っている。)