走行距離 2,525Km
九州・四国旅行最終日。西宮名塩SAで仮眠し、朝食。午前7時22分過ぎに自宅へ向けて運転開始。途中、多賀インターで休憩。運転中眠くなったので、賤ヶ岳SAで休憩仮眠。その後一気に自宅へ。午後12時半に自宅へ帰ることができた。9泊10日の九州・四国の退職記念旅行は無事終わった。
Archive for 4月, 2010
無事我が家へ(10日目)
土佐・龍馬であい博(9日目)
何でもかんでも龍馬、龍馬のまち
ホテルを出て朝一番に高知市立「龍馬の生まれたまち記念館」へ。かなりの人が集まっていた。団体さん、バイクのおじさん、歴女のお姉さん、高齢者夫婦、みんなみんな龍馬が好きなんだと感心した。展示に工夫が見られた。
桂浜を歩く
続いて桂浜へ。浜辺を歩いて砂浜の橋にある神社・竜王宮に参拝。おなじみの風景の中を写真を撮りながらのんびりと歩く。途中でアイスクリンを食べ、さらに坂本龍馬像のある公園へ移動。
龍馬に大接近
「であい博」の特別イベントとして期間限定で像の横に足場が組んであり、一回百円で登れるようになっていた。登ると銅像の龍馬と同じ目線で
その後、「高知県立坂本龍馬記念館」へ。さらに、高知駅にある「であい博」のメイン会場へ。高知は正に龍馬一色であった。地域の宝は“ひと”であることを実感した旅であった。また、今回の旅でたくさんの展示を見たが、物語がなければ人の心は打たないと感じた。 コシの強い讃岐うどんに満足
帰りにガイドブックにあったうどん屋“山下うどん”で讃岐うどんを食べた。生姜とおろし金がテーブルの上に置いてあり、好きなだけ擂った生姜をうどんにかけて食べるのだ。この店舗は新たな場所へ移るということでこの日が最後の営業日だった。小を頼んだつもりだが、それでも普通の一玉半はあるということだった。うどんはコシが強く、7、80cmはある長いものだった。お代わりを頼んで満腹になり店を出た。その後、淡路島経由で四国を後にした。
龍馬一色(8日目)
清流四万十川沿いを車で走行
四万十市のホテルを出て四万十市立郷土資料館へ。城の形をした博物館で川、幸徳秋水、七星剣などの資料を見る。その後、四万十川に沿って走る。その雄大さに感動。
次に、足摺岬近くのジョン万次郎資料館へ。ドラマチックなその一生に驚嘆。南下して足摺岬へ。太平洋の大きさに気持ちも大きくなる。
龍馬の生涯を180体の蝋人形で 続いて龍馬の一生を約180体の蝋人形で再現した「龍馬歴史館」へ向かう。お馴染みの場面に感激。高知やその周辺のまちでは、次から次へと龍馬に関わる資料館や博物館を作り出す。龍馬人気は凄いものである。
龍馬・龍馬龍馬……
6時過ぎにホテル到着。土佐は今龍馬ブーム。空港も高知龍馬空港だし、陸上競技場にも龍馬はついているし、商店街にも龍馬の写真や似顔絵があるし、龍馬伝という文字も数え切れないほど目に飛び込んできた。龍馬グッズは多種多様あり、四国は龍馬一色であった。いや、九州もそうであった。
最後の清流四万十川(7日目)
地獄巡りで地球の鼓動を
朝一番に別府の地獄巡り。時間の都合上、海・血・竜巻の3つの地獄を巡り、地球の鼓動を感じながら、足湯でリラックス。疲れた足には「足湯」もなかなかのもんんだった。
九州から四国へ
別府から関門海峡を渡って中国道か山陽道で帰るよりも、四国へ渡って四万十川や龍馬のふるさと高知へ行った方が値打ちがあるだろうと決断。
ガイドブックを頼りに大分県の佐賀関へ。1時間おきに四国へのフェリーが出ていることを知る。四国の西端、三崎港へ移動。
四万十川に沿って走行 ここから、どこへ行くかが問題だ。四万十市へ移動すべく、ナビで調べると推奨コースとして海岸線を遠回りするコースが表示される。しかし、時間がかかりすぎる。敢えて最短コースを選ぶ。予想通り、山越えでヘアピンカーブの連続。
途中から四万十川沿いを走ることになる。道幅は狭く一車線でカーブの連続。対向車も多く命懸けの難所。しかし一度見たかった四万十川に大感激。四万十川は予想通り清流であった。途中に岩間の沈下橋があった。車で渡りたかったが、橋の幅は普通車より少し広いだけで欄干はなし。妻に止められ、やむなく写真を撮るだけにした。
四万十川はどこまでも清く、水量も多かった。川魚漁師がいるということも理解できた。川の両側は綺麗な砂や小石があるだけで、見苦しい工作物は一切なかった。川の周辺の人達により川がしっかりと守られていることがよく分かった。四万十川は一見するだけの値打ちがあった。
(日記:別府で地獄巡り。その後、佐賀関港からフェリーで四国の三崎港へ。四万十川沿いに四万十市中心市へ。午後7時半にホテルへ入る。)
特産品作りとSさんとの再会(6日目)
梅栗植えてハワイへ行こう“梅栗植えてハワイへ行こう”を合い言葉に、梅を中心に特産品作りで成功している日田市大山町(※)の道の駅「水辺の郷おおやま」を訪ねた。店内には野菜やたくさんの加工食品が並び、食堂では地元野菜によるバイキングもあった。
店員に店の況を尋ねたところ、事業部部長のK氏を紹介された。k氏から大山町の取り組みについていろいろ聞かせていただいた。とても参考になった。
その後「響きの里」を紹介していただいた。途中の道路の両側は梅の木がたくさん植わっていた。しばらくして、「響きの里」に到着した。温泉あり、宿舎あり、食堂ありの憩いの場であった。
画家佐藤さんを訪ねて
次に、勝山出身で日田市天瀬町に嫁ぎ、画家をしておられる佐藤さんを訪ねた。そして、色々お話を聞かせていただいた。佐藤さんは、中国でも個展を開催するなど日中友好にも大いに貢献しておられる地元の名士であった。嫁ぎ先は浄土信州の寺院であり、佐藤さん自身も布教活動をしておられるとのことであった。
今日は勉強になった一日だった。
(※) 大山町 大山町では、政府がまだ米の増産を推進していた1961年に、米作には不適な山地の地理的特性を生かして、作業負担が小さく収益性の高いウメやクリを栽培し、さらに梅干し等に加工して付加価値を高めるNPC(New Plum and Chestnut)運動を開始した。「梅栗植えてハワイに行こう!」というユニークなキャッチフレーズで知られるこの運動は、農家の収益の向上に寄与し、大山町は全国で最も住民のパスポート所持率が高い町になった。この運動は、後の一村一品運動の原点としても知られている。
(日記:長崎を9時過ぎに出て、日田市へ。大山町と天瀬町に立ち寄り、別府へ到着。)
修学旅行の生徒で賑わう長崎(5日目)
長崎の二つの顔
長崎には二つの顔があるように思う。
まず一つは、日本の近代化のスタート地点である。グラバー邸や出島などがそれであろう。異国情緒が漂うまちである。この地で幕末の志士たちが出会い、活躍したまちであり、それらを多くの外国人が理解し、支援したまちでもある。
もう一つは、世界で最後の被爆国であり平和に特に関心のある都市である。平和公園や長崎原爆資料館平和祈念像がその象徴であろう。平和ぼけしている私達に平和について考えさせてくれるまちである。
鹿児島や土佐、長州は、外国の状況について常に最先端の情報を入手することができる地域であった。しかしながら、20世紀になってからは、世界の状況をしっかりと見つめることができる人材が少なかったということであろうか。無謀な戦争のために多くの人達の命が失われたことを思うと心が痛くなる。
改めて“事を成すのは人である”と感じた
一日だった。修学旅行生が多いのもそのためだろうか。中学生、高校生にたくさんであった。また、外国人とも多く出会った。特にアジア系の人達の多さが目に付いた。
(日記:朝、熊本を出発し、長州港から多比良港までフェリーで渡り、長崎へ。ホテルの駐車場へ車を預け、電車で街中を移動。中華街、大浦天主堂、グラバー邸、平和公園、原爆落下地点の公園、長崎原爆資料館、出島、そして長崎まちなか龍馬館を見学。よく歩いた一日だった。)
気になる廃屋(4日目)
野生馬のいる都井岬へ
鹿児島を出て志布志を経由し、野生馬のいる都井岬へ。あちこちで野生馬がのんびりと草を食べている。太平洋がよく見え気持ちが大きくなる。
新婚旅行のメッカ、今は
続いて南国の香りのする宮崎、青島へ。途中で一人の高齢者と会う。この人は、以前、宮崎に住んでいたが今は熊本に住んでいるとのこと。「昔は、新婚旅行のメッカでとても賑わっていたんだが、今はだいぶん寂れてしまった」とさみしそうに話した。
