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Archive for the ‘未分類’ Category

東日本大震災から3ヶ月

12 6月

誰にもでもお手伝いをすることがあるのでは
  東日本大震災が発生してから3ヶ月が過ぎた。最初は、先ず避難場所の確保、食料の調達、水や電気などライフラインの確保、緊急医療の問題などがクローズアップされていた。道路や通信網の確保も大きな問題だった。

  そして、一段落した頃には、働く場所の確保、子供の通学問題、将来への不安が問題になり始めた。体育館に避難していた人たちは、仮設住宅へ入ることに望みを託しておられたであろう。

  しかし、仮設住宅に入ったからと言って問題が解決したわけではない。長年暮らした地域と仮設住宅ではコミュニティーとしての意味は大きく異なる。今日テレビを見ていたら、神戸でもそうであったように孤独死が問題になっていた。

  仮説住宅に入ったものの「話し相手がいないので、寂しい」と語る高齢者がおられた。住むところが確保できたからと言って問題が確保したわけではない。働き盛りの人にしてみれば、仕事の確保も深刻な問題だ。

  今回の震災を機会に、全ての人が国家とは何か、政治とは何か、自分の生き方はこれでよいのか、どのようにして東日本の復興を成し遂げるのか、特に、原発の収束をどのようにするのか、いろいろ考えたのではなかろうか。

  大震災の復興は、物理的な道路や建物などハード面ばかりでなく、人間らしく生きるというソフト面での問題もクリアしなければならない。

  そうなると、「がれきの処理はできなくても、私にも何か被災地の人たちのために、することがあるのではないか」と思ってしまう。東日本の復興はこれから何年もかかるであろう。その間、現地に出かけて何かお役に立つことを見つけて活動したいと思う。

かつて平泉寺の勢力が及んでいた地域。福井の半分くらいに大きな影響を与えていた。

(日記:午前中、紙芝居『白山平泉寺物語』の絵のプリントアウト。午後は、春江町中庄地区の『中庄小三郎音頭』のCD制作。10番までの歌入りCD、カラオケなど5種類のCDを制作。午後3時から『軽音楽同好会・OB会』のバンド練習。久々に青春時代に戻って楽しい時間を持った。福井、春江、勝山、大野のメンバーで7時頃まで楽しんだ。)

 
 

パソコンドクター“Yくん”のこと

11 6月

ちょっとのことでお手上げ
  私は、パソコンをよく使う。だからといってパソコンに詳しい訳ではない。むしろ、普通の人がやることもできないかもしれない。

  息子が勝山にいた頃には、1から10まで面倒を見てもらっていた。その息子が東京へ行ってからはたまに帰省したときしか、あれこれ頼むことはできない。

  パソコンは便利な機器であり、不便な機器でもある。というのは、少しでも操作ミスをしたり、動作不能になった場合には、どうしようもない。知っている者には簡単なことでも、知らない者には大きな壁になって何もできなくなる。

  ちょうど、病気になったとき、医者にかかるように、助けてくれる者がいるとありがたい。私にとっては、北谷に住むY君は、まさに「パソコンドクター」だ。

  私には、パソコンを使って明日までにしなければならないことがある。春江町中庄地区の新作民謡のカラオケを作らなければならないのだ。しかし、どうしてもソフトが立ち上がらない。

  このままでは、明日までに約束を果たすことができない。そこで、朝、“パソコンドクター”のY君に電話をかけた。つながらない、どうしようと焦った。

私の机に座って設定をしたり、トラブルを解決してくれたY君。私にとって彼はパソコンドクターだ。

  昼頃電話がかかってきた。「4時頃家へ行きましょう」と言うことになった。まさに天の助けだ。往診!?に来てくれるのだ。ありがたい!

