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「断捨離」から思うこと

21 6月
どこで金を使うか
  最近、「断捨離」という言葉をよく聞く。「断捨離」とは、“ヨガの「断業」、「捨行」、「離行」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え”だそうだ。単なる片づけとは一線を引くという。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる

  私には、「断」も「捨」も「離」も難しい。ただ、モノに対する執着は、そんなにないと思っている。ブランド品を持ちたいとは夢にも思わない。

  モノに関して言えば、毎日使うモノにはケチケチしたくないという想いはある。滅多に使わないモノは買わないか、買っても安価なものにする。そのように気持ちは変化してきている。

  午前中、家の片付けをした。温風ヒーターがたくさんあるのだ。それと昔型の電気を使わないストーブもある。もしも、冬に何かの事故で停電になってしまったら、いくら灯油があっても温風ヒーターは使うことはできないから、昔型のストーブも捨てられないことになる。

  こんなことを考えていると、捨てられそうで捨てられないものが、物置を占領してしまう。そろそろ捨ててもいいようなドラムの部品が物置にある。

数日前に買ったドラムの教則本。これではいつまで経っても、古ぼけたドラムは捨てられない。

  大学時代は石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」でのドラマー姿にあこがれて、ドラムをたたいていたが、今後、ドラムを叩くことがあるだろうか。

  70歳を目前にして、ドラムを叩くことは先ずないだろう。ところが、1週間前に、楽器店へ寄った際、ハワイアンギターの弦を2セット注文してきたが(最近では楽器店でも売っていない)、ついでにドラムスティックとドラム教則本を買ってしまったのだ。

  これでは、車庫の二階にあるドラムセットは当分の間、捨てられない。キーボードも、ギターも、ウクレレも、当分の間持ち続けることになるだろう。

  断捨離は、いつまでもあこがれのままで、人生を送ることになりそうだ。何もない、今、座敷にあこがれるが、私にはまだまだ先のことになるかもしれない。

(日記:午前中、部屋の片付け。予想以上に時間がかかった。午後は、先ず、人前で話す資料をパソコンで作る。パワーポイントと互換性のあるジャストシステムの「アグリー」というソフトで作り始めた。来週、人前で話すための資料だ。午後、3時から午後6時半過ぎまで、畑でニンニクを収穫した。家内は収穫を終えたエンドウを取り去った。今シーズンは、これまでになく何度もエンドウを食べることができた。まだ収穫したエンドウがあるので、2、3回は食べられそうだ。ニンニクとエンドウの後に、家で待機しているキンカン瓜の苗を早く植えたい。明日は、畑を耕さなければならない。取り木をしておいたイチジクを自宅の植木鉢に植えた。今日は、たくさん汗を出した。こんな日はビールに限る。)

 
 

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