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Archive for the ‘未分類’ Category

対談『じいちゃんの子供時代』

22 1月

記録したいあの頃の子どもたち
  私たちの子供時代は、敗戦後の最も貧しい時期だった。しかし、子どもたちの心は決して貧しくはなかった。そのことを何らかの形で次の世代に残しておきたいと思っていた。

  自分の子どもが小さかった頃は、『お父さんの子供時代』として、自分の子供時代のことを記録しておきたかった。しかし、生活に追われてそれができなかった。そして、かなりの時間が経過してしまった。

  そのうちに、孫が5人になった。今残さなければもう記録不可能だろうと思った。そこで、先ず手始めに、私たちと同時代を過ごした2歳年上のTさんと子供時代のことを語った。ICレコー〇ダーには3時間半ほどの記録が残った。

  そのうちの10分あまりを文字化し、挿絵を付けて『かたせ瓦版』に掲載する予定だ。本当は遊びの写真があるとよいのだが、その頃は誰も写真に撮らなかったので、絵で描くしかなかった。

  文字ばかりの瓦版は誰も読まないだろうと思って、挿絵を付けたのだ。今、その頃を振り返ると、一番よかったのだ、その頃、子どもの前には「モノがほとんどなかった」ということだ。

一本のスキーにたくさんの子どもが乗って、急な坂を下りればスリル満点。。そのうち、転倒、爆笑!!

  逆に言えば、子どもが創意工夫をこらす場面が無限にあったのだ。「なけれ場つくる」という考えはこの頃身についたものだと思う。誰かが自宅から兵隊さんのスキーを持ち出してくれば、それで何人もの子どもたちがかなり長期間遊ぶことができたのだ。

  なければ創意工夫を凝らして作ればよい。之は当時の子どもなら、当たり前の発想だった。その当時作ったものの一つに「ハンドル付きのソリ」がある。これを使えば、は村の中の狭くて曲がったコースを難なく滑ることができた。

  今でも、保存してあるが、片瀬オリジナルだと思っている。作れと言われたら、何も見なくても作れるだろう。竹を割ってソリの裏へ張り付けるのだ。曲げるためには少し工夫がいるがそれもクリアーできる。

  今、日本各地で学力向上に血眼になっている。しかし、それは車で行ったら片方の車輪だ。もう片方の車輪は、“なければ作ろう」という精神だ。社会へ出たら、学者にでもならない限り、後者の方がはるかに有用だと思っている。いや、学者になっても必要だろう。

(日記 終日、明後日発行の『かたせ瓦版』の編集作業。A4で4ページ必要だが、ようやく3ページ完成した。食事以外は、ずっとパソコンの前にいたので、体が固まってしまいそうだ。足が退化しそうだ。)

 
 

高齢化社会の問題点

21 1月

老人漂流社会
  日曜日は、自宅にいて作業をしているときは、『新報道2001』とNHKの『日曜討論』を聴いている。時々画面を見るときもあるが、絵を描いているときはパソコンの画面から目が離せない。

  そのままテレビを付けていたら、NHK『明日へ』で「往診先生の挑戦」をやっていた。被災地でがんばる医師の話だった。高齢者になると、医者へかかることが多くなるが、近くには医者はない。

  高齢者は、わずか3分の診察にほとんど一日費やすこともあるとのことだった。それは、車を運転できないし、近くに病院がないからだ。そんな中でがんばる先生の物語だった。

  その中で特に印象的だったのは、「被災地は日本の未来である」と登場する医師が語っていたことだ。超高齢化社会になると、地方はどこも被災地と同じように、医者に診てもらうことが簡単にできなくなるからだ。

  今のうちに手を打たないと、被災地の状況が地方にも顕著になるということだ。近い将来、地方も被災地のような悲惨な状況になるということだった。今のうちから、年金、医療、介護を含めて将来を見通した政策を打ち立てないと大変なことになると思った。

  夜も作業を続けていると、午後10時からNHKで『衝撃“老人漂流社会”』をやっていた。気がかりだったので録画して風呂に入り、家内と二人で風呂から上がってテレビを見た。病弱になり、たらい回しにされる老人の姿が映されていた。

  先週の水曜日にはNHKで日本のこれからと題して『無縁社会』をやっていた。この頃、この手の番組が多い。自分のことではないと思っているうちに、知らぬ間にそうした日々が全ての人間に訪れるのだ。

  そんな中で、100歳の詩人柴田トヨさんの詩を読むと、新たな勇気が湧いてくる。言えそうで言えない言葉が並んでいる。トヨさんは90歳になってから詩作を始めたという。こちらも夢が湧く。トヨさんの二番目の詩集『くじけないで』が160万部を突破したという。

  全ての人にいろんな可能性があることを柴田トヨさんは示している。全ての人が、逃げないで自分から歩み寄れば世の中はもっと楽しくなると思う。一歩の勇気が、気持ちを大きく変えそうである。

(日記 午前中は、『かたせ瓦版』のために先日録音したICレコーダーを再生して必要な部分を文字化した。午後は、紙芝居の絵描き。午後3時から市役所へ。三つの部署を周り、区の課題について情報収集。ある問題は少しずつ進んでいるし、別の問題も可能性がある。未来創造課で短時間懇談。)

 
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天候だけは……

20 1月

成り行き任せ
  いくら現代文明が発達しても天候だけは簡単にはコントロールできない。人工降雨など研究はなされているだろうが、一般人には手の届く話ではない。特に、最近は、想定外の“ゲリラ豪雨”や竜巻などが襲い大きなの被害をもたらしている。

  雪を例にとっても、降りすぎても、降らなさ過ぎてもいろんなイベントに支障を来す。勝山のイベントも雪の多少によってこれまで何度も中止に追いやられている。今回もそうだった。

  体育大会なども雨が降るかどうかで実施できるかどうかが決まるため、主催者は気が気でない。市民体育大会も何度も中止になっている。レクレーション大会などは中止も避けるために、室内で行っているが。

  私も、一昨年、勝山城博物館の外で『盆踊り大会』を企画したが、屋内か屋外かの決定を下すのに迷った。天気予報は雨と出ている。しかし、決定する午後1時には晴れ間が出ている。外でやるなら、櫓を建てなければならない。

  私は天気予報を信じて、博物館内のホールでやると決めた。誰もが外でできるのでは思っているので、中での開催を心からは納得できないようだった。それは、いつまでたっても雨が降らