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Archive for 5月, 2010

花を植えるなら

31 5月

庭の手入れ
 両親が元気だった頃、庭にはいろんな木が植えてあった。そして、定期的に植木屋さんにカットしてもらっていた。しかし、両親が亡くなり、自分の時代になると庭は荒れ放題、大切な庭木なども枝が折れたり枯れたりして、庭木らしい木はとうとう一本になってしまった。

 庭を綺麗に保つことは、子育ての忙しい時期にはかなり困難であった。見よう見まねで家の周りに生け垣としてカイズカイブキを植えたり、小さな池を作ったり、家の後ろの細長いスペースにつげの木を植えたりしたが、なかなか世話ができずに荒れたまま今日まで来てしまった。

 先祖に申し訳ない気持ちで一杯だ。今日は罪滅ぼしにと、道路にはみ出している樹木の枝打ちなどをした。家の周囲を綺麗しにしておくことはなかなか大変である。特に、見栄えをよくするとなるとなおさら大変だ。

 昼過ぎ、北部中学校の選択音楽で和太鼓を教えに行ったが、それ以外の時間は、家内と家の周囲で除草や庭木の剪定などをした。

 先日、Sさんの庭を見せてもらってショックを受けたのだ。余りにも綺麗にしてあるからだ。花もたくさん植えてあり、とても綺麗な家の周りだった。

一日かけてもあまり変わり映えのしなかった我が家の後

 

花を植えるなら
 現役時代、教職員の海外長期研修でデンマーク、ノルウェー、ドイツ、フランス、アメリカ、メキシコへ旅行したことがあった。

 学校視察など行ったのだが、それ以外でもいろいろ見聞を深めることができた。そんな中でノルウェーの街角で見た光景を思い出す。二階の窓辺などに綺麗な花が外へ向けて並んでいたのだ。

 道路を歩く人達には、それぞれの家の綺麗な花を眺めることができ、とても気持ちがよい。帰国してから、時々、まちづくりなどで話をする場合には、「花を植えるなら、1割か2割は外(表通り)へ向けて植えてはどうでしょうか?」と。

 花を植えるなら、10本のうち少なくとも1本は、道路沿いに植えてはどうかということです。集落の中を通るとき、互いにそれぞれの家の周囲の花を眺めることができ、心地よい気分になれると思うからです。

 観光地などでも、自分の店または土地の一部を観光客に開放する町があります。ベンチがあったり、花が植えてあったりして、気軽に休むことのできるスペースです。

 ささいなことでも、みんなが取り組むことによって、心温まる空間ができ、外来者を和ませることができるのです。人気のある観光地になっています。

 まちなかを歩いていると、表通りに向けて綺麗な花が植えてあるお宅があります。多くの人達がこのように、たとえ一本でも表通りに植えたとしたら、きっと綺麗な心温まるまちになるのではないでしょうか。

 
 

九頭竜川クリーンナップ作戦

30 5月

九頭竜川今昔
 今日は、青年会議所主催の『九頭竜川クリーンナップ作戦』が開催された。午前7時半から受け付け開始、午前8時より開会式。そして、九頭竜川の河川敷のゴミ拾いが行われた。

 会重ねるごとに参加者が多くなっているようである。喜ばしいことだ。

 私は、勝山橋下流の九頭竜川左岸(勝山駅側)の中洲でゴミ拾いを行った。河川敷で拾うゴミで一番多かったのは、農業用の黒マルチ(雑草を防ぎ地温を上げる黒い)シート)、続いてスーパーで渡される買い物袋(白)、そして、空き缶であった。

 なんとか、こうしたゴミは防ぎたいものだ。昔は、こうしたものがなかった。新聞紙さえ貴重品であった。プラスティックなどなかったように思う。おもちゃもほとんどブリキでできていた。

 従って、川は今よりも美しかった。美しい理由はゴミの、問題だけではない。

 水量は今よりも多かった。また、上流にダムがなかったので雨が降ると一気に水量が増し、川を綺麗にしていたように思う。川底には、今のようにぬるぬるとして得体の知れない苔はほとんどなかったように思う、泥や砂も少なかったように思う。

