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神仏習合

29 5月

文明の衝突起こらず
 昨日は一日中日曜大工。足腰が痛くなった。今日は、事務所(元私設児童館)で、終日パソコンに向かっていた。 

  『平泉寺物語』を子ども向けの絵本にするための勉強だ。図書館で借りてきた本を読みながら、山岳宗教、白山信仰などについて勉強した。 

 これまでも、何度も勉強し、いろんな人の話を聞いてきたが、小学生にも分かるようにすることは簡単ではない。 

 それにしても、神国であり、全てのものに神が宿ると考えられていた日本に、仏教が伝わったにもかかわらず、文明の衝突が起こらず、それらをうまく取り入れた日本人には感心する。 

 一方が他方を排斥することを日本人はしなかった。我が家では、神様と仏様を祀っている。神社(寺)の中には、両者を祀っているところがある。

  お水取りで有名な小浜の神宮寺も神と仏をいっしょに祀っている。名前にも「神」と「寺(仏)」が入っている。正に神仏習合である。

 今もって、外国では宗教による衝突が続いている。全てを受け入れる日本人の度量の大きさは、世界平和に貢献できる可能性大である。 

それにしても大きい存在である白山
 白山は、泰澄大師(実在したという証拠はない)が開く以前から、山麓の人達に大きな影響を与えてきたようだある。 

 農耕社会においては、人が生きて行くためには水は不可欠である。米作りは水なくしてはできないからである。その不可欠な水を山麓の住民達に提供してきたのは万年雪を抱く白山であった。また、山の幸を山麓の住民に提供してきたのも白山である。 

 また、その姿は、海を行き来する漁師にとっても、今でいうランドマークとして大きな存在であったようである。機器のなかった時代には白山は羅針盤や灯台の役目も果たしてきたのである。 

 その姿や、住民に幸をもたらす白山は信仰の対象の対象となっていったのは自然なことであった。 

神々しいご来光(白山御前峰にて撮影)

 

 そして、泰澄大師の登場(またはこれに変わる僧侶の出現)によって、白山は禁足の霊山から人が登って修業する「修験の山」へと変化していったのである。 

 加賀・越前・美濃にそれぞれ白山登拝の起点(馬場)が設けられ、それぞれが独立して発展してきたのである。それぞれが主導権を争った時期もあったようである。 

 廃仏毀釈により寺から神社になった現在も、現在もそれぞれの馬場が独立して現在に至っているのである。 

 この間の出来事は、例えば平泉寺の興亡一つとってみても、壮大なドラマである。私はこのドラマに大きな興味を持っている。 

 発掘や研究によって平泉寺の全貌が明らかになる日を待っている。全山焼失によって文献等はほとんどなくなってはいるが、奥越前の山奥に、巨大な宗教都市があったことは驚くべき事実である。 

 最後に、北陸という一地方に生まれた白山神社が全国各地に広がり見せ、今や2700社余りの白山神社が全国的に分布していることは、驚嘆すべきことである。

 
 

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