  午後4時頃、Y君が来てくれた。これまで気になっていたパソコンの問題を全て解決してくれた。彼は、M商事で教育関係の大学や高校などにパソコンを納めているのだ。

  高校時代は、私の息子と同じクラスで私といっしょに和太鼓を打った仲間だ。もし彼がいなかったらおそらく私のパソコンでの作業は全く進まなかっただろう。歌も作れず、何もできないだろう。

  高齢者の中にはパソコンになじめない人が多いように思う。昔なかったパソコンが、50歳過60歳になってから急に普及しても、日常生活には使えるようにするにはあまりにも操作が難しいからだ。私もその中の一人だ。

 もしも、トラブルが起こる度に業者に頼んでいたらどうなるだろうか。おそらく、こちらの望むような時間には来てもらえないだろうし、かなりの費用がかかるだろう。パソコンを使うのを諦めなければならないかもしれない。

  でも、私には、“パソコンドクター”のY君がついていてくれるのでかろうじてパソコンを使っている。北谷の方へ足を向けては寝られない。ありがとう!Y君。

(日記:朝から、平泉寺物語の絵の印刷作業を続けた。一度印刷したが、紙が厚かったので、紙芝居の箱に収まらない。全部印刷をし直し始めたが、A3以上の大きさなのでかなり時間がかかった。今日中にはできないだろう。午後4時頃Y君がパソコンのトラブルやこちらのできないことを解決するために我が家へ来てくれた。感謝感謝。夜も、ずっと紙芝居の印刷を続けたが、終わりそうにない。)

 
 

終日孫の付き添い

10 6月

懐かしい愛育病院
  朝5時起床。私たち夫婦は急いで6時過ぎに愛育病院へ向けて出発。実は、長女の次男(1歳半)が緊急に入院したからだ。長女夫婦は、今日はどうしても仕事を休めないという。

  長男は、夫の実家にみてもらっているというので、急遽、私たちが一日子守りをすることになったのだ。孫は、柵で囲まれたベッドで点滴を受けている。しかし幼児なので、動き回るのだ。

  孫の守りというとせいぜい2,3時間だろうが、今日は、午前7時から午後8時までみることになった。狭い個室で孫と家内と3人でいると、本当に時間をもてあます。

  おもちゃも持ってきたが、すぐに飽きてしまう。あの手この手で時間を過ごすことにした。子守りは本当に大変だ。孫もストレスがたまっていることだろう。

 愛育病院というと、私達は自分の子育ての頃を思い出す。私の3人の子供は全て愛育病院にお世話になって生まれた。しかし、中でも、長男は幼児の頃には、よく病気になり1歳になるまで3回入院した。

  入院中、はしかにかかったりして大変だった。家内は務めていなかったので、つきっきりだったが、1歳上の長女を連れての入院だったので、苦労をしたと思う。

  私は学校勤務だったので、仕事が終わってしか、病院へ駆けつけることができなかった。子供が病気になると親は本当に困る。こんな時は、祖父母の出番だ。

  福井だからいいものの、もし遠方だったら、どうなるだろうか。病状によっては、遠くても、駆けつけなければならないだろう。

朝食をとる孫。家内が一口ずつ食べさせている(愛育病院にて)。

  子ども達は、忘れてしまっているだろうが、病気になると親は本当に困ったものだ。こんな時こそ、健康が一番だと思ってしまう。今日は、覚悟して、13時間以上病室にいることを決めた。

(日記:午前6時過ぎに自宅を出て、7時少し前から、終日愛育病院で、入院している長女の次男(孫)の付き添いをする。娘夫婦が病院へ現れたのは、午後8時半。帰宅したら9時を回っていた。子守りの途中で、白山についての本を読んだ。私はまだまだ平泉寺について何も知らないんだなあと思った。平泉寺については、知れば知るほど興味がわいてきた。)

 
 

全国レベルの平泉寺の存在

09 6月

常に中央の動きを察知
   来週の水曜日に実演する紙芝居『白山平泉寺物語』の制作の追い込みに入っている。紙芝居の制作に当たって、平泉寺に関係する人たちや関係する出来事、記述されている書物を調べてみると、どれもこれも全国級のものばかりである。

  たとえば、書物を見れば、かの有名な『平家物語』、『太平記』、『義経記』、『朝倉始末記』などんい平泉寺が登場する。どれを見ても、超一流の発行物である。全国誌に掲載されたということである。

