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DREAM and ACTION

14 8月

甥の中学二年生の息子に
 朝早く、大阪から福岡に住む妹の長男家族(大阪在住)が、お盆のお墓参りのためにやって来た。そして、我が家へ立ち寄っていった。勝山にいた頃にはよく我が家へ来た甥だが今では家族を持って大阪で頑張っている。

朝早くお墓参りにやって来た甥とその家族。

朝早くお墓参りにやって来た甥とその家族。

 中学生の子ども達も一緒に勝山まで来て父親の実家と母親(私の妹)の実家の墓へ参りに来たのだ。若いのに偉いと思う。雑談をしていたが、何か心に残ることをと思って実話を挿入しながら、“DREAM and ACTION”という言葉をメッセージとして送った。

 考えてみれば、中学生の前途は洋々としたものである。かつて私は、授業に出向いたクラスの男生徒に“DREAM and ACTION”とメッセージを送ったことがある。その後、彼は大学へ進学し、外資系の会社に務めたが、その後渡米して会社を起こしたのである。

 “夢を持ち、それに向かって地道に努力すればいつか夢に近づく”と私は信じている。たとえ夢が実現しなくても、夢に向かって努力した日々は充実していると思う。

長男、長女の家族とお墓参り。みんなこんなに大きくなりました。

長男、長女の家族とお墓参り。みんなこんなに大きくなりました。

 そんなわけで、甥の息子にこの言葉を贈ったのである。いつか、何かのときに、この言葉を思いだして頑張ってくれればと思う。もちろん、その妹にも、甥屋その妻にもこの言葉を贈ったつもりでいる。それと同時に、私自身への励ましの言葉にもなっている。ひとたび、他人に向かって口に出したからには……。

(日記 午前8時頃だろうか、甥の家族がお墓参りになってきた。夕方、長女夫婦も我が家へやって来て賑やかな一日となった。私は、午前午後とも、寸暇を惜しんで数学の参考書作り。夜は長男お嫁の作った餃子で夕食。酒を飲みながらに賑やかな夕食となった。正にお盆である。みんな泊まっていった。)

夜は道路に椅子を並べて孫達と遠くの花火を見た。

夜は道路に椅子を並べて孫達と遠くの花火を見た。

 
 

夏の寒さ、冬の暑さ……エネルギーの無駄遣い

13 8月

どんな格好で東京へ行けばいいのか
 昨日から、家内と二人で東京へ行き、娘のアパートで泊まった。行く前から考えていたことは、どんな服装で行くかだった。それはファッションのことではない。

上は、四人で買い物に出発。埼玉県若葉駅にて。下は新宿界隈を歩く娘と家内達。

上は、四人で買い物に出発。埼玉県若葉駅にて。下は新宿界隈を歩く娘と家内達。

 それはクーラーの効き過ぎによる寒さ対策だった。行く前から、考えていたことは、「新幹線はきっと寒いだろう」ということだった。そこで、私は、長袖のシャツを着ていくと決めた。案の定、新幹線は寒かった。

 家内は、マフラーを首に巻き、その端を半袖の先の腕に羽織っていた。東京駅の構内は人が多くてとても暑かった。しかし、ひとたび、建物の中へ入ればそこでは冷房が効いていて、涼しい。

 とか鉄なども、場所によっては、冷房が効きすぎていた。非常に暑いところと、冷房が効きすぎていて寒いところが混在していた。

 冬は逆である。外は寒いだろうと思って、ヒートテックに首のしまったセーターなどを着ていったら大変だ。建物の中や電車の中は暖房が効いていてとても暑い初。汗が背中を伝わるのがわかるくらいである。そんなわけで、今では、夏は寒さ対策をして、冬は暑さ対策をして出かけることにしている。それにしても、もったいない話だ。エネルギーの無駄使いも甚だしい。

(日記 東京、正確には埼玉の自助のアパートで目を覚ました。午前9時頃、アパートを出て、結婚に必要な家具や電化製品を買うために、新宿界隈へ出かけた。娘とその相手と一緒だった。昼食を3時頃食べるほど忙しく歩き回った。そして、午後6時半の「新幹線ひかり」で東京を発った。自宅へ着いたのは、5時間後の午後11時半過ぎだった。風呂へ入って寝たのは、翌日になってしまっていた。疲れた一日だった。)