 晴れると、水は澄み、川底には石しかなかったように思う。そして、たくさんの魚が泳いでいたのだ。川マスもよく獲れたのだ。

 ダムにより、洪水はなくなったが、川は汚れてしまったように思う。数年前、青年会議所主催の「川ガキ隊事業」に参加し、九頭竜川で泳いだが、足をバタバタさせると一気に川底の土砂が舞い上がり、視界が悪くなってしまった。

 昔はこのようなことはなかった。これでは、泳ぐのは無理だと思う。いいことと悪いことはついてまわるなあと思った。

沈下橋(増水したときには水の下に沈むために欄干がない橋)の見える清流「四万十川」

観光客を乗せた屋形船が行き交う四万十川の下流

 清流四万十川
 4月に四国を旅したが、四万十川は確かに綺麗であった。また、水量も多かった。「最後の清流」と言われるだけのことはあると思った。

 川の両岸には工作物はほとんどなく、両岸にはゴミなどはほとんど見えなかった。ダムもなく、川岸に住む人達も川を綺麗にするよう努力しているのだなあと思った。

 「ダムがないために、雨が降ると水が濁ります」と、地元の人が言っていたが、それは自然なことだと思った。何故ならそれによって水が腐らないよう土砂などが洗い流されるのだろう。かつての、九頭竜川のように。

(日記:午前中、10時まで『九頭竜川クリーンアップ作戦』に参加し、ゴミ拾い。10時過ぎから、村の『レクレーション大会』に参加。レクレーションとバーベキュー大会があった。3時過ぎから、事務所で、白山信仰について学習。)

 
 

神仏習合

29 5月

文明の衝突起こらず
 昨日は一日中日曜大工。足腰が痛くなった。今日は、事務所(元私設児童館)で、終日パソコンに向かっていた。 

  『平泉寺物語』を子ども向けの絵本にするための勉強だ。図書館で借りてきた本を読みながら、山岳宗教、白山信仰などについて勉強した。 

 これまでも、何度も勉強し、いろんな人の話を聞いてきたが、小学生にも分かるようにすることは簡単ではない。 

 それにしても、神国であり、全てのものに神が宿ると考えられていた日本に、仏教が伝わったにもかかわらず、文明の衝突が起こらず、それらをうまく取り入れた日本人には感心する。 

 一方が他方を排斥することを日本人はしなかった。我が家では、神様と仏様を祀っている。神社(寺)の中には、両者を祀っているところがある。

  お水取りで有名な小浜の神宮寺も神と仏をいっしょに祀っている。名前にも「神」と「寺(仏)」が入っている。正に神仏習合である。

 今もって、外国では宗教による衝突が続いている。全てを受け入れる日本人の度量の大きさは、世界平和に貢献できる可能性大である。 

それにしても大きい存在である白山
 白山は、泰澄大師(実在したという証拠はない)が開く以前から、山麓の人達に大きな影響を与えてきたようだある。 

 農耕社会においては、人が生きて行くためには水は不可欠である。米作りは水なくしてはできないからである。その不可欠な水を山麓の住民達に提供してきたのは万年雪を抱く白山であった。また、山の幸を山麓の住民に提供してきたのも白山である。 

 また、その姿は、海を行き来する漁師にとっても、今でいうランドマークとして大きな存在であったようである。機器のなかった時代には白山は羅針盤や灯台の役目も果たしてきたのである。 

 その姿や、住民に幸をもたらす白山は信仰の対象の対象となっていったのは自然なことであった。 

神々しいご来光(白山御前峰にて撮影)

 

 そして、泰澄大師の登場(またはこれに変わる僧侶の出現)によって、白山は禁足の霊山から人が登って修業する「修験の山」へと変化していったのである。 

 加賀・越前・美濃にそれぞれ白山登拝の起点(馬場)が設けられ、それぞれが独立して発展してきたのである。それぞれが主導権を争った時期もあったようである。 

 廃仏毀釈により寺から神社になった現在も、現在もそれぞれの馬場が独立して現在に至っているのである。 

 この間の出来事は、例えば平泉寺の興亡一つとってみても、壮大なドラマである。私はこのドラマに大きな興味を持っている。 

 発掘や研究によって平泉寺の全貌が明らかになる日を待っている。全山焼失によって文献等はほとんどなくなってはいるが、奥越前の山奥に、巨大な宗教都市があったことは驚くべき事実である。 

 最後に、北陸という一地方に生まれた白山神社が全国各地に広がり見せ、今や2700社余りの白山神社が全国的に分布していることは、驚嘆すべきことである。

 
 

出でよ!平成の龍馬

28 5月

大河ドラマ『龍馬伝』
 私が、まじめに見るテレビ番組は三つあります。まじめにというのは、テレビを見ていることに集中する番組です。他の番組は、何かをしながらテレビを聞いているという感じです。

 必ず見る三つとは、「大河ドラマ」と「朝の連続テレビ」と同級生が毎年作る「テレビドラマ」です。しかし、これらは放映している時間に見ることは全くありません。

 3月までは、忙しくて全て録画しておいて、時間のあるときに見るようにしています。朝ドラはすでに『ゲゲゲの女房』が始まっていますが、まだ一度も見ていません。全作の『ウェルかめ』がまだ見終わっていないからです。

 時間があったので、『龍馬伝』を昨日三つ、今日三つ見ました。それでようやく4月分が見終わったというわけです。

 人には「志」が大切だということをこのドラマは私に訴えかけてきます。振り返って毎日のニュースを見ていますと、政治家のみなさんはこの日本をどうしようとしているのか、はかりかねることがあります。

 思わず叫びたくなることがあります。「出でよ!平成の龍馬!」と。龍馬気取りの政治家がいますが、本物の龍馬に失礼ではないでしょうか?

私と龍馬
  私が龍馬ファンになったのは、スキーで骨折して入院したときに、先輩が司馬遼太郎さんの『龍馬がゆく』を私に下さったときに始まります。その後、津本陽さんの『龍馬』も買い求めました。その他、龍馬に関する雑誌や書籍も買い求めました。

 家族と龍馬のふるさと、高知を旅しました。また、先月も高知へ出かけて龍馬ゆかりの地を訪ねました。

 昨年は、龍馬の歌も作りました。今になっても、『龍馬』は私を熱くしてくれます。一万分の一でもあやかれたらと思っている今日この頃です。

あこがれの坂本龍馬像の前で(今年4月桂浜)

(日記:終日、日曜大工に明け暮れる。)

 
 

歌作り

27 5月

新民謡と股旅演歌
 晴れたら家庭菜園用の小屋の棚作りをしようと思っていたが、天気がよくないので歌作りに専念することにした。

 一曲は、鹿谷町の矢戸口の民謡を作ることだ。半年前にTさんから詩をいただいて少しずつ作業を進めてきたが、ようやく作業が完成したのだ。

 そして、もう一曲は美山のおじさん達のために股旅ものの演歌を作ってみたいと思っている。別に頼まれたわけではない。ボランティアに歩くおじさん達だが、一曲ぐらい自分の歌を持っていた方が楽しいだろうとこちらが勝手に考えてのものだ。これは、2、3日前から始めてメロディーはようやく出来上がった。

 もっとも時間がかかるのは編曲だ。いろんなことを考えなければならない。
 ・どんな楽器を使うのか?
   ・楽器の配置は?(右に置くのか左に置くのか)
 ・楽器をどのように演奏するのか?(音の伸び、強弱、響き、・・・)
 ・主旋律(メロディ)の後に流れる様々な楽器とそのメロディーを考える作業も大変だ。

 パソコンのソフトはいろんな作業ができるようになってはいるが、指示を与えるのは全て人間の方だ。時間がどれだだけあっても足りない。

 メロディーは一日でできるが、編曲は一ヶ月はかかる。しかし、時間があればできるというものではない。私のように趣味でしか音楽をやっていないものには苦労の多い作業だ。

 プロの場合には専門の編曲家がいるので、作曲家はメロディーを作れば後は専門家に任せることができる。素人は、この部分で大いに苦労することになる。

 民謡の方はカラオケを作って歌い手である大野市の旭さん(勝山出身で歌謡教室の先生)の所へ持って行った。Tさんの希望である。数日後には吹き込みができると思う。CDにするつもりだ。

旭さんに吹き込んでいただいたCDのジャケット

皿洗い
 夢中になって、歌作りをしていたら、一日が終わってしまった。外出したのは、大野の旭さんにカラオケCDと楽譜を持って行った時だけだ。帰りに、本屋で『Photoshopプロフェッショナル ・ロゴデザイン』を買ってきた。