 関係する人物などをあげると、比叡山延暦寺、平家・源氏、源義経、奥州藤原氏、後醍醐天皇、足利尊氏、斯波氏、新田義貞、豊臣秀吉、織田信長、朝倉氏、柴田氏、徳川家、加賀前田家、……これらの人たちと何らかの関係があったようである。

  また、日本の三名山の一つに数えられる白山との関係も特筆ものである。白山を開いたと言われる泰澄大師が平泉寺をつくりあげたからである。

紙芝居『白山平泉寺物語』に登場させる織田信長のイラスト。パソコンでタブレットを使って描いた。

 こうしたことを考えると、平泉寺は日本有数の宗教集団であったことが伺える。常に中央の情報をキャッチすることができる独自の情報網を持っていたのではなかろうか。また、中央の有力者も、平泉寺を無視することはできなかったのではなかろうか。

 また、平泉寺の焼き討ち以降、白山を巡って加賀藩と越前藩が常に争い、幕府の裁定を仰がなければ決着しなかったようである。特に、白山麓の領有権を巡っては決着がつかず、これらの地区を幕府直轄領としなければならなかったのである。

 いずれにしても、平泉寺を調べることは、常に、日本の歴史を調べることと同じであると、今回の紙芝居作りを通して痛感した次第である。

(日記:午前中、平泉寺ついて調べる。調

庭に咲いた一輪のバラの花。辺りが華やかになる。

べれば調べるほど疑問も出てきた。月曜日に、質問を一括して市の学芸員に教えていただくようお願いした。午後、法人から借りてる畝のショウガにマルチをまくってヌカをかぶせた。まだ、ほんの少ししか芽が出ていなかった。里芋はほとんど芽が出ていた。その後、自宅で育てている甘瓜と黒瓜の苗の植え替えを行い、さらに自分の家庭菜園で草取りや、耕耘作業を行った。帰宅してから、『白山平泉寺物語』に使う織田信長のイラストを描いた。この絵に背景をつけて、紙芝居に使うつもりである。)

 
 

久々の和太鼓練習

09 6月

「ふるさとの踊り大会」を盛り上げるために
  7月末に行われる「ふるさとの踊り大会」を少しでも盛り上げるために、直前に行われる「芸能発表」を魅力あるものにしたいと思っている。和太鼓もその一つではないかと思う。

  今日、久々に私の主宰する「越前勝山春駒太鼓」の練習を行った。全員、勝山高校で和太鼓を教えたことのある24歳の女性6人である。もう一人が参加するかもしれない。そして私と合わせて7人か8人で和太鼓チームを編成することになる。全員が社会人で、それぞれの仕事にがんばっている。勤務地も、3人が福井市であるために、帰宅も遅く、練習にも制限がある。

演奏する曲目の打ち合わせをする春駒太鼓のメンバー(私の事務所にて)。

  そして、彼女たちも、近い将来結婚したりしてそれぞれが忙しくなり、和太鼓を続けるのは困難になるであろう。何とか、彼女たちが頑張ってくれているうちに、原点に返って子供太鼓をは始めたいと思う。

  今日は、午後7時半から私の事務所で練習を始めた。先ず、来月、どの曲を演奏するのかを決め、それぞれのパートを決めた。今日は仕事の都合で一人が参加できなかった。

  今日の練習も楽しく見守ることができた。発表する7曲の内1曲は彼女たちに作ってもらいたいと思っている。みんなで創作の楽しみを味わってもらいたいと思う。そして、「ふるさとの踊り大会」を盛り上げてもらえればと思う。

 思えば、この「春駒太鼓」を創設したのは、越前大仏が建立される直前だった。勝山の子供達に何か郷土芸能を作ってやりたいとの思いからだった。この「春駒太鼓」を始めてから、かなり多くのグループの創設に関わった。

農業祭で演奏する「春駒太鼓」のメンバー(越前大仏特設舞台)。

  勝山高校、福井農林高校、県立盲学校、北郷若鷲太鼓、三室太鼓、九頭竜ワークショップのグループ等である。今、それぞれが独自に活動を続けているようである。頼もしい限りだ。

  これから、団員を募集して子供太鼓を始めることができればと思っている。汗を流しながら太鼓を打ち鳴らすのは文化系的な活動であると言うよりも体育系の活動に近いと思う。

(日記:午前、午後とも紙芝居『白山平泉寺物語』の制作を行う。難しい平泉寺の歴史をいかに手短にわかりやすくするかに苦労する。音楽入りで、読み手は家内と二人でやりたいと思っている。活動写真の弁士のようにやれればと思っている。午後1時から元同僚のSさんと会う。多少思い出話に花を咲かせる。その後、図書館へ行き、白山と平泉寺と一向一揆関係の本を10冊借りる。読めば読むほど興味がわいてくるが紙芝居に何を取り上げるかとても難し

一向一揆勢の立て籠もる村岡山に向かって兵を進める平泉寺の僧兵達(紙芝居「白山平泉寺物語」より)。

い。いかに話を簡単にするかで悩んだ一日でもあった。午後7時から私の創設した「春駒太鼓」の練習。忙しくも楽しい一日だった。)

 
 

今、少し重荷になっていること

07 6月

「盆踊りの火を消したくない」
  盆踊り復活のアクションを始めてから10年近くになろうか。越前大仏でのアクション、ゆめオーレでのアクション、成人式のアトラクションなど、場所を変えながら、盆踊り復活のためのアクションを続けてきた。夏祭りから「盆踊りの火を消したくない」という想いからだ。

  しかしながら、まだ満足すべき活動にはなっていない。3年ほど前だろうか、「盆踊り復活」のためにあちこちで話をさせていただいた。話だけでは分からないだろうと、「踊り隊」を連れて行ってデモンストレーションまで行ったりした。

  その結果、あちこちに、少しずつ盆踊り好きの人を増やしてきたと思っている。特に、村岡、遅羽、猪野瀬には盆踊り好きが増えたと思っている。また、村岡地区に誕生した女性の団体「おどり隊ひらり」はこうした運動のシンボルだと思っている。

  夜中に目が覚めた。急に盆踊りのことが心配になってきた。そんなとき、盆踊り復活に向けて、今日はどんなアクションをしようかと考えることにしている。

今年の盆踊り復活のためのアクション「ふるさとの踊り大会」のために試作したポスター(仮)。

  市役所に現時点での盆踊りに対する考え方を聞くこと、一人でも多くの人に参加してもらうために「民謡親和会」代表に協力を求めることを思いついて、再び眠りについた。

  朝起きてから、商工観光課へ電話をした。予算面ではかなり厳しい数字が示された。これはこれで受けざるを得ないだろう。親和会の代表のOさんは「今晩会員が集まるのでそこで話してみる」と言って下さった。

 一番の課題は、いかに若い人にアピールするかだが、これは簡単ではない。伝統ある「八尾」屋「郡上」なら放っておいても人は集まる。いや、集まりすぎるといった方がよいかもしれない。

  しかし、勝山では簡単ではない。毎日地道にアクションを積み重ねるしかないと思っている。後、1ヶ月半、毎日何か一つ盆踊り復活のためのアクションを積み重ねたいと思う。

(日記:午前中は、来週、深谷邸で演ずることになっている紙芝居「白山平泉寺物語」の脚本の手直しを行った。午後も作業を継続した。午後4時に民謡親和会代表のOさん宅を訪問して、協力を依頼した。その後、久々に市営プールへ行った。家内のリハビリに付き合ったのだ。かつての同僚や同級生にも会った。今週から、週に2回はプールへ行きたいと思う。毎日、先日採った蕗の煮物が食べられるのでうれしい。家内野作ったキャラブキを試食した。これもいける。)

 
 

「コーヒールンバ」の思い出

06 6月

「コーヒールンバ」をバンドで
  10月のOB会でバンド演奏をすることになった。飛び入りや即興で演奏できる楽器と言えば、パーカッションだろう。マラカス、コンガ、ボンゴ、クラベス(拍子木)等ならリズムに合わせて楽しく演奏できる。