 
 

立体都市・東京

12 8月

もし地震でも……
 家内と二人で東京へ出かけた。次女の結婚準備のためだ。先ずは「越鉄」で福井へ。そして、米原経由で新幹線で東京へ。さらに、新宿まで行って外へ出た。

左は「ヒルトン東京」、右は東京都庁、両者は近くにあった。

左は「ヒルトン東京」、右は東京都庁、両者は近くにあった。

 道路も鉄道もまちも立体的だ。エスカレーターで上がったり下がったり。たくさんの人が行き交っている。一人の人間なんてちっぽけだなあと思ってしまう。

 新幹線やビルの中は寒いほどクーラーが効いているが、地下や表通りは暑い。やはり夏だと思ってしまう。暑い中をエスカレーターで地下へ下りていく。もしもここで地震が起きたらどうなるのだろうか。

 過密都市・東京と過疎に悩む地方。これだけ複雑に入り組んでいると、建物や道路や鉄道等の耐震工事は大丈夫だろうか。見知らぬ人たちの集団が、うまく避難得きるのだろうか。

 もう少し、人間の知恵を働かせてこのアンバランスを改善できないのだろうか。近い将来、関東地方に大きな地震が起こる可能性があるという。不安な気持ちを抱えながら、東京都内を歩いて用事を足した。

夜は新郎父子、私たち親娘の5人で楽しく過ごした。(新郎となるOさんの父が料理長を務める東京駅の居酒屋にて)

夜は新郎父子、私たち親娘の5人で楽しく過ごした。(新郎となるOさんの父が料理長を務める東京駅の居酒屋にて)

(日記 午前9時過ぎに自宅を出て東京へ向かった。次女の結婚のために打ち合わせなどをするためだ。最初に式場となる「ヒルトン東京」へ出かけ、遠方から来る申請や子どものホテルを予約した。ホテルは、東京都庁の近くだった。東京都庁の大きさに圧倒された。夕方は、夫となるOさんのお父さんが料理長を務める東京駅の「居酒屋」でご馳走になった。私達夫婦、娘、Oさん父子の4人で3時間、食べ、話し、楽しい時間を持つことができた。夜は、娘のアパートに泊まった。今日だけで1万数千歩歩いた。疲れた一日だった。)

 
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「歌う」という宿題

11 8月

どうせ歌うなら楽しく
 横浜の小4の孫が、帰省して2週間が過ぎた。いろんな宿題を持ってやって来た。その中に少しだけ私の宿題もある。算数と国語の問題だ。学校の宿題の中には「読み聞かせ」や「歌を歌うこと」が入っている。

 その歌とは、『ゆかいに歩けば』と英語で歌う『エーデルワイス』だ。「エーデルワイス」の発音も「エードゥルワイス」と発言するように習ったらしい。しかし、孫が一人で歌っているだけでは盛り上がらない。

孫を中心に、学校の宿題の『エーデルワイス』や『ゆかいに歩けば』を歌う家内と息子の嫁。みんなで歌えば楽しくなる。

孫を中心に、学校の宿題の『エーデルワイス』や『ゆかいに歩けば』を歌う家内と息子の嫁。みんなで歌えば楽しくなる。

 そこで、家内と,息子の嫁に「歌を宿題と感じないで、楽しいものと感じさせるために、一緒に歌ってくれ」と頼んだ。所々は、孫のソロにし、みんなで大きな声で歌った。

 子どもの宿題だが、「させられるのではなく、楽しんでする」ようにするには、周りの大人達の関わり方である。歌ばかりでなく、漢字の練習でも、周りの大人が、一緒に学べば子どもも気持ちが変わるのではなかろうか。

 国語の読み聞かせの宿題もあるが、真剣に聞いていると、子どもたちも張り合いが出てくるのではなかろうか。そんな気持ちで孫の宿題に関わっていきたいと思う。夏休みも後半戦に入りかけている。勝山でよい思い出をいっぱい持って帰ってほしいと思う。少しでも成長してほしいとも思う。

(日記 午前中、歯医者へ行った。通院に時間を取られるのは悲しいが自業自得だから仕方がない。その後、生け垣の伐採。そして、家内とお墓の掃除をした。午後は、孫の学習を見ながら、数学。夕方は家族で孫の宿題の歌を歌う。あっという間に一日が過ぎた。)

 
 

少子化対策に思う

10 8月

政府の少子化対策で子どもが増えるのか
 少子化は将来の国の存亡に関わる大問題だとの認識は誰もが持っているように思う。高齢者は増える一方で、それらを支える働く世代は減る一方である。年金は破綻するだろうし、国の経済発展も望めないだろう。様々な予測でも、地方は衰退するどころか、消滅の危機さえあるとの予測が出ている。

 国でも少子化担当大臣を設け、少子化対策を進めているが成果はほとんど見られない。国の対策で果たして少子化化が改善されるだろうか。いつも思うことだが、国会での少子化担当大臣の答弁を聞いていると、そんなことで本当に少子化が改善されるのかと思ってしまう。

 そもそも、「子どもがたくさん生まれた時代」とはどんな時代だったのだろうか。私の周辺を見ると、男性は働きに出て、家庭には女性や高齢者(祖父母)が家事や農作業をしていたように思う。子どもたちは、兄弟や地域の異年齢の子どもたちと接し、地域の高齢者などが見守る中で育っていったように思う。子どもをみんなで育てたので、かつては「子育て」という言葉もなかったのではないか。また、車やテレビ・洗濯機などの電気製品もなく、生活レベルはそんなに高くはなかったように思う。このような環境の中では、子どもの一人や二人、増えても家計にはそんなに影響がなかったのではなかろうか。

 ところが、今は子育てのベースとなる家庭や地域社会が弱体化し、あるいは崩壊して、子育ては大変な作業である。子どもを預かる保育所や児童館があればよいというような単純なものではない。核家族の中ではこうした施設があれば子どもを安心して育てられるものではない。

 日本は世界でもまれな残業大国である。特に男性は残業が当たり前である。このままでは女性だけで安心して子育てなどできるはずがない。この点を改めることではなかろうか。その上、女性の社会進出が望まれているが、労働力不足を補い、低賃金で長時間残業を女性にも求めているのではなかろうか。女性の男性化と言えなくもない。こうなると、家庭が子育てを放棄せざるを得ない時代になるのは必然ではなかろうか。このような状況でたくさんの子どもを育てることなどできるはずがない。よほど本気にならないと移民に頼るしか道はなくなってしまう。

(日記 機能で、ようやくこの夏やるべき課題は終わった。残るは個人的な課題のみである。午前中はもっぱら数学。午後は久しぶりに昼寝。その後も、数学。あっという間に一日が終わってしまった。夕方、福井の孫達は帰って行った。代わって横浜の孫達が戻ってきた。久しぶりに孫(長女)と川になって寝た。)

 
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ワークの夏祭り

09 8月

久々の和太鼓
 大方の楽器は『九頭竜ワークショップ』の方々が運んで下さった。そこで、私は、自分の軽トラックに一番大きい大平太鼓とその台を乗せて会場へ向かった。玄関でワークのスタッフの方々が太鼓を車からおろして下さった。

『九頭竜ワークショップ』の夏祭りで和太鼓演奏

『九頭竜ワークショップ』の夏祭りで和太鼓演奏

 控え室で夕食。7時過ぎに、舞台袖で準備。7時15分頃、舞台でセッティング。そして、7時30分から演技開始。会場の人たちも真剣に見て下さったのでやりがいがあった。

 なるべく変化に富んだ曲を演奏したいと考え、担ぎ桶胴太鼓による曲、普通に長胴太鼓を置いた曲、チャッパ(小型シンバル)のみの曲、そして、最後に6分ほどの組曲を演奏した。

 実は、この『九頭竜ワークショップ』には、1月にも来て演奏しているのだ。十数年前には、数年間、「職員チーム」、「入所者チーム」に和太鼓を指導すているのだ。そんな関係で、「帰ってきた」という感じがしないでもない。かつて指導した入所者とも再会した。

