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Archive for the ‘未分類’ Category

新緑の中で田植えの補助員

07 5月

当番同志の交流
  今日は、「農事組合法人かたせ」の前期の田植え当番として、午前8時に農舎へ向かった。私の軽トラには肥料や除草剤などを積み、別の軽トラ2台には苗を積んで指定された田んぼへ出向いた。

  オペレーター1人、田植え補助員4名の計5名が毎回1チームになって、1日田植えをするのだ。今日のオペレーターは40歳代だが、補助員は83歳、79歳、69歳(私)、68歳の4人だ。

  でも、仕事では皆現役のつもり。補助員の仕事は、田植機に、苗、肥料、除草剤などを積み込むことだ。苗は専用のハウスに、肥料などは農舎にあるので必要に応じて運び、それらを田植機に補充するのだ。

  でも、多少時間に余裕があるので、雑談をすることもできる。それが楽しいのだ。83歳の人は私にとっては生きた郷土歴史家だ。昔の米作りの話を聞いていると先人の苦労が忍ばれ、本当に興味深い。

田植えを終えて農舎へ戻ってパチリ。(左が私)

 話を聞いていると、昔の米作りは有機農業だったなあと感心する。肥料としては、例えば、山へ行き、草や木の枝を刈り取って、それを田んぼに埋めたらしい。

 2人が一組になり、1人は草や小枝を運び、1人がそれを手や足を使って田植えした田んぼに埋め込むというのだ。草は、そのままにしておくが、葉っぱが落ちた木の枝は田んぼから引き上げたということだった。

 その他に、油を絞りとったニシン(魚)や豆の粕も米作りの肥料として使われたらしい。このほか、馬小屋に敷かれた藁や馬糞も堆肥として田んぼにまかれたという。

  米作りには、化学肥料ではなく、ほとんどが有機肥料だったというのだ。こうして作られた米を食べて育った人たちが現在の高齢者だ。これからの高齢者がはたして今までのように長寿でいられるのだろうか。

田植機が田んぼの深みにはまり込み、トラクターで救出。そして作業続行。

  今日は主に「米作り」について年長者に聞かせていただいたが、このようにいろんな興味深いことがことが高齢者から聞くことができるのだ。以前に、高齢者の方々からいろんな話を聞かせていただき文章化したことがあるが、もう一度試みたいと思った。

  このように昔の生活についての話が聞くことができるのは、共同作業のおかげだ。これからも、健康である限りこうした作業に参加して、いろんな人達と交流したいものだ。

(日記 午前8時から午後6時まで『農事組合法人かたせ』の田植え補助員として働いた。新緑の中、汗を流しての仕事はとても爽快だった。夕食のビールがとても美味かった。)

 
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GW終わる

06 5月

今は「出かけないGW」
  現役時代には、GWと言えば「子ども達を連れてどこかへ出かける」ことが常だった。休みが終わると疲れが出たものだ。それと同時に、「明日からまた仕事か」と、気合いを入れなければならなかった。

道ばたに生えているワラビ。

  今は、子ども達やその家族がやって来てその相棒をしたり、家庭菜園作業を行ったり、山へ山菜を取りに行くのが一番ベストな過ごし方だと思っている。遠出はGWが終わってからでよい。

 そんなわけで、今日も家内と一緒に裏の山へ山菜を採りに出かけた。主にワラビだが、タラの芽と蕗(フキ)も少し採った。私は山菜の中では蕗が一番好きだ。ニシンを入れた蕗の煮物は毎日食べても飽きない。

 GWの期間中、これで三度目だ。毎回、たくさん採ろうとは思わない。新緑の山道の途中から見える町並みやきれいに区画された田んぼはとてもきれいだ。

 山菜は短期間にたくさん食べるのは身体に良くないように思う。そこで、保存するのだが、今のところゆでて冷凍するのが一番よいと思っている。塩漬けもよさそうだが何かと面倒だ。

  最近新しくした冷蔵庫には瞬間冷凍機能が付いている。一気に冷凍させた方が食物の細胞が壊れ難いらしい。そして,凍ったら冷凍庫で保存するのだ。

頂上へ行く途中の道から見える村岡山と恐竜博物館。

  もうしばらくしたら、一、二度はふきとりにでかけたいと思う。煮物以外では「きゃらぶき」にして保存しておくのもよい。まさに、山は私のふるさとでもある。

(日記 午前中、創作紙芝居『ナマズのテツ』の最後の2枚の絵を描いた。全部で27枚の絵になった。明日は脚本の校正をして、練習開始だ。毎日少しずつ描いていれば完成するものだ。午後は家内と二人で裏山へ山菜採りに出かけた。まあまあの収穫があった。子どもや孫と過ごし、紙芝居の絵を描き、山菜採りに出かけているうちに今年のGWは終わった。)

創作紙芝居『ナマズのテツ』のトップページ。

今日の収穫の山菜。

 
 

きれいな村をつくれるか

05 5月

第2回片瀬区各種団体合同委員会
  村の役員と各種団体長の集まりである「各種団体合同委員会」を開催した。主なテーマは来る6月2日

事務所の花の前で一休み。

に開催される区民運動会をいかに開催するかだが、毎回、みんなでまちをきれいにしましょうとも呼びかけている。

  区の運動会においては、区民の皆さんに喜んでいただくために、わずかでもよりよい方向に改善していこうと呼びかけた。去年のままでは進歩がないからである。

  私は、今、区民の力で村をきれいにしていきたいと思っている。命令ではなく、きれいにすることがこんなに素晴らしいことかと実感していただきたいのだ。

  少しきれいにするともっときれいにしたくなるものである。きれいにすればするほど、汚いところが気になるからである。さて誰がどこから始めるかが問題だ。

突然我が家へやって来たK君とその家族。

  私は、もう何年も、花を植えるならばせめて少しは表通り(道路に面したところ)に植えたいと思って実践してきたところである。道行く人も自分も気持ちがいいからである。こう思って事務所でも実行している。

  今、村の人達にも呼びかけているところである。区民運動会でもプランター作りができないかと考えている。「四季折々花のさくまち作り事業」に名乗りを上げている。いくらか花代が出るからである。

 成否は、区民の皆さんに「花を植えることはとても気持ちのよいことだ」と実感してもらえるかどうかである。通り一遍の義務的な運動では長続きしない。「村のどこを歩いてもきれいな花が咲いている」-そんな村を目指している。

  成果を急ぎすぎても駄目だと思っている。息の長い運動になりそうだ。しかし、この運動が子ども達に引き継がれていくことを祈るばかりである。

  自分の屋敷周り(道路に面した部分)に少なくとも一本花を植えることはそんなに難しい問題ではない。そして一本が二本に、二本が三本に増えていけばと思う。

二人の娘と孫達と自宅前でバーベキュー。

(日記 午前中、創作紙芝居の表紙と終わりのページの絵を描いた。9割以上完成したことになる。あと少し推敲して絵と脚本を完成させたい。午前中、妹の息子のK君の家族が我が家へやって来た。両親の先祖のお墓(我が家のお墓も)へお参りしてきたのだという。K君は、幼児期は勝山で育ち、その後福岡で育ったのだ。時々勝山へやって来る。子どもの日なのでこれから子ども達の楽しめる所へ行くのだという。私は、太鼓のメンバーのSサンとフラダンスの振り付けについて研究するために事務所で会った。Sさんとは約1時間練習して振り付けの研究を終えた。6月2日にはフラダンスを初披露するからだ。私は、そのときハワイアンギターを弾けたらと思っている。午後は、帰省中の次女と長女と自宅前でバーベキュー。午後7時半より、「区の各種団体合同会議」を開催。その後、引き続いて「区の役員会」を開催。最後に、体育委員の話し合いに参加。午後11時帰宅。)

 
 

マリオネット政治

04 5月

決められない政治・勝手に決める政治
  マリオネットは、人形劇で使われる操り人形の一つであり、特に糸で操るものをさす。この操り人形についている糸を、もし数人の人間が扱うとしたらどうなるだろうか。

  それも、それぞれの糸を扱う者が自分勝手に糸を操ったらどうなるだろうか。人形はまともな動きができないであろう。右足を前へ進めようと動かす者と、左足を後ろへ動かそうとする者が同じ一つの人形を扱ったとしたら人形はどちらへも進めないであろう。

  今の政治の状況を見ていると、思わずマリオネットを思い出してしまう。様々な団体の支持を得て当選した政治家を寄せ集めて一つの党として組織した場合には、進む方向は簡単に決められない。

 TPPの問題では、与党も野党も賛否が入り交じっている。賛成の者と反対の者が同居した政党がいずれかの方向に進むことは簡単ではない。

  そこへ、常に天下り先を確保しようとする官僚達は、国家よりも自分たちの利益、省益を優先させようと画策しているように思われる。

  結局、与党はみんなにいい顔をしようとすると“ばらまき”しか選択肢はないことになってしまう。国家財政は危機に陥るのは当たり前であろう。

  いつも与党は、困難な問題を全て先送りをしている。これで国民に信頼される内閣を作ることができるのだろうか。国民が納得する政策を実現できるだろうか。

  原発の再稼働問題も、どこかの誰かの意志で動こうとしている。原発という操り人形についている糸を様々な思惑の人間が引っぱっている。

  「再稼働」のための論理を組み立てても、次から次へとその論理が崩れてしまう。今や、「関西電力の電力は夏場には不足する」と関係者から言われても、今や誰も信用しないであろう。

  電力が不足するから原発は再稼働だという論理はすでに破綻している。誰かが右へ行こうとすると、それによって利益を失う者は左へ行けという。

孫達と「あっ宝んど」へ入浴に。

  もしもこの夏、原発なしで乗り切ったら、政府や専門家と言われる人間はどのように弁解するだろうか。「原発がなくてもいけるではないか」と思わせたくない連中がたくさんいる。自民とのKさんは「原子力ムラ」の住人だという。私もそう思う。

  信念のある政治家が今求められているのではないか。本当のエリートが求められているのではないか。点数エリートではこの難局は乗り切れない。いでよ!平成のリーダー!

(日記 午前中、区の用事で外出する。その後、いつものように創作紙芝居の絵を描く。もう少しで完成だ。昼頃福井の孫がやって来た。一緒に「あっ宝んど」へ行く。そこで、元同僚のHさんと会う。いろいろ近況を話し合った。彼は音楽の専門家だ。いつか自分の作った歌を吹き込んでもらいたいと思う。)

 
 

「東山キャンプ場」開山式

03 5月

残雪のキャンプ場
   女性だけの左義長グループ『ほほえみ太鼓』のメンバーに誘われて、「東山キャンプ場」の開山式で行われるアトラクションに参加した。 

開山式で行われた『ヨサコイ左義長』。会場の皆さんも鳴子で参加した。

   東山キャンプ場には、約100人の宿泊客がバンガローやコテージ等に宿泊するということであった。開山式では、県会議員、市会議員、市の農林部長などが参加して祝辞を述べた。

  その後、まず最初に、CDの音楽に合わせて『ヨサコイ左義長』が演じられた。観客には鳴子が渡され、全員で盛り上げながら左義長太鼓が打たれた。

  その後、生演奏による『左義長ばやし』が演じられた。私は、正式に左義長ばやしを習ったことはないが、勝山で和太鼓を教えているので、左義長太鼓も勉強したいという思いがあり、参加した。

  「おかめ」と「ひょっとこ」で左義長ばやしを演じるメンバーもいるので、私は「片瀬豊年ばやし」の衣装で老人の面を付けておもしろかしく左義長ばやしを演じた。

アトラクションの後に行われたバーべキューのスナップ写真。歌も出てとても楽しい会だった。

  その後、バーベキューハウスで、キャンプ場のスタッフと「ほほえみ太鼓」のメンバーと一緒にバーベキューを楽しんだ。

  この会には、農水省から来ている市の農林部長も参加していた。北谷町は、同じ勝山にありながら、雪も多く、気温も低い。今日もキャンプ場にはかなり雪があった。しかし、これをマイナスと感じるのではなく、これを逆手にとって「雪が多くて寒いからできることを考えることが大切ではないか」と思う。

    北谷だからできることを考えて「売り」にした方がよいのではないかと思う。こんなことを話しながらバーベキューを楽しんだ。このキャンプ場にはまだまだ可能性があると思う。

