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政治不信の時代

10 1月

先ずは政治に対する信頼回復を
 内閣支持率を調べるためのアンケートが、いろんなところで実施されている。アンケートの結果が世論であるかのごとく、報道されるがアンケートにも色々欠点があると思う。

  例えば、政党の支持率などを調べるために使われているが、多くの国民は、既存の政党を支持するどころか、政治そのものに失望しているのではないか。政治そのものを信頼していないのではないか。

  そんな国民に向かって、「どの党を支持するか」と言われると、比較の問題として適当な答えを書いているのではないか。今ほど政治不信の時代はない。政治不信は国家不信につながっていく。

  国民に信頼されない国家が、増税を考えても、国民は戸惑うばかりである。国家に信頼のある国では、我が国では信じられないような高額の税金を納めているが、国民は多少の不満はあろうが、それを支持している。

全国的に冷え込んだ今朝の越前大仏と大師山

  政治に対する信頼を取り戻すことが、今、与党にも野党にも求められている。国家よりも、自分のことしか考えられない政治家のなんと多いことか。次回の選挙では、大幅な入れ替えがあるであろう。

  今日、テレビを聞きながら、作業をしていたら、「田中角栄」氏についての特集をしていた。最晩年は、裁判などで政治家としての活動はほとんどできず、最後は、脳梗塞で倒れてしまった。

  しかし、その番組の中で述べられていた田中氏のある部分については、コメンテーターも納得していたようだ。自分も同感であった。それは、「家族が一緒になって笑顔で暮らせる世の中をつくる」ことを願っているという部分だ。

  私たちの子供の頃は、日本海側や東北・北海道、四国・九州などは特に発展が遅れ、地元に働く場は少なかった。自分の同世代の者の半分ぐらいは仕事を求め、丁稚奉公という形で都会へ出て行ったのだ。

  また、そうでない大人達も、冬には出稼ぎに出かけていたのだ。集団就職とか、集団就職列車などという言葉をよく聞いたものだ。地域によっては、もしかしたら今でも出稼ぎに出ているのではなかろうか。

  かつては、「家族そろって生活する」ということは、地方に住んでいる人間にとっては、願ってもかなえられないことであったのだ。秋から春までは、年寄りや女性や子供だけという家庭が少なくなかったのだ。

  「道路を作り、鉄道を引き、地方でも働ける世の中をつくる」ことによって「家族が一緒に暮らせる世の中になる」と角栄氏は信じて行動したという。はっきりとしたビジョンを示した政治家だったというのだ。

  今、自分の言葉で語れる政治家はいるのだろうか。私は、今年ほど、作業をしながらラジオを聞いたことがない。ほとんどNHKなので、国会中継も多かった。

  そんな中で、野党は、与党の欠点や弱点ばかりを責め、与党の大臣や総理は責任転嫁の場面が多く、前向きの話葉ほとんど聞くことができなかった。

  このような世の中が続けば、国民は自分の将来は自分で守らなければと考え、金を貯蓄に回し、消費が落ち込むのは当然のことではないのか。増税になれば、ますますその傾向が強まるだろう。

(日記:午前中、松岡へ。午後数学のホームぺージづくり。わずかずつしか進まないが、それでも楽しんでやっている。)

 
 

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