 演奏の後、控え室まで来て「よかったよ」とか「ありがとう」と、礼を言うために来て下さった。練習してよかった、和太鼓をしていてよかったと思う瞬間である。職員の方々に楽器を運んでもらって今日の出番を終えた。メンバー全員で楽器を片付けて今日の出番を終えた。

(日記 午前中いっぱい、紙芝居の手直しと練習。完全に寝不足であった。午後2時過ぎに大野市の誓念寺保育園の夏祭りに紙芝居をするために出かけた。午後3時頃から創作紙芝居『こすずめチュン太~ボクにげないよ』を演じた。帰宅してから今度は『九頭竜ワークショップ』の夏祭りで和太鼓を演奏するために準備をして午後5時半過ぎに自宅を出発。午後7時半に雨天のため体育館で和太鼓演奏。忙しいが充実した一日だった。)

 
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深夜まで創作紙芝居の仕上げ

08 8月

もしも明日時間があたら
 そう思って,未完成の紙芝居『野菜ロボット・ベジタ』の仕上げにかかった。ほほ9割以上仕上げてあったのだが、データがどこかへ行ってしまって、6割ほどの完成率だった。これを何とか明日までに仕上げようと取りかかった。

 

創作紙芝居『野菜ロボット・ベジタ』の一場面。

創作紙芝居『野菜ロボット・ベジタ』の一場面。

パソコンのデータ整理は本当に難しい。私の場合、完成した画像と共に、一度使った絵を部品として保存してあるのだ。この人物の画像が、もしかしたら数百枚あるかも知れない。背景などもたくさんある。まるで、劇場の楽屋のようだ。

 というのは、同じ一人の人物でも、喜怒哀楽、種々のポーズを考えると十数枚になる。僧侶もいれば侍も貴族も庶民も、今風のジイジもバアバも子どももたくさん保存してある。

 表情を変えたり、衣装を買えたり、場合によっては着物の柄を変えたり、それば新たな人物になる。しかし、新たに登場するキャラクターやロボットなどはゼロから描かなければならない。しかし、次回からのストックにはなる。

 手や足の向きや動き、ポーズで描きにくいモノは、家内にポーズを取ってもらってそれを見て描いている。それにしてもあちこち直しているうちに、午前1時半過ぎになってしまった。それから風呂へ入り残りは明日にすることにした。

(日記 午前、午後共に創作紙芝居の絵描き。ほとんど机にかじりついてパソコンを見ていたので目が疲れ、腰も痛くなった。でも、完成の見込みがついた。)

 
 

絵入りで数学参考書

07 8月

作る価値があるのか
 今、数学の参考書を作ろうとしている。かける時間は膨大だ。しかし、田舎者の私(“いなかもん”は私の創作時のペンネーム)の私が作ったモノを誰が読むのだろうか。

 「作る価値があるのか」と自問自答することがある。私の手元には百冊以上の参考書がある。そして、今でも買い続けている。どれも似たり寄ったりで新鮮みはそんなにない。

私の数学参考書に登場するキャラクターの高校生達。この6人の喜怒哀楽の顔が揃えてある。

私の数学参考書に登場するキャラクターの高校生達。この6人の喜怒哀楽の顔が揃えてある。

 そうしたモノの仲間入りをしても何の価値もない。ただ、それらと似たものを私が作る意味もない。高校生の役に立って、今までにないものを作るとなると簡単ではない。

 私の作っている参考書は基本中の基本となる“重要例題”で作られている。それぞれ例題の直後に、高校生と私の会話を挿入している。文字だけでは、読みづらいだろうと思って高校生6人の顔を入れている。

 6人のキャラクターが語る重要例題についてのコメントが一つの売りのつもりでいる。それと、最後のまとめとなる“セオリー”(それをごく短くまとめた5・7・5の単文)が売りのつもりでいる。ヒントなども付けているが、これはどの参考書にもある定番のものだ。膨大な時間がかかっているが、高校生達に少しでも役立てばと思って取り組んでいる。

(日記 終日、参考書作り。横浜の孫達は息子の嫁の実家へ。昨日の午後やって来た福井の孫達は、家の中を元気に駆け回っている。夏休みの我が家は賑やかである。)

 
 

雑草との我慢比べ

06 8月

作物が育てば雑草も育つ
 昔の稲作は機械がなかっただけではなく、肥料や除草剤などの農薬がなかったので普段の作業量は現在とは比較にならないくらいの多さだった。そんな中の一つに雑草対策がある。畑の草取りはもちろんのこと、田んぼの草取りも重労働だった。

 歩きにくい田んぼの中を素足で歩き、常に前かかみで、虫除けの「かんこ(ぼろなどを藁で縛り、火を付けて腰にぶら下げて出てくり煙で虫除けにした)」をぶら下げ、田んぼの中を這い回るように作業をするのだ。主に女性の作業だったが、腰の曲がる原因の一つでもなかっただろうか。

 家の周辺もまた草が生える場所だった。今は、草刈り機があり、除草剤があり、防草シートや黒マルチがある。それでも、雑草対策には苦労するのだ。昔の人のすごさが雑草対策一つとってもよく分かる。

私の知っている人にも、黒マルチを使わなかい人がいるが、畑は雑草が生えて大変そうだ。人の何倍も除草作業をしなければならない。涼しい時期ならよいが、夏まっさかりの今の時期なら早朝しか除草作業はできないだろう。

おまけに、昔は自宅で農耕用に馬や牛を飼っていたので、それらのえさとしての草刈りもあった。草との付き合いは不可欠だった。今は、舗装道路や街路樹の根元にも雑草が合えているのをよく見る。不毛の砂漠では困るが、辺り構わず生えてくる雑草にも、当分の間は悩まされるだろう。 

(日記 午前7時過ぎより、田んぼの畦の草刈り。本当は早朝の涼しい時間帯にやりたいのだが、我が家の田んぼの周辺には住宅があるのでそれができない。騒音公害になるからだ。太陽が出てきたので作業を止めて帰宅。それでも、全身汗でずぶ濡れ。シャワーをしてようやく落ちついた。孫呉、孫の学習を見ながら数学。午後も作業を継続。夕方、Y君がパソコンの不具合を見に来てくれた。おかげで私と家内のパソコンの不具合が改善された。午後7時から、和太鼓の練習。長女も福井から子ども(孫)を連れて参加。孫5人が我が家へ集まった。騒々しいくらいの賑やかさだった。)

 
 

孫達と海水浴

05 8月

安全第一で

海水浴場でのスナップ。みんな楽しそうだった。私はカメラマン。

海水浴場でのスナップ。みんな楽しそうだった。私はカメラマン。

孫達が横浜から帰省して約10日が経った。今は、息子の嫁と孫達3人が我が家で夏休みを過ごしている。息子達が、海水浴を計画したが、その日は天候が悪く、中止となってしまった。そして、息子は横浜へ帰っていった。

代わりに我々夫婦が、孫達を連れて海水浴に行くと決めた。大人3人、子ども3人での海水浴だ。先ず一番に考えるのは、完全だ。行き帰りの車、そして、海での泳ぎなど、危険はどこにでもある。

午前9時頃自宅を出発して、「たかす海水浴場」へ向かった。太陽は出ている時間が多かったが、風はとても強かった。浮き輪など、風に飛ばされたら、風に流されて泳いでも採りに行けないような状況だった。

海岸からあまり離れないで、子どもたちは浮き輪を使って遊んでいた。こちらは、波にさらわれないかと気配りしながら、波と戯れていた。夏には一度は海へ行かなければと我が子が小さい頃からずっと海水浴を行ってきたが、今はその孫達との海水浴だ。

平日だったので、浜茶屋もそんなに人がいなくて、のんびりできた。午後4時過ぎに帰ることに決めたが、2歳の孫が海から離れたくないようであった。孫達はそれなりに楽しんだのではないかと思う。孫のおかげで、今年も、私たちは海水浴ができた。無事帰れてよかったと思った一日だった。

(日記 午前9時に、自宅を出てたかす海水浴場へ向かった。海でゆったりと過ごし、4時過ぎに浜を出て自宅へ向かった。今年も、無事、海水浴を終えることができた。孫達のおかげで楽しい一日を過ごすことができた。)