  話し、食べ、飲み、歌った。いつもとは交わることのないメンバーと一緒に過ごすことでとても充実した時間を持つことができた。

(日記 午前中は、部屋の整理。その後、創作紙芝居の絵を1枚描いた。そして午後2時半に自宅を出発して「東山キャンプ場」へ出かけた。そこで、「ほほえみ太鼓」の左義長太鼓に出演させてもらった。その後、キャンプ場のスタッフと「ほほえみ太鼓」のメンバーでバーベキュー。雨ではあったが、楽しい時間を持つことができた。)

 
 

「おふくろの味」

02 5月

子ども時代の食生活
   新聞か雑誌で「おふくろの味とは、子ども時代(15歳頃)に食べた料理によって形成された味覚のことで、年を取ると再びこの味が懐かしくなり、こうしたものを食べたくなる。」と書かれていたのを読んだことがある。

  自分に当てはめてみると、青年期には肉や魚などをん好んで食べたが、今は子ども時代に食べた煮物、里芋、エンドウ、生姜、漬け物、山菜などが一番美味しく感じる。

  食事時にパンやラーメンで済まそうとしても、何となく頼りなく、身体にもしっくりこない。やはり、ご飯に野菜中心のおかずが一番美味しく感じる。

  しかし、外食などでは、ご馳走と言えば動物性のタンパク質のオンパレードである。こんな日には我が家では、「夜は野菜中心にしよう」が合い言葉である。身体に染みついた味覚は、山菜などでも同様である。

  独特の苦みのあるウドも大好きだ。作りウドだとどうしても、この苦みが少ない。これも子ども時代に記憶した味なのだろう。水菜にしてもあの独特の苦みがなければ美味しくない。

  最初は取っつきにくくても、食べ慣れるとそれが美味しく感じられるのだ。これが風味というものだろうか。子ども時代の味の記憶が身体の中に記憶されているのだろう。味噌や醤油などにしても、子ども時代に食べたものしか美味しく感じられない者も少なくない。

ワラビとタラの芽。食べきれないほどのワラビが短時間で採れた。

  私の妹家族も、九州に移った後も、勝山の味噌を使い続けている。子ども時代に地元の食材をたくさん食べておけば、勝山を離れてもこの味が恋しくなり。地域の活性化にもつながるのではなかろうか。

  しかし、今の子ども達は、全国共通の味に慣れてしまっている。これでは将来、地元の食材を恋しくはならないであろう。無国籍状態だ。そんなことを考えると、.給食の献立にも大いに地元の食材を使ってほしいと思う。地元の活性化と大いにつながっているのだから。

  特に、癖のある味は最初は取っつきにくくても、慣れればそれが一番よくなるのだろう。コカコーラもそんなところがある。最初は薬臭くて敬遠していた日本人だが、そのうちにその癖のある味が欠かせない存在になっている。

  外国のファーストフードは、戦略的に日本に攻め込んでいるのではなかろうか。子ども時代にこの味に慣れさせておけば、生涯のお客さんになるのだ。子ども時代にマックやケンタッキーフライドチキンに慣れてしまえばおふくろの味はそれらになってしまうのだろうか。

  そうすれば、ふるさとの味は忘れられてしまうであろう。幼少期の家庭での食事や給食の献立は日本の農業や漁業にも大きな影響を及ぼすことになりそうだ。健康的な日本食がおふくろの味になってほしいと願う。

創作紙芝居『ナマズのテツ』の一場面。

(日記 今日も、午前中は紙芝居の絵を描いた。後3枚ほど描けば絵は完成することにある。後は、どう演じるかだ。早く完成させたい。午後は、家内と山菜採りに出かけた。雨が降っていたが、気にせず出かけた。ワラビがたくさん採れた。インターネットで保存方法を調べた。一番簡単なあく抜きをして冷凍。)

 
 

記録の大切さ

01 5月

村の古文書
  四月から区長になった。前区長からたくさんの書類を引き継いだ。自分の生まれた頃の記述も面白いが、明治の頃の村の記録を見ると、珍しいことがたくさん出てきて、とても興味深い。

  先人達の苦労が忍ばれるし、今と生活は大きく異なっていた。例えば、学校の糞尿は初寄り合いでの入札で誰が購入するかが決まるのだ。私の子供の頃は、まだこうしたものが肥料として使われていた。化学肥料はほとんどなかったのではなかろうか。

  村での申し合わせ事項は毎年、初寄り合いで確認していたようだ。そして、夜回りは青年会が請け負うと書かれていた。火を使うことが多かっただけに、火事を防ぐのは大切な仕事だったのだろう。それでも、大火があったのだ。

  また土地を巡っても争いがあったようだ。山に関する争いとしては、奥山(大師山後方の山)事件があったらしい。裁判沙汰にまでなっていた。こうした争いの顛末や、和解書まで保存されていた。

  自分の村でありながら、知らないこともたくさんあった。私が4月から書き始めた『かたせ瓦版』に、これらの書類の中から興味深い話題を選んで紹介したいと思う。それぞれの時代に、皆一生懸命生きてきたことが古文書からうかがえた。

 記録は全て毛筆で書かれていた。達筆で崩して書かれているので所々読めない文字があった。今のパソコンやワープロの活字とは全く違う重みが感じられた。なるべく多くの、過去の文章を読んで区民に紹介したいものだ。

(日記 午前中は紙芝居の絵を描いた。午後は、家の整理や区の資料を整理した。午後8時頃『ほほえみ太鼓』のSさんから電話がかかってきた。左義長の練習をしようというのである。村岡公民館で一緒に左義長の練習をした。女性だけの太鼓だが皆非常に上手だった。9時半頃帰宅してから、再び絵を描いた。今日までに、22枚中17枚まで完成した。あと少しだ。)

 

 
 

大師山

30 4月

片瀬の守り神
  我が集落片瀬の背後には大師山がある。私達の世代は、何かとこの山に関わってきた。子ども時代には、主に薪を運ぶためにこの山を上り下りした。我が家では、田んぼはあるが、山はないので、子ども時代には村の山で薪を取らねばならなかった。

大師山山頂から村岡山方面を望む。

  村の共有林は、大師山の裏側にあるので、薪を運ぶのは子どもにとっては大仕事であった。両親が作った薪の束を大師山から家へ運ぶのだ。夏休みの暑い日でも毎日一度は薪を運ぶのが日課であった。

  片瀬に住む子どもは誰でもこの薪運びが仕事であった。「働くもの食うべからず」が子ども時代から身体に染みついていた。今の子ども達はどうであろうか。

  山仕事が容易にできるようにと、毎年「山道作り」と称して、道の両端の草や木の枝を刈り払い、場所によっては、道路が川にならないように水抜きを作るのだ。

  私はこの仕事に、高校時代からずっと参加している。昔は、この他にも、年に数回村の山の下草刈りがあったが、これは負担が大きいので今は県の方にやってもらっている。

  大師山は、我が村の生活を支える大切な山だったのだ。しかし、近年は、プロパンガスの普及で薪を取ることがなくなった。最近はそのガスさえ使わない家庭が増えている。また、かつては、馬のえさや田んぼの肥料のために草を刈ったがそのような必要もなくなった。

大師山山頂から大野方面を望む。昨年地主の了解を得て、樹木を伐採したので初めて大野方面が眺めれるようになった。大師山たいまつ登山の日は、例年大野市の花火大会の日でもある。きっとよく見えるだろう。

  それでも、山道作りが続いている。おそらく、今の若い者達は、何のために山道作りをするのか、その必要性さえ分からないだろう。また、一方では、我が村も高齢化が進み、登山道と林道の二回の「道作り(草刈りや水抜き作り)」は家庭によっては実施が困難になりつつある。

  これまでやっていたからということで、訳も分からず昔と同じように山道作りを続けているが、その範囲を調べてみると、ここ50年間、勝山市の山の際の「道作り」まで引き受けているのだ。

  市の関係者と話し合い、せめて「道作り」は自分の村の山の際だけにしてもらいたいと思っている。今市に申し入れてある。村の歴史も知らず、村の山の位置も知らず、ただ先人がやって来たからといって少子高齢化の進む今、そうしたことを見直すことなくやっているのでは、若い者に受け入れられないだろう。これからは、やるべきことはきちっとやっていきたいと思っている。

  午後、大師山の状況を見るために軽トラックで家内と一緒に山頂まで出かけた。山は新緑が始まろうとしていた。しかし、心配なことは、松の木をはじめたくさんの樹木が枯れていることだ。今年も、枯れた木が林道をふさいでいた。

 