東国原知事は宮崎を盛り上げていることが現地ではよく分かる。似顔絵が至るところで見られるからである。ポスター、看板、お土産の包装などに似顔絵が溢れている。
気になる廃屋 その後霧島神宮へ立ち寄り、熊本着。この数日間を通じて感ずることは、廃業により廃屋となった店舗がいたるところで目立つことだ。特に観光地の土産物屋や食堂、観光施設。高速道路のガソリンスタンドまでもが放置されている。
日本の歪みのようなものが散見できて気が重くなる。民間は利益が上がらなければ廃業に追い込まれる厳しさがある。公務員と名のつく者の踏ん張りを期待したい。
薩摩スチューデント(3日目)
平和を願う-知覧特攻平和会館にて
午前9時宿舎を出て鹿児島湾(錦江湾)の最南端の長崎鼻へ。そこから見える開聞岳は最高に綺麗。
次に知覧特攻平和会館へ。若くして命を落とした隊員たちの無念さを思うと胸が痛む。いつまでも平和を守らねばと心に誓う。
続いて「知覧武家屋敷」を見学。午後は鹿児島市内見学。
人材育成に力を注いだ薩摩藩“維新ふるさとの道”を歩き、「鹿児島市維新ふるさと館」 を見学。薩摩藩が人材育成のためにイギリスに留学生を送った史実を映像で見て感動。薩摩藩の先進性と人材育成にかける意気込みに感動する。イギリス人達から「薩摩ステューデント(※)」と呼ばれた向学心の強い留学生のその後の活躍に感銘を受ける。
その後、近代化産業遺産も残る島津家の別邸などを見学。終日桜島が見え、鹿児島にいることを実感。さらに、時々噴煙が空高く舞い上がり驚き。感動の一日だった。
(※)薩摩スチューデントとは 薩英戦争を戦って、攘夷の不可能を悟った薩摩は、1865年に島津久光の意向で、国禁を犯して19名の日本人をイギリスに派遣した。その薩摩藩派英の留学生(15名)のことを、薩摩スチューデントと呼んだようだ(残り4名は引率役など)。 生徒の中には、森金之丞(後の外務卿・初代文部大臣・森有礼)、松村淳蔵(後の海軍中将)、畠山丈之助(畠山義成・東京開成学校-東京大学の前身-の初代校長)などになった人物などがいる。
この19名が、グラバー紹介のイギリス人に案内され、イギリスへの船旅をする訳である。
生徒らは船の中で勉強しながら旅を続けるのだが、途中の寄港地では、ホームに連れられて観光にも出かけたりする。 その寄港地で生徒たちは、時には植民地支配者的なイギリスの傲慢さを見たり、時にはイギリスがそれらの港や植民地に建造した施設などをみてその瞠目すべき工業力の偉大な力をみたり、また時にはイギリスが国内や植民地に布いた進んだ制度などに尊敬すべき点を見出したりする。
乗船当初には攘夷思想をまだ持っていた者までも、百聞は一見に如かずで、攘夷などできる訳がないと思うようになる。そしてサウサンプトンから機関車で最後の移動を終え、目的地のロンドンについてからは、藩父たる久光の意をくんで、皆は成果をあげようと益々心を引き締める訳である。
本土最南端の佐田岬へ(2日目)
本土最南端
午前8時55分にサンフラワーで志布志港着。
せっかく九州へ来たのだからと一路車で本土最南端の佐田岬へ。風雨は激しかったが、展望台からの眺めは素晴らしく、ほぼ300度の範囲で太平洋が見渡せた。さすがは九州の突端である。
桜島経由で指宿へ 砂むし風呂体験
続いて桜島経由で反対側の指宿へ。
ここで砂むし風呂を初体験。二人の男性がスコップで縦長の穴を掘り、そこへ身体を横たえる。身体全体を砂で覆う。砂って意外と重いものだ。じんわりと汗が出てくる。
汗と砂まみれの体をシャワーで流して命の
選択。九州の旅2日目は温泉宿で大満足。明日はどんな旅になることやら……。
サンフラワー乗船(1日目)
さあ、出発
勝山を午前10時に発ち、午後3時に大阪南港着。午後4時にマイカーと共にサンフラワーに乗船。午後5時に鹿児島志布志港に向けて出航。久しぶりののんびりした船旅。風の吹くまま気の向くままの二人旅。ただいま充電中。帰ったらあれもしたい、これもしたいと少しずつやる気が……。