「日本には家庭がない」
『日本には家庭がない』という本を以前に買った。読んでみると、なるほど「日本には家庭がない」と言われても仕方のないことかもしれない。家庭とは「独立国」であるというイメージだそうだ。
「独立国」でない場合には、どこかに従属しているか、国家としてのまとまりがなく、人が群れているだけとなってしまう。主体的ではないということになる。リーダーもいなければ、憲法もない。リビアのようにリーダーだけで憲法も議会も何もないというのも真の独立国とは言えないであろう。
家庭を国家にたとえると、そこには国民がいて憲法がある。国民には国民としての義務がある。勤労(する)義務、納税(する)義務、教育(を子女に受けさせる)義務ですね。
先ほどの本に寄れば、家庭にも独立国としての「きまり(憲法)」や「義務」があると言うことだ。そして、家庭として進むべき道を家族の話し合いによって考えなければならない。何をやりたいかがはっきりしない内閣も困りものだ。
ただ家族が集まっているだけでは、下宿屋と何ら変わらない。家族は、年齢如何に関わらず、家族の一員として尊重されねばならない。また、そうなるように育てなければならない。家庭にはなすべきことがたくさんあり、家族は互いに助け合い、それらを分担しなければならない。
ただ、ご飯を食べてねるだけの場所になっている家族は少なくないであろう。これでは家庭とは言えない。家庭ならば、尊重されるべきことがいくつかあるはずである。特に大人は、家庭の一員としての義務を果たさず、安易に他人に依存しているのでは家庭を守っているとは言えない。国民としての義務である「教育の義務」は家庭にもあるのだ。
しかし、最近は、福祉的な施設が充実してきているために、家庭が子育て(教育)の義務を果たさず、それらの施設に丸投げしている場合が少なくない。子ども達にとって家庭とは何であろうか。居場所があるのだろうか。
こんなことを考えながら、長女夫婦と久しぶりにまじめな話をした。家庭を国家と対比してみると、家庭がないと言われて仕方ののない場合が少なくない。もしかしたら、今の国家の状態は、逆に家庭がなくて、ただ家族だけが集団で生活しているだけのように見えてしまう。新内閣に期待したい。
(日記 終日、親父バンドン編曲、楽譜作り、CD作り。晴れたらしたい畑仕事がたくさんある。秋野菜の植え付けが始まる。夕方、長女夫婦と少し話した。先月は、WEBカムで長男夫婦にも話した。余計なお世話だったかもしれないが。)