頂上へ行く途中の山道の脇で採った「わらび」。春の恵みだ。

 まだまだたくさんの木が枯れて通行の妨げになるだろう。通行人の事故につながらないように、気を配らなければならない。生活の山、大師山を区民でこれからも見守っていかなければならないと思う。

(日記 午前中、紙芝居の絵を2枚書いた。ようやく半分が過ぎた。5月の10日頃までには描き終えたい。そして、初めての上演である5月の16日の野向保育園の園児や総父母の前でしっかりと演じたい。午後は、大師山の検分。ゲートの状況、道路の状況、崖崩れなどの状況、そして、頂上の様子を調べに出かけた。途中で、山菜採りの人二組と登山の人に出会った。私も、途中で、少しだけ“わらび”を採った。帰宅してからも紙芝居の絵を1枚描いた。)

今日描いた紙芝居の一場面。早く完成させたい。

 
 

『上丹生チューリップ祭り』研修

29 4月

人と人との縁
  エコミュージアム協議会の研修『上丹生チューリップ祭り』視察に家内と二人で同行することにした。会員ではないが、興味があって同行したのだ。午前7時30分市役所前を出発し、高速道路で一路米原インターへ。一般道を少し走って上丹生に着いた。

チューリップ祭りのスナップ。懐かしのエレキバンドの演奏を聴くこともできた。窯で焼いたピザも美味しかった。

  上丹生の集落は、米原駅から約10キロ東に行ったところだ。集落内を流れる丹生川に沿って家が建ち、その周囲には山が広がっていた。駐車場を降りるとテントが並ぶグランドが見えた。そこが祭り会場であった。

 そこまでの道には、小さな野菜畑があったが、猪から守るためかどの畑にも、まるで鶏小屋のように背丈以上の高い網が張られていた。山間に住む人達の苦労がしのばれた。

  この集落を少し歩くと、「木彫り」という文字がいくつか見えた。「木彫りの里上丹生」としても有名だそうだ。最近、木工関係の後継者は減っているとのことであった。また約150世帯で五百人あまりが住むこの集落にも近年高齢化の波が押し寄せているのだ。

 しかし、そんな中でこの区の人達は、区民からメンバーを募ってまちづくり委員会を設置し、まず自分たちのまちに対する意識調査を行ったそうだ。私は、全てのアクションの前に『現状分析』が重要であるというのが持論だが、この地区の人達もそうしたところから始めたようだ。

チューリップ畑で記念写真。

 そして、この上丹生の人達は、「プロジェクトK(Kは上丹生の頭文字)」を始めて、様々なアイディアを出しながらまちづくりを続けてきたというのだ。毎月の例会では、メンバーがいろんなアイディアや意見を出し合い、それらの中からいろんな事業を展開してきたらしい。

  その一つが、チューリップ祭りだ。そして、今日の祭りの素晴らしいところは、利益を震災を受けた東北の人達のために全額寄付するというのだ。私達が、模擬店で何かを買えば、その一部が東北の皆さんのためになるのだ。そう思うと、気持ちがよくなる。

 同区のホームページには以下のようなことが書いてあったので、一部だけ紹介したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・上丹生ホームページより・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 新しい事をする場合、やる前から弊害や問題点ばかりを探すのではなく、まず実行してみようの精神も大切。

ツリーハウス。風がさわやかでとても気持ちがよかった。(上左:HPより転載)

 上丹生まちづくり活動の秘訣、プロジェクトK方式をご紹介します。
その1:会議は、クジ引きで座る場所を決める。
その2:若い世代の「意見をききましょう!
その3:地域のお年寄りが、得意分野でアドバイザーに!
その4:活動は地域住民全員に呼びかけよう!
その5:来る物は拒まず、去るものは追わず。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
滋賀県立大生の取り組み
  滋賀県立大生は、この上丹生と関わりを持っているらしい。そして、彼女たちは、東北とのつながりも持っていろんな活動をしているとのことだ。その一つが『ほたてあかり』の販売だ。

上左:滋賀県立大生の『ほたてあかり』の説明。上右:『ほたてあかり』の販売。下左:彦根西高校生の書道パフォーマンス。下右:できた作品。

  この『ほたてあかり』はホタテ貝の貝殻にろうそくを立てたものだ。「ろうそくの灯る時間、東北を想おう」というもので、一組500円だ。このろうそくは、お寺で使う和蝋燭の使い終わった部分を回収して、新たに蝋燭を作ったものだ。