 後はずっとっパソコンの前にいた。家内に申し訳ないと思い、夕食後は皿洗いをすることにした。退職して初めてだ。家内に洗う手順を習ってから、洗剤で全ての食器などを洗ってから水で濯いだ。

  もう働いていないのだから、甘えてばかりもいられない。何をひとつでも、地域のためか家族のためになることをやっておけば、一日が充実するものだ。

 
 

余興と郷土芸能

26 5月

余興は余興
 私の村には、明治時代か大正時代に伝わった「銭太鼓やどじょうすくい」がある。そして、大正時代の頃には、それらが近隣の村に伝わってその村で今も伝えられている。

 私の村では、祝い事や地域のイベントには長い間この「どじょうすくい」が銭太鼓と共に、披露されてきた。村の郷土芸能と言えなくもない。

 しかし、この「銭太鼓やどじょうすくい」は廃れていった。しかし、今から、30数年前に、村の若者達が復活させたのである。2年前には、小学生が公民館祭に「どじょうすくい」と共に「銭太鼓」を演し物として披露している。

 私も、久しぶりに子ども達に「どじょうすくい」を指導したのである。自分自身も「どじょうすくい」を踊った経験があるし、我が子や家内、そして、ずいぶん多くの人達にこの「どじょうすくい」の面白さを伝え、舞台に立ってもらったのである。

 しかし、この「銭太鼓やどじょうすくい」は、余興にはなっても、郷土芸能にはなりえない弱点があるのである。それは、この芸能は、出雲のコピー芸だからである。

 音楽に、「安木節」をつかい、「出雲名物~♪♪♪」と歌っているのだから、郷土芸能のコピーであって余興にしかならないのである。

私の父も写っている片瀬伝統の「銭太鼓」(今から70数年前の写真)

余興から郷土芸能へ
 せっかく100年近くも我が集落に伝わりながら、余興にしかならない、この芸能をなんとか「我が村の郷土芸能」にしようという動きがある。

 一昨日、区長と村の有志が集まって話し合いをもった。この銭太鼓をベースに、「安来節」ではない新しい民謡を作り、これまで伝わってきた銭太鼓の振りをアレンジして新しい郷土芸能を作ろうというのである。「どじょうすくい」ではない、何か新しい「ユーモア芸」も付け加えられたらと思っている。そして、音楽は私が作ることになっている。

 各地に伝わる郷土芸能を自分の地域にうまく取り込み、新たなものを生み出すということは日本各地で行われている。

 あの有名な「郡上踊り」も、ルーツは「伊勢音頭」にあるらしいし、「ハイヤ節」も、北前船によって全国各地に伝わり、それぞれ各地の民謡として現在も歌い継がれているのである。

 たとえ新しい芸能でも、地域に伝われば郷土芸能になりうるし、他地区のものを取り入れても、全く同じでなければ郷土芸能となりうるのである。

 先日の三国祭りで各山車が勢揃いし、冒頭に子ども達が一斉に演奏したお囃子の音楽「しっちょうめ」は、勝山の「左義長囃子」にも使われているといった具合である。

 そんなわけで、今私の地区では、伝統的な“余興”を“伝統芸能”にすべく、歩み始めようとしている。

(日記:鹿谷町矢戸口区のTさんから詩を持ち込まれ曲作りを依頼された“矢戸口エエトコ音頭”がようやく完成した。半年がかりでできたのだ。午後、退職公務員の定期総会に出席。)

 
 