  そこで、ハワイアンも演奏するが、ラテンのこの「コーヒールンバ」を演奏できたらと思う。みんなで即興的にガチャガチャやれたらと思うからだ。この曲は、バンドを始めた大学生の頃に流行っていた。また、喫茶店でバンドが演奏していたのをよく聞きに行ったものだ。

  私たちが当時よく聴いていたのは、ハープの一種であるアルパ奏者のウーゴ・ブランコの演奏で、世界的に大ヒットした曲だ。原曲は、ブランコの叔父であるベネズエラの作曲家ホセ・マンソ・ペローニがコーヒーをモチーフにして作詞・作曲した「モリエンド・カフェ」だそうだ。

  独特のアルパの響きが今も耳に残っている。青春の思い出の曲だ。その後、日本の歌手が歌っているが、やはりウーゴ・ブランコ楽団のものが一番いい。「コーヒールンバ」と言えばこのバンドの曲だ。

 「思い出の1曲」というものを多くの人が持っているのではなかろうか。いろんな曲目によって、その歌が流行った頃のことがいろいろ思い出される。この曲は、一杯のコーヒーで喫茶店で粘っていた頃のことを思い出す。

家庭菜園のジャガイモの花

  楽器を買うために、アルバイトに明け暮れたこと。アルバイトと言えば、定期的に行っていたのは、家庭教師。そして長期の休みに毎日働いていたのは、繊維工場。競輪は開始日だけのアルバイトあった。

  時期的なものなら、クリスマスの頃のケーキ屋、「38の豪雪」の時に雪下ろし。バンドをしながら、忙しく日々を送っていた学生時代が懐かしい。そんなわけで、“コーヒールンバ”は、「OB会」で演奏してみたい曲だ。

  そんなことを考えながら、インターネットでいろんな曲を聴き、編曲作業を続けた。今度の日曜日の練習日までには編曲してみんなに「この曲を演奏しよう」と提案したい。

(日記:「OB会」で演奏するハワイアンの曲の楽譜を書き、エレクトーン担当のMさん(大野)に渡した。午前11時半から北部中学校で和太鼓の授業。和太鼓は音を出すだけではなく、身体全体

北部中学校の『選択音楽・和太鼓』の授業

で表現できなければ見た人を感動させることはできない。どうしても、腕を伸ばしたり、腰を落としてしっかりと構えることができない者がいる。能力的なものではなく心構えの問題だ。また、練習用のばちを持ってこない者もいる。「壊れた」と平然と弁解する始末である。考え方の甘い者を指導した。午後は、「OB会」で演奏する『コーヒールンバ』の編曲。楽しい作業だ。午後4時頃、家庭菜園へ出かけて野菜の様子を見る。今日初めてエンドウを収穫することができた。私の大好物だ。昨日採ってきた「蕗の煮物」もうまい。妻は、保存用に「きゃらぶき」を作っている。せめてもう一度は「蕗採り」に行きたいものだ。)

 
 

楽しみな「ふき採り」

05 6月

久しぶりの山行き
  午前8時より、環境美化運動の一環として、子供から大人まで村の各種団体が集まって田んぼの畦に「芝桜」を植える日だ。防草シートを張り、カッターナイフで等間隔に穴を開けて、シャベルで芝桜の苗を植えた。そして、肥料入りの土をかけておいた。

村の環境美化作業(左:畦への芝桜植え作業。右:芝桜植樹作業。)

  昨年もこの作業があったが、今年も新たな場所に芝桜を植えた。私は、芝桜植えの前に、昨年植えて枯れてしまった「ハナミズキ」を土手に植えた。その後、芝桜植えを行った。全ての作業が終わったときに、芝桜植えに参加していたN(女性)さんが「今からかえってキャラブキを作るんです。」と話してくれた。

 「蕗(ふき)」と聞いた瞬間に、“そうだ、午後はふき採りに行こう”と決めた。私は、山菜の中でも、山に生えている蕗が大好物だ。昼食後、熊よけのベルを持ち、退院してあまり日にちが経っていない家内を誘って軽トラックで林道へふき採りに出かけた。

  家内は、道路で“蕗の葉っぱを取る係”、私は山の中へ入って“蕗を採る係”と決めた。あちこち歩き回らなくても、かなりの蕗が採れた。毎年来ている場所だからだ。途中で、ワラビも少し採れた。これは今の時期としては予想外だった。

 これで当分の間、蕗を食べられる。ニシンと一緒に煮てもおいしいし、アゲと煮てもおいしい。新緑の山を見ながらの「ふき採り」はハイキングと山菜採りを兼ねていて、一年に2,3回は出かけたい「我が家恒例の行事だ。

午後2時間あまりで採った蕗(下)とワラビ(上)。

  しかし、最近は熊が出るので、山へ行くのも年に2、3回ぐらいだ。 以前は、タラの芽採りなども含めて春だけでも年に5、6回くらいは山へ出かけていたが、危険なので行きたくてもいけない。

  私は、ウドや蕗、ワラビ、ゼンマイ等の山菜が大好きだ。特に、独特の苦みはたまらない。このような山菜を手に入れることができるのは、山の近くに住んでいる者の特権だと思っている。

  ワラビなどは、時期が少し遅いので、大きくなってしまって食べることはできない場所が多かった。しかし、大きくなったワラビを見て来年どこにワラビが生えるかを知っておくことは大切だ。

(日記:午前中、区民が出て、田んぼの土手に芝桜を植える作業があった。その後、帰宅してキウイの摘花作業。一昨年は300個ほどのキウイが実ったが、実は小さかった。昨年は、木が疲れたのだろうか、20個ほどしか実がならなかった。そして、今年は、また数百個の花が咲いた。そこで、今日は摘花作業を行った。初めての

満開になった我が家のキウイの花。このままでは小さい実しかならないので、摘花、摘果をしなければならない。

作業だ。午後は、家内と一緒に蕗採りに出かけた。かなりの蕗を採ることができた。ワラビも少し採れた。帰宅してから、家内の友人のNさんからオスのキウイ花をもらって受粉作業を行った。よく汗をかいた。私は今、「バンキシャ」を聞きながら、このブログを書いているが、その中でコメンテーターの川上さんが「政治家が、“ペテン師だ”、“うそつきだ”と子供に聞かせられないような言葉を発している。政治家に品格がなさ過ぎる。」と発言しておられた。予算委員会での発言を聞いていても、同様である。政治家のあまりの品格のなさが、政治不信、政治家不信を招いている。子供達が聞いたら政治家をなんと思うだろうか。これでは何を決めても、国民は同意しがたいと思う。悲しい国だ。) 

 
 

終日CDづくり

04 6月

がんばる「春江町中庄地区」
  春江町中庄地区では、村のいわれなどを取り入れた『中庄小三郎音頭』を作り、次世代に伝えたいと張り切っている。区民が作詞し、曲も作ったがその後が続かないということで、私の所へどうにかしてほしいと話が持ち込まれた。

  「なるべく原曲を尊重するが、どうしてもうまくいかないところは自分で自由に作ってもよいか」と尋ねたところ、それでもいいということで歌作りを始めた。頼みに来たのは、大学の軽音楽同好会のOBで後輩のSさんだ。

吹き込み中の二人(左:旭さん、右:妻春美)

  そして、カラオケができあがったが、その段階で中庄地区の人たちは非常に喜んで下さったようだ。明日の日曜日からカラオケを使って踊りの練習を始めるということを一昨日聞いたので、何とかそれまでに歌の入ったCDを作れないかと考え、歌って下さる旭さんにお願いした。

  そして、急に今日吹き込みをすることになった。午前中は、家内に「前歌」を歌ってもらいレコーディングすることにした。非常に短い曲だが、10回あまり練習して吹き込みを終えた。

  午後、2時半から歌謡教室の先生である旭さんが我が家へ来て下さった。歌は、地区のいわれなどが入っているために10番まであるのだ。1番から2、3回ずつ練習して吹き込みを進めた。4時頃、吹き込みは終わった。

 6時には、中庄地区の人たちがCDを取りに来るのだ。しかし、編集作業に意外と時間がかかり、6時を回ってようやく完成した。事務所へ行くと、中庄地区の人たちが4人来ていた。パソコンで聞いてみると、編集ミスでボリュームが上がらない。事務所で待っていてもらって、慌てて自宅へ戻り、編集をし直し、CDを焼いてどうにか渡すことができた。

私の部屋での吹き込み全景(歌っているのは旭さん)。

  以前にも書いたが、村の人たちが、自作の民謡を作り、区民がそれを踊るというのだ。そうして、盆踊りを通して、区民の融和を図るというのだ。特に、団地などができて旧地区との交流が少なくなる中で、何とか親睦を深めたいという。

  盆踊りの会場は「出会いの広場」になるだろう。まちづくりの一つのアクションとなると思う。村の人たちがそうした運動に真剣に取り組んでいる姿は素晴らしい。私は、大いに理解できるし、うらやましいとも思う。

  可能な限りこうした活動に手を貸してあげたいと思う。歌作りは、私にとっても楽しい作業だ。まして、大学時代の軽音楽同好会の後輩(同時に在籍したことはないが)からの頼みとなれば、張り切らないわけにはいかないと、。終日CD作りに励んだ。

CDを受け取りにはるばる勝山まで来られた春江町中庄地区の皆さん(前列中央は、「小三郎まつり」実行委員会・民謡部会の会長さん。後列左端は後輩のSさん)。

(日記:終日、春江町中庄地区の『中庄小三郎音頭』のCD作り。途中で、キュウリのネットを張りに行ったが、後はずっと吹き込みや編集作業を続けた。そして、6時過ぎに中庄地区の人たちにCDを渡すことができた。夜、末娘が東京から帰ってくると言う。久しぶりに賑やかになりそうだ。)

 
 

結構“多忙な一日”

03 6月

晴耕晴掃
  「今日は午前中、法人に借りた畑や家庭菜園の農作業で、部屋の清掃」と、家内と一日の過ごし方を決めた。午前中一番最初の仕事は、法人に借りた畑のあいた部分に「とうのいも」を植える作業だ。

法人が貸し出している畑。それぞれが、網を張ったりして獣や鳥から作物を守るために網を張っている。私は、ここでは里芋とショウガを主に作っている。毎年場所が変わるので、連作の被害を免れることができる。かなり多くの区民が借りている。

  借りた畑へ行ってみると、以前に植えた「里芋」の多くは、すでに芽を出していたが、所々欠けている部分もあった。どうしようかと迷っていると、Nさん夫婦が欠けた部分に新たに芽の出た「里芋の種」を植えていた。

  「たくさんあるからあげましょう」と、芽の出た里芋を20個ほど下さった。おかげで私の里芋の畝の欠けた部分に、芽の出た新たな里芋を植えることができた。ラッキーだった。Nさんに感謝。

  続いて、自分に菜園の小松菜を全部取り去り、そこへ「ネギ苗」を植えた。その後、サツマイモの芽の出なかった部分に新たな苗を植えた。

  さらに、実り始めた「えんどう」に鳥などに食べられないようにネットを掛けたり、キュウリのネットをつける作業を行った。

  今、片瀬地区では、狸やハクビシンや鳥などに実った作物を食べられてしまうことが多くなっている。病気や虫のほかにも、このような被害も出ているのだ。

  午後は、居間と自分の部屋の清掃。居間には、明日注文した新たな「オットマン付きのソファー」が2脚入ることになっているからだ。

  居間の方は、明日、歌い手のAさん(歌謡教室の先生)にお願いして春江町中庄地区の『中庄小三郎音頭』の吹き込みをするからだ。居間の清掃をしてマイクもセットし、曲の伴奏の準備をした。

  夜は、『片瀬豊年ばやし』の練習日。夏以降、結構、出番がありそうだ。新たなメンバーをどうして増やすかも話し合った。結構忙しい一日だった。

(日記:午前中、家庭菜園作業。午後は、居間と自分の部屋の清掃。夜は、『片瀬豊年ばやし』の練習会。)