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Archive for the ‘未分類’ Category

今時、郷土芸能をつくれるか

07 6月
 
片瀬伝統芸能保存会

 私の集落には、大正時代(それとも明治末期?)から伝わる銭太鼓があります。そして、この銭太鼓が平泉寺の赤尾地区にも伝わっています。聞くところによりますと、赤尾地区の方は片瀬から伝わったそうです。

 祝儀などには、これに「どじょうすくい」が加わり、長い間地区に伝わってきましたが、昭和時代になって廃れてしまいました。

 それを、再び復活させましたが、今また廃れようとしています。それは、この銭太鼓が「安来節」の音楽によって演じられていること。また、「どじょうすくい」もコピー芸だからです。

 どうしても、郷土芸能にはなり得ないからです。余興や演し物にはなっても、オリジナリティーが内ので、コピー芸で終わってしまっているのです。

 今日、集会場で第2回の郷土芸能保存会(仮称)が開催されました。伝統を生かしつつ、いかに独創的な芸を作るかが話題になりました。

 私はこれまで考えてきました。先祖が伝えてきた地区の芸能をこれからも保存していくには、物まねから脱出して片瀬独自の芸能を作るべきだと。

長い間地域に伝わってきた「銭太鼓」と「どじょうすくい」(50年数年前になくなった私の父も前列左から3番目にいます。)

「どじょうすくい」からの脱出
 これまで先祖が伝えてきたよい部分を生かし、先ずは新しい民謡を作ることから始めなければならないと考えています。それと同時に、「どじょうすくい」から脱出することです。

 代わりに農作業をユーモラスに表した踊りも組み込めたらと思っています。田植え、稲刈り、豊年感謝の餅つきなどを、銭太鼓に加え、ユーモラスなボケ踊りを加えられたらと思っています。

 確かに、「どじょうすくい」には捨てがたいものがあります。ユーモア溢れるこの芸はいつも笑いを誘い、整然とした銭太鼓のバチさばきと相まって、いつも拍手喝采を浴びます。

 今日の会議では、いろいろ話が出ましたが、私の担当する新民謡を作るという部分は、責任重大だなあと思いました。創造性が要求されるからです。

 始まった以上は、逃げることなく、いろいろ考えて少しでもよいものを作り、地元の郷土芸能作りに参加したいと考えています。

(日記:家の周囲の草取り。午後、夏祭りのための「郷土民謡」の三味線楽譜書き。楽譜希望のKさん宅へ楽譜を渡しに行く。夜、第2回片瀬郷土芸能保存会に参加。)

 
 

食事と運動で健康に……玄米食とストックウオーキング

06 6月

三浦雄一郎氏の講演会
 午後1時より三浦雄一郎氏の講演会が行われた。演題は、『人生の最高峰を目指すための健康法』でだった。

 講演の中で、食の大切さ、特に玄米食や菜食などについての話があった。私も、以前に低農薬の玄米を知り合いから求めて、玄米食を続けた経験がある。

玄米食に再チャレンジ
 効果があったのかどうかは分からないが、今日の講演を聴いて、もう一度チャレンジしたいと思うようになった。

 玄米は、「糠層」と言われる表皮の部分にビタミン、ナイアシン、繊維質など、栄養がたくさんあると言われている。しかし、一つの心配は、通常の米を玄米のまま食べるとなると、農薬の心配がある。

 かといって、以前のように特別な無農薬や低農薬の玄米を求めようとすると、とても高価で通常の米の値段の倍はする。

 そこで、農薬が定着していると言われる玄米の表皮(糠層)を少しでも削っておきたい。全部削ってしまうと、白米になるが、栄養分のほとんどはほとんどが失われてしまう。「白」と「米」を合わせて「粕」という時ができているのもうなづける。