勤労奉仕隊

25 5月

もしも遅刻したら
 最近、週に一時間、学校へ出かけているので時々現役時代のことを思い出す。その一つに遅刻の問題がある。

 高校生にもいろんな生徒がいて十分夜睡眠時間をとっていない生徒や生活が乱れている生徒も少なくない。そうした生徒の中には遅刻するものも少なくない。

 一定回数以上遅刻した生徒には、何か指導をしなければならない。そこで学年主任(当時、学年主任は担任をしていた)だった私は「勤労奉仕隊」編成を提案した。

 まず、遅刻がなぜていたないのかを生徒達に説明した後、

「今後一定回数(5回だったと思う)以上遅刻した者は、勤労奉仕隊として、学校のために奉仕活動をしてもらいます。もちろん私もみなさんと一緒に活動を行います。」

 こうして遅刻した者による奉仕活動が始まった。学校の水路の清掃、グラウンドの草取り、除雪作業など様々な学校美化活動などの奉仕活動を行った。

 作業の先頭に私が立っているので、生徒達は多少不服でも、どうにか定められた奉仕活動を全うしてくれた。

協働の効果
 遅刻して教室に入る場合には、授業が中断したりして、教科担任や仲間達に迷惑をかけたのだから、その分、学校に対して、他の生徒達に対して罰則というよりも、奉仕活動で償ってもらおうという発想だ。

 この場合、私の役割は、生徒達と共に作業をするということだ。夏の暑い日のグラウンドの草取りは決して楽ではない。しかし、いっしょに働く間に、自分のクラスではない生徒達からも生の声を聞くことができる。

 「うちの父ちゃんは子どもに全然関心がないんや。学校のことは母ちゃんに任せっきりや」

 こんな父親に限って、将来進路を決める時期になると、
 「好きなようにすればよい」
と、一見物わかりのよい父親を演じることになる。

 しかし、いざ自分で進路を決めようとすると、一番先に文句を言うのもこういう父親だ。高校生といえどもまだまだ子どもだ。

 毎日毎日、夫婦げんかをする家族もある。父と祖父母の喧嘩をする家庭もある。のんびりと家で過ごすことができない。朝食を作ってくれない家庭もある。弁当を作ってくれない家庭もある。ついつい、寝過ごしてしまう子どももいる。

 何らかの理由で生徒達は、遅刻するのだ。頭ごなしに叱るよりも、いっしょに真剣に奉仕活動をするのだ。「上から目線」で生徒を見下すよりも、暑くても寒くてもいっしょに働くことで不思議な連帯感が生まれるものだ。

 こうして「勤労奉仕隊」の子ども達と働きながら、生の声を聞いていると、指導の参考になることが多い。懐かしい思い出だ。

(日記:午前中、日曜日が雨だったので今日に延期になった村の道路沿いの土手に芝桜を植える作業があった。午後、豆の支柱を作り、その後、事務所の部屋の整理。久しぶりに、演歌作りを行った。)

 
 

和太鼓教室

24 5月

太鼓ビックス
 北部中学校の3年生の『選択音楽』で和太鼓を教え始めて今日で3日目。行く前には今日は何をするかを頭の中に入れて行くことになる。今日の予定は、次の三つを教えることだ。

 (1)前回の練習曲を暗譜(椅子を太鼓に曲を覚える)
 (2)太鼓ビックス(和太鼓のための準備体操)
 (3)実際に和太鼓で練習曲をたたく(振りも考えて)

 予想以上に生徒達は頑張ってくれている。和太鼓は文化系の芸能ではない。体育系の芸能だと思う。特に下半身と上半身のバランスが取れていないとうまくいかない。

少し形ができてきた3回目の和太鼓授業(北部中3年生)

 そして、正しいフォームでなければいい音が出ないし、見ているものに感動を与えることはできない。そしてもう一つ大事なことがある。

あかおやま
 私が和太鼓以上に大切にしていることがある。それは「あかおやま」である。これが理解できなければ和太鼓は上手にならないし、やっても意味がないと思う。

 =挨拶
 =感謝
 =思いやり
 =約束
 =マナー

 今日の授業でも、黒板に「あかおやま」と書いて、「“あ”は何?」と生徒に問いかけることにしている。正解は挨拶だ。これは、高校生に和太鼓を教えてきたときも同じだ。「あかおやま」を身に付けることの方が和太鼓を勉強することよりも大切だと思っている。

(日記:午前中、孫達と過ごす。昼過ぎに孫達は横浜へ。午後1時25分より北部中で選択音楽授業。その後、児童館で童話の挿絵研究:特に犬・猫の動きを研究。夜、村の郷土芸能研究会に出席。) 

 
 

ビジネスとしての農業となると

23 5月

農業後継者不足
 私の地区では、後継者不足のために、法人化して農業を継続していこうということで、『農事法人かたせ』なる組織ができました。

 そして、本日7時より臨時総会が開かれた。本日の議事は、
 ・格納庫の建設について
 ・コンバインの購入について
 ・格納庫建設に伴う追加出資および借入金について
の三つであった。意見が出て、活発な討論が行われた。