  かつては、使い終わった蝋燭は、蝋燭屋が回収したそうだが、今はそれがなく捨て場に困っているとのことだ。それを使って、新たな蝋燭を作っているのだ。そして、蝋燭の売り上げは、原材料費を除いて、製造した宮城県南三陸町にある田浦地区のお母さん方の人件費と同町の復興に使われるというのだ。

 今日のチューリップ祭りでは、二人の滋賀県立大生(女性)が、そのことを来場者に説明し、『ほたてあかり』を販売していた。二人の学生のうち一人は、隣町の永平寺町出身だと聞いて驚いた。

  私も、いつかは東北の子ども達のために何かできないかと考えていると彼女たちに話した。紙芝居制作もそうしたアクションにつながればと思って続けている。彼女たちによれば、子ども達は遊び場も流されて避難所の小さなスペースで遊んでいるとのことだった。

  いつの日にか、子ども達の前で何かできることをやってみたい、そんな気持ちで彼女たちの『ほたてあかり』販売を眺め、二組買わせてもらった。いろんな所でいろんな取り組みがなされていることに感心した。

(日記 午前7時半自宅を出発し、私は会員ではないが、エコミュージアム協議会の研修『上丹生チューリップ祭り』視察に家内と二人で参加した。そして、午後4時に帰宅した。充実した研修だった。帰宅途中、家庭菜園へ寄り、キュウリなどに水をやった。)

 
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ニラの力

28 4月

低農薬菜園のために
  農業は、プロであれアマであれ病気と虫害に悩まされる。そのために、農薬は欠かせない。しかし、誰もが少しでも農薬を減らしたいとは思う。作物が全滅したり、大幅減収では農薬もやむを得ないだろう。

ナスとの混植。果たしてニラがナスの病気を防いでくれるだろうか。

  例えば、ショウガだが健康にはとてもよい作物だ。特に、現代人は低体温になりやすいと言われている。体温が1度下がるだけで病気になる確率はうんと増えるらしい。

  低体温予防にはショウガが有効だそうだ。そう思って私も自家用の生姜をたくさん作っている。しかし、このショウガだが、私の地区の人達も見学した有名な産地では、年間三十数回も消毒しているそうだ。健康によいことではないだろう。

 そう思っていた矢先に本屋で低農薬農業の本を購入した。その中に混植による病気予防についての記述があった。ナス科やうり科とネギやニラとの輪作や混植がよいと書いてあった。

  そこで、今日、ナスを植えた際にその近くにニラを植えておいた。果たしてナスが病気にかからないかどうかだ。今年は、トマトでも実験したいと思う。

 ところでこのトマトだが、農業雑誌『家の光』によれば、ポット植えの苗はそのまま畑に植えないで、少し大きめのポットで一番花が咲くまで育ててから畑に植えた方がよいと書いてあった。

ニラとトマトの混植。トマトの一番花が咲くまではポットで同居生活。その後も畑で同居生活。健康なトマトが育つだろうか。

  そこで、二つの本の記述を信じて、トマトの苗を少し大きめのポットに移植した。その際、ニラと一緒にポットに植えた。本によれば根が絡まるくらいの方がよいとも書いてあった。そこで、その通りにした。

 また、キュウリなどの『うどんこ病』には、乾燥したスギナの汁を煎じた汁を薄めてかけるとよいとも書いてあった。そこで、今日、乾燥スギナを作った。これで、農薬を減らせるなら嬉しいのだが。果たしてどうなることやら。確かめてみたい。今年は実験の年だ。

(日記 午前9時まで紙芝居の絵を描いた。その後、野菜の苗を買いに行き、畑に植えた。途中、昼食を挟み午後も3時まで作業を継続した。午後4時から親子太鼓教室。今日は、一組の親子が欠席しただけで、みんな参加してくれた。新曲の練習を始めたが、子ども達は、意外と上手だった。午後7時半から臨時役員会。ゴミ集積所の問題など6つの問題についていろいろ意見を交わした。帰宅したのは午後10時であった。)

花壇の前で「はいポーズ」をする太鼓教室の子ども達。私の新しい友達だ。でも孫と同じ年齢だが。