 そこで、自宅で精米すれば、、「糠層」を好きなだけ残すことができる。「糠層」を半分残した「5分付き」、7割残した「3分付き」など自由に調整できる。

 玄米食に再チャレンジと思いながら帰宅した次第。

運動習慣の定着
 毎朝「ラジオ体操」と「もも上げ」と「スクワット」は欠かさずできるようになった。今日の講演を聴いてこれらに、筋力アップのための運動を付け加えたいと思う。

 今日の講演会にあったように、両足におもりを付けて職場へ行ったことは何度かある。これも復活してみたいと思った。

 この他にも、ストックを使ったウオーキングにも挑戦したいと思っている。今春、スキーの金メダリスト荻原姉妹の講習会に参加して気に入ったスポーツでもある。

 三浦市氏後援会に参加して、楽しみながら、食や運動にチャレンジしてみたいと思った。

(日記:午前中、事務所で地元民謡の三味線楽譜を書く。午後、三浦雄一郎氏の講演会に参加。その後、家庭菜園で家内と作業。)

 
 

ボケ防止とハワイアン

05 6月

常にメモ帳持参
 この頃、物忘れが結構ある。車の鍵は?免許証は?カードは?人生のかなりの時間をモノ探しに費やしているのではと思われる。

 そこで、今年から、小さな鞄を持ち歩くことにしている。この中には、他に、iPOD、携帯ラジオ、そしてもっとも大切なモノが、「メモ帳」である。

 いいアイディアを思いついても、忘れることがあるので、メモ帳に書いておくことにしている。時間があれば、歌詞を考えたり、これから何をしようか、明日何をしようかと常にいろんなことを書き留めている。

 時々街角で、いろんな人と出会うが、忘れて全く誰だか分からない人、よく知っているが名前を思い出せない人、名前もしっかり覚えている人、様々である。

48年前にバイトで買ったハワイアンギター

48年前に買ったギターに再チャレンジ
 物置においてあったハワイアンギターを最近は事務所の机の横に置いている。48年前に買ったものだ。物置に置賜までは、持っていないのと同じだ。

 そこで、最近、スイッチさえ入れればすぐに弾けるようにいつもスタンバイさせている。アンプにつないであるのだ。椅子をぐるりと後へ回せばすぐ弾ける位置にセットしてあるのだ。

 昔のレパートリーはかなり忘れてしまって今は弾けない。そこで、一曲ずつ弾けるようにしようと考えている。一度覚えたことのある曲なので、40数年前の曲でも何とか少し練習すればできるようになる。

 でも、いつも同じ所で間違うのだ。普通のギターなら手元を見なくても、いいから楽譜を見ながら弾くことができる。しかしながら、ハワイアンギターは、楽譜を見ながら弾くことは困難である。

 そこで、一曲ずつ暗譜することになるのだが、覚えても忘れ、覚えても忘れの繰り返しである。歌の文句じゃないが、「3歩進んで2歩下がる♪~」である。

 こうして、今、3曲にチャレンジしている。「珊瑚礁の彼方」、「南国の夜」、「小さな竹の橋の下で」の3曲である。

 一度でもいいから、フラダンスをしているみなさんといっしょに舞台に立てたらと思っている。なかなか思うようにはいかない。だからこそ「脳トレ(ボケ防止)」になっているのではと、自分に納得させている毎日である。

(日記:午前中、三浦氏の講演会のチケットゲット。その後、事務所の周りの草取り。そして、生姜に草をかぶせた。午後は、ハワイアンのカラオケづくり。「泰澄大師物語」の文章を描き、絵を修正した。夜、孫達とウェブカム。)

 
 