個人農業と会社農業の違い
 「ハウスが遊んでいるではないか」という意見があった。個人で農業を行っている場合には、時間をかけて野菜を栽培し、1円でもお金になればいいと思う人が多い。
  ところが会社となると、賃金を払わなければならないから話は単純ではない。500円儲けるために人件費が1000円かかった場合には、事業としては成り立たないので何もしない方がよいということになる。

 下手にハウスが空いているからといって、野菜を栽培した場合に、利益を上げるどころか出費がかさみ、経営としては、成り立たない。

 個人農業の場合には、かけた手間賃は考えないので500円が手に入ればそれでよいのだ。どうせ、身体が空いているのだったら、1円でも売り上げが多い方がよいのだ。

 田植機で苗を植えた場合には、うまく植えられない部分が発生する。昔は「また植え」といって、苗が植わっていない部分を探して苗を植えたものだ。

 ところが会社となると、そうは簡単にはいかない。「また植え」をすることによって、仮に10,000円の増収だったとする。しかし、手間代が20,000円かかっていればこれはやらない方がいいということになる。

 会社は社会奉仕ではないので、利益の出ないものには手を出せないのである。お年寄りが見たら、「なぜ、“また植え”をしないのか」となる。コスト感覚のない人達は、もったいないという気持ちで法人の農業を見るが、経営者は簡単には動き出せない。

 空いたビニールハウスを見ながら、何かに使えるのではないかと考えていることの頃である。何かに使えないかを考えてみたいものである。

(日記:午前中、童話の挿絵研究。夕方から孫達と過ごす。二人の孫と一緒に風呂へはいる。息子に、新しいパソコンのソフトインストールを依頼する。文章が書けて、絵が描けて、歌を作る環境が整った。また、孫達と旅先であろうとどこであろうと、どこからでもテレビ電話ができる環境が整った。)

 
 

孫という名の宝物

22 5月

演歌『孫』のヒット
 “♪なんでこんなに可愛いのかよ 孫という名の 宝物……♪(作詞:荒木良治氏・作曲と歌:大泉逸郎氏)”

 最初この歌を聴いたとき、シンプルな歌だなあと思っていたが、いざ自分に孫ができてみると、この歌の歌詞の通りだと思うようになった。

 また、2番の
“♪仕事いちずで 果たせなかった 親の役割 代りの孫に 今は返して 今は返しているところ♪”

の部分も正にその通りである。孫となると子育ての責任のほとんどは親にある。自分の子育てはほとんど終わっているので、余裕を持って孫に関わることができる。

 従って、本当に可愛いと思えるのである。可愛いと思えるだけの心の余裕も持てるのである。

新緑の勝山を孫たちと一緒に過ごす
 昨年8月から、息子が東京で働くことになった。二人の孫達は、10月に横浜へ引っ越してしまった。そのために孫達と過ごす時間が激減した。

 その孫達(2歳と5歳)が、今日の午前10時頃、横浜から帰ってきた。一月半ぶりの再会である。さっそく家族揃って、息子が食べたいというカツ丼を食べに出かけた。

 息子は、勝山の緑が見たいという。それならと、孫の喜びそうな長尾山公園へ連れて行った。公園内の遊具で思いっきり遊ばせた。特にターザンロープは気に入ったようだった。

孫をターザンロープに乗せる私

 その後、我が家のミニ菜園へ行き、孫達にイチゴを採らせて食べさせた。小さなイチゴしかなっていなかったが、孫達は大喜びだった。

   しばらくして、六呂師公園へ連れて行った。遊具で遊んだ後、ミニ動物園へ行った。兎に草を与えるのが楽しかったようだ。かなりの時間、ミニ動物園で過ごした。

兎にクロ-バーをやる孫たち

 帰宅してから、夕食をとり、二人の孫といっしょに風呂に入った。今晩は、長女と一緒に寝ることになるだろう。

 今、勝山は新緑がとても綺麗である。都会にいると、この緑が懐かしくなるらしい。私達も、孫達のおかげで、市内の新緑を見ながら、命の洗濯をすることができた。孫達に感謝である。