意見と強要
私は議論をすることが好きだ。しかし、いくら議論は好きだからと言っても、けんか腰になって相手のいうことを聞かなかったり、自説を強調するあまりにそれを強要するような人と同じ時間を持つのは苦痛以外の何物でもない。
時間の無駄というものだ。経済評論家の勝間さんではないが、「消費的時間」以外の何物でもない。自分のことを棚に上げて言わせてもらうならば、年を取ると頑固に超がつくような人がいるがそんな人とは話したくない。
私流に言わせてもらうならば、議論というのは、その中から自分になかったものを見い出せたり、新しい発見があると思っている。もしもそれがないとしたら、「消費的時間」ばかりでもったいない。
何も意見の出ない会議などで決まった事柄は、誰かの一方的なアイディアや命令で物事が進められ、結果に大きな期待が持てないと思っている。
集団に活気が見られないようでは何をやってもレベルの高い方向へは行かないように思う。たとえ原案に反対であろうと、いろんな方向からの意見は原案に磨きをかけ、よりよい方向へ向かうと私は信じている。
誰も何も言わないで決まった原案は、不備が多いと思っている。そういう意味では、会議や話し合いで活発な議論を期待したい。
政治の世界でも、活発な意見が、原案をより確かな方向へ導くのである。そういう意味では健全な野党があって初めて与党は伸びていくのだと思う。今は、野党が弱小で与党の暴走に歯止めがかからないのではと危惧する。
しかし、歳を取ると頭が硬直化し、意見が偏り、融通が利かない人が周囲には少なくない。私も、他山の石とし、反面教師として、学ばなければと思っている。
(日記 午前中、事務所で数学、民謡の楽譜書き。午後も、事務所で作業を継続。午後7時から村の道場で屋根を直すための話し合い。終了後、3時間ほど議論していた。面白かった。)