バージョンアップと自業自得

04 6月

自業自得
 私は2ヶ月に一度、福井の済生会病院へ通院している。人間ドックもこの病院で世話になっている関係で、今も通っている。

 つくづく思う。病気は遺伝的な要因もあるが、半分は自分が作っているのだと思う。カロリー無視の食生活、栄養バランス無視の食生活、暴飲暴食、運動不足、……。

 人間の弱さが病気を招いているのだ。しかし、分かっていながら摂生できない。正に自業自得としか言いようがない。

 2ヶ月に一度の通院で血液検査などがあり、自分の成績が示される。まるで学校の通信票を渡されるようで怖い。数値が悪くなれば落ち込み、数値がよくなれば気分も軽くなる。

 何とか、自分の健康は自分で守りたいものである。

理解できるかどうか不安になるほど厚いマニュアル

バージョンアップとマニュアル
  帰りに福井市内の本屋へ寄って二つのマニュアルを買った。勝山の本屋にはなかったからだ。さすがは福井である。

 私は退職と共に、アドビ社の「CS4マスターコレクション」を手に入れた。それまではCS2を使っていたのである。十分マスターしないうちにCS3,CS4とバージョンアップしてしまった。

 4月にCS4を買ったのに、今や、CS5までバージョンアップしている。パソコンの世界は、全くドッグイヤーである。次から次へとハードもソフトも新しくなって行く。

 今日買ったのは、2冊のマニュアルだ。一つは、描画ソフト「イラストレーターCS4」のマニュアルで、もう一つは、ホームページ制作ソフト『Dreamweaver CS4』のマニュアルである。

 ここ数年間は、CS4を少しでも理解したいと考えている。しかし、マニュアルで物事を理解するのは、本当に苦しいことである。

 ハード、ソフトとも、日進月歩のこの世界ではあるが、なんとかこれらのハードやソフトを使って「創作」を楽しみたいものである。

(日記:午前中通院。午後、庭の木の枝などをトラックに積んでゴミ処理場へ。その後、久々に洗車。)

 
 

盆踊り復活に向けて

03 6月

盆踊りシーズン開幕
 午前9時に商工観光課のTさんと今年の夏祭りの「盆踊り」についてどうするかを話し合った。私にとっては、いよいよシーズン開幕だ。

 ここ数年間、私は盆踊り復活に力を入れている。かつては、盆踊りといえば、若者から高齢者までが地域の祭りで踊っていたのだ。

 以前(私の小学生の頃)は、地元の人達が音頭を取りながら神社などで素朴に踊っていたものだった。しかし、田舎にも近代化の波が押し寄せてきて、流行歌や他県の民謡を踊るようになっていったのだ。

 神明神社の境内が踊り手で一杯になった昭和30年頃

 誰もが、これらに飛びついて、地元の素朴な民謡は廃れてしまい、音頭取りなども出番がなくなり、いなくなってしまった。

 しかし考えてみれば、おかしなことだ。山形県の花笠音頭や新潟県の佐渡おけさ、福岡県の炭坑節など他県の民謡を地元の人達が踊っていることに誰も違和感を感じなかったのだ。

 そして、今、それらも廃れてしまい、盆踊りはほとんどの集落から消えてしまったのだ。

 このような風潮に流されずに、自分達の地域の民謡を大切にし、踊り続けた地域は全国にいくつかはあったのだ。

 「郡上踊り」、「おわら風の盆」、「花笠音頭」、「阿波踊り」……など、あげればかなりある。これらの地域は、自分たちの地域で育てた民謡を大切にし、決して目移りすることなくこれらを大切にしてきたのだ。

「なければ作ろう」精神で
 そして、今、それらはその地の郷土芸能として燦然と輝いているのだ。

 自分の地域になければ作ればいいのだ。他国のものを参考にして新しく、作ればいいのだ。郷土芸能は、大なり小なり互いに影響し合っているものだ。

 しかし、他国の「丸写し」は、認められない。丸写しは、余興ではあっても「郷土芸能」にはなり得ないのだ。

 地元に伝わるものを大切に守り続ければいいのだと思う。不都合があれば、時代に合わせて変えればいいのだと思う。

 しかし、今や世界は狭くなっている。無国籍になりかけている。文化も食べ物も、地域性をなくしつつある。国内を旅をすると分かるが、家も地域性がなくなり、至る所に、何とかハウスなるものが並んでいる。

 世界中がパソコンやipadを持って同じようなゲームを楽しみ、世界中が同じような3D映画や3Dテレビを楽しむ時代が来ている。

 こんな時代だからこそ、老いも若きも、男も女も楽しめる「盆踊り」は、復活させる意義があると思っている。

村岡地区での盆踊り復活説明会でデモンストレーションとして、「勝山よいとこ」を踊る猪野瀬地区の女性達

 今年も忙しくなるだろう。伴奏隊、踊り隊、歌い手、いろんな人にお願いし、練習会を開きながら、ここ2ヶ月あまりは多忙になりそうだ。

 今はただ、踊りに参加する人、踊りを見に来る人が少しでも多くなるように頑張るのみだ。

(日記:午前中、夏祭りの打ち合わせ。午後、日曜大工。その後、パソコンで泰澄大師物語の絵本制作作業。)

 
 

産業支援センターで受講

02 6月
ホームページ制作入門講座

 ふくい産業支援センターのIT研修『ホームページ入門講座』を受講するために、午前8時過ぎに自宅を出て丸岡へ向かった。

 いつも近くにいてなにかと支援してくれる息子が、昨年8月に東京の会社へ入ってしまったために、HP(ホームページ)の変更などが思いのままにならないようになった。

 一方息子の方は、超多忙で私のHP作りどころではない。一念発起して、「自分で作ることにするか!」とばかりに今回産業支援センターのHPの制作講座を申し込んだのだ。

 午前9時から、1時間に10分ほど休憩しながら、午後5時まで講座が続いた。学校流に言えば、午前中3時間、午後4時間の授業があるようなものだ。

 しかし、系統だって学ぶことによって、頭の中がすっきりしたように思う。今日一日で、『できるホームページHTML入門』なる市販のテキストのほとんどを学ぶのだ。所々、飛ばした部分もあったが、一日で一冊マスターするのは、かなり大変だった。

 ホームページ記述のための言語であるHTMLを使ってホームページを作るのだ。かなり疲れた。それでも自宅で新しいホームページを作ってみたいという気持ちは沸いてきた。

ふくい産業支援センターで行われた『ホームページ制作入門講座』

 

10数年前のIT事情
 今から10数年前には、「インターネット」と聞いても何のことか分からなかった私だが、すでにそのころ高校生達は、

 「文化祭にインターネットサーフィンをやりましょう。それからプリクラも!」

と、郷土研究会顧問の私に迫ってきた。しかし、正直のところ生と達は何をしたいのか、私にもよく理解できなかった。
 教室でそのようなことをやるには、まず複数のパソコンがほしいし、電話回線も必要である。しかしながら、学校の回線は使わせてもらえそうにない。

 そこで、NTTにお願いし、電柱から直接、展示室となる教室に電話回線を引いていただいた。また、パソコンもお借りすることができた。

 また、郷土研究会の生徒が制作したゲームに高校生達がチャレンジしていた。勝者に与えるために、自宅からスイカを持ってきて景品にしたりもした。

 そのころ、私達教員もHPを作ってみようということになった。『ホームページビルダー』などのソフトのない時代に、同僚とそれぞれ自分のためのHP作りを始めた。

 マニュアルを見ながらの、作業で困難を極めた。その当時、HPといえば、勝山にも2つほどしかない時代であった。

 その懐かしい言語HTMLを使っての講座だった。今後、今日の講座の上級の講座も受けてみたいと思っている。

 昼休みに、鳩山総理が辞任するとのニュースを知った。複雑な思いである。野党も、批判ばかりしないで、自分たちなら普天間問題をどう解決」しようとしているのかをはっきり示すべきである。

 批判することは簡単である。しかし、自分の立場を明らかにすることは簡単ではない。「私なら、どうするか」と考えると、他人を無責任には批判できない。

今後の政界の行方を見守りたいと思った。

 
 

ハワイアンギターと蕗採り

01 6月

懐かしのハワイアンギター
 昔できたことが今できるかとなると、そうはいかないことをこの頃分かってきた。悲しいことである。

 例えば、ギターであるが、せっかく苦労して覚えた数々の曲目が、忘れてしまって一部しか思い出せないことがある。そうかと思えば、曲はちゃんと覚えているのだが、手が思うように動かないこともある。

 また、私はコマ回しがかなりできたと思っている。今から10年ぐらいまでは昔のようにいろんな曲芸的な回し方ができたものだ。しかし、今は昔のようには行かない。

 このようにして、あれもできない、これもできないという風に忘れ去っていくのだろうか?

 昔できたことの一つに、ハワイアンギターの演奏がある。ハワイアンのスタンダードナンバーは楽譜なしでもかなり弾けたものだ。しかし、最近大昔のギターを物置から取りだして弾こうとしたが、所々、弾けない部分があるのだ。

 退職記念にアコーディオンを買ったが、これも昔はかなり弾けたつもりだが。思うように手が動かない。勘も働かない。

 これはいかんと、せめてハワイアンギターだけでも数曲弾けるようにしたいと思って、練習のためのカラオケを作った。このカラオケに合わせて一週間に何回かは練習したいと思って、練習を始めて数日が経った。前途洋々たるものがあるが、ボケ防止だと思って頑張りたい。

所々に残雪が見える新緑の林道

 

 みずみずしいフキの群落

 

久々のふき取り
 午後、家内と二人でふき取りに出かけた。フキは生えている土地によってみずみずしさや堅さが異なるのだ。

 あちこち移動しながら、フキを採り続けた。平日にフキ取りができるなんて生まれて始めてだ。山道で出会ったのは二組の夫婦だけだった。

 帰り際に、かなりフキが密集しているところに出くわした。予想以上にフキが採れた。これだけあれば、何回かはフキの煮物を食べることができる。また、「きゃらぶき」にして保存しておけば、一年中、「山の幸」を味わうことができる。満足して帰路についた。

 帰宅するなりシャワーをして事務所へ出かけた。今日は、ALTの先生に太鼓を教える日だ。といっても、彼女はアメリカの大学で和太鼓を学んでいるのだ。「三宅」なる曲を習ったらしいが、フォームはかなり様になっている。

 7月には帰国するらしいのだが、「三宅」とは異なる太鼓のたたき方を教えてあげたいと思っている。太鼓を学びたいという気持ちが強いので、上達もはやい。

 帰宅すると、今日のメニューの中にフキの煮物があった。ニシンといっしょに煮たのだ。多少の苦みがあるが、私はこの苦みが好きだ。ウドもその苦みが大好きだ。いかにも山菜を食べているという気がするからだ。

 充実した一日だった。

 
 

花を植えるなら

31 5月

庭の手入れ
 両親が元気だった頃、庭にはいろんな木が植えてあった。そして、定期的に植木屋さんにカットしてもらっていた。しかし、両親が亡くなり、自分の時代になると庭は荒れ放題、大切な庭木なども枝が折れたり枯れたりして、庭木らしい木はとうとう一本になってしまった。

 庭を綺麗に保つことは、子育ての忙しい時期にはかなり困難であった。見よう見まねで家の周りに生け垣としてカイズカイブキを植えたり、小さな池を作ったり、家の後ろの細長いスペースにつげの木を植えたりしたが、なかなか世話ができずに荒れたまま今日まで来てしまった。

 先祖に申し訳ない気持ちで一杯だ。今日は罪滅ぼしにと、道路にはみ出している樹木の枝打ちなどをした。家の周囲を綺麗しにしておくことはなかなか大変である。特に、見栄えをよくするとなるとなおさら大変だ。

 昼過ぎ、北部中学校の選択音楽で和太鼓を教えに行ったが、それ以外の時間は、家内と家の周囲で除草や庭木の剪定などをした。

 先日、Sさんの庭を見せてもらってショックを受けたのだ。余りにも綺麗にしてあるからだ。花もたくさん植えてあり、とても綺麗な家の周りだった。

一日かけてもあまり変わり映えのしなかった我が家の後

 

花を植えるなら
 現役時代、教職員の海外長期研修でデンマーク、ノルウェー、ドイツ、フランス、アメリカ、メキシコへ旅行したことがあった。

 学校視察など行ったのだが、それ以外でもいろいろ見聞を深めることができた。そんな中でノルウェーの街角で見た光景を思い出す。二階の窓辺などに綺麗な花が外へ向けて並んでいたのだ。

 道路を歩く人達には、それぞれの家の綺麗な花を眺めることができ、とても気持ちがよい。帰国してから、時々、まちづくりなどで話をする場合には、「花を植えるなら、1割か2割は外(表通り)へ向けて植えてはどうでしょうか?」と。

 花を植えるなら、10本のうち少なくとも1本は、道路沿いに植えてはどうかということです。集落の中を通るとき、互いにそれぞれの家の周囲の花を眺めることができ、心地よい気分になれると思うからです。

 観光地などでも、自分の店または土地の一部を観光客に開放する町があります。ベンチがあったり、花が植えてあったりして、気軽に休むことのできるスペースです。

 ささいなことでも、みんなが取り組むことによって、心温まる空間ができ、外来者を和ませることができるのです。人気のある観光地になっています。

 まちなかを歩いていると、表通りに向けて綺麗な花が植えてあるお宅があります。多くの人達がこのように、たとえ一本でも表通りに植えたとしたら、きっと綺麗な心温まるまちになるのではないでしょうか。

 
 

九頭竜川クリーンナップ作戦

30 5月

九頭竜川今昔
 今日は、青年会議所主催の『九頭竜川クリーンナップ作戦』が開催された。午前7時半から受け付け開始、午前8時より開会式。そして、九頭竜川の河川敷のゴミ拾いが行われた。

 会重ねるごとに参加者が多くなっているようである。喜ばしいことだ。

 私は、勝山橋下流の九頭竜川左岸(勝山駅側)の中洲でゴミ拾いを行った。河川敷で拾うゴミで一番多かったのは、農業用の黒マルチ(雑草を防ぎ地温を上げる黒い)シート)、続いてスーパーで渡される買い物袋(白)、そして、空き缶であった。

 なんとか、こうしたゴミは防ぎたいものだ。昔は、こうしたものがなかった。新聞紙さえ貴重品であった。プラスティックなどなかったように思う。おもちゃもほとんどブリキでできていた。

 従って、川は今よりも美しかった。美しい理由はゴミの、問題だけではない。

 水量は今よりも多かった。また、上流にダムがなかったので雨が降ると一気に水量が増し、川を綺麗にしていたように思う。川底には、今のようにぬるぬるとして得体の知れない苔はほとんどなかったように思う、泥や砂も少なかったように思う。

 晴れると、水は澄み、川底には石しかなかったように思う。そして、たくさんの魚が泳いでいたのだ。川マスもよく獲れたのだ。

 ダムにより、洪水はなくなったが、川は汚れてしまったように思う。数年前、青年会議所主催の「川ガキ隊事業」に参加し、九頭竜川で泳いだが、足をバタバタさせると一気に川底の土砂が舞い上がり、視界が悪くなってしまった。

 昔はこのようなことはなかった。これでは、泳ぐのは無理だと思う。いいことと悪いことはついてまわるなあと思った。

沈下橋(増水したときには水の下に沈むために欄干がない橋)の見える清流「四万十川」

観光客を乗せた屋形船が行き交う四万十川の下流

 清流四万十川
 4月に四国を旅したが、四万十川は確かに綺麗であった。また、水量も多かった。「最後の清流」と言われるだけのことはあると思った。

 川の両岸には工作物はほとんどなく、両岸にはゴミなどはほとんど見えなかった。ダムもなく、川岸に住む人達も川を綺麗にするよう努力しているのだなあと思った。

 「ダムがないために、雨が降ると水が濁ります」と、地元の人が言っていたが、それは自然なことだと思った。何故ならそれによって水が腐らないよう土砂などが洗い流されるのだろう。かつての、九頭竜川のように。

(日記:午前中、10時まで『九頭竜川クリーンアップ作戦』に参加し、ゴミ拾い。10時過ぎから、村の『レクレーション大会』に参加。レクレーションとバーベキュー大会があった。3時過ぎから、事務所で、白山信仰について学習。)

 
 

神仏習合

29 5月

文明の衝突起こらず
 昨日は一日中日曜大工。足腰が痛くなった。今日は、事務所(元私設児童館)で、終日パソコンに向かっていた。 

  『平泉寺物語』を子ども向けの絵本にするための勉強だ。図書館で借りてきた本を読みながら、山岳宗教、白山信仰などについて勉強した。 

 これまでも、何度も勉強し、いろんな人の話を聞いてきたが、小学生にも分かるようにすることは簡単ではない。 

 それにしても、神国であり、全てのものに神が宿ると考えられていた日本に、仏教が伝わったにもかかわらず、文明の衝突が起こらず、それらをうまく取り入れた日本人には感心する。 

 一方が他方を排斥することを日本人はしなかった。我が家では、神様と仏様を祀っている。神社(寺)の中には、両者を祀っているところがある。

  お水取りで有名な小浜の神宮寺も神と仏をいっしょに祀っている。名前にも「神」と「寺(仏)」が入っている。正に神仏習合である。

 今もって、外国では宗教による衝突が続いている。全てを受け入れる日本人の度量の大きさは、世界平和に貢献できる可能性大である。 

それにしても大きい存在である白山
 白山は、泰澄大師(実在したという証拠はない)が開く以前から、山麓の人達に大きな影響を与えてきたようだある。 

 農耕社会においては、人が生きて行くためには水は不可欠である。米作りは水なくしてはできないからである。その不可欠な水を山麓の住民達に提供してきたのは万年雪を抱く白山であった。また、山の幸を山麓の住民に提供してきたのも白山である。 

 また、その姿は、海を行き来する漁師にとっても、今でいうランドマークとして大きな存在であったようである。機器のなかった時代には白山は羅針盤や灯台の役目も果たしてきたのである。 

 その姿や、住民に幸をもたらす白山は信仰の対象の対象となっていったのは自然なことであった。 

神々しいご来光(白山御前峰にて撮影)

 

 そして、泰澄大師の登場(またはこれに変わる僧侶の出現)によって、白山は禁足の霊山から人が登って修業する「修験の山」へと変化していったのである。 

 加賀・越前・美濃にそれぞれ白山登拝の起点(馬場)が設けられ、それぞれが独立して発展してきたのである。それぞれが主導権を争った時期もあったようである。 

 廃仏毀釈により寺から神社になった現在も、現在もそれぞれの馬場が独立して現在に至っているのである。 

 この間の出来事は、例えば平泉寺の興亡一つとってみても、壮大なドラマである。私はこのドラマに大きな興味を持っている。 

 発掘や研究によって平泉寺の全貌が明らかになる日を待っている。全山焼失によって文献等はほとんどなくなってはいるが、奥越前の山奥に、巨大な宗教都市があったことは驚くべき事実である。 

 最後に、北陸という一地方に生まれた白山神社が全国各地に広がり見せ、今や2700社余りの白山神社が全国的に分布していることは、驚嘆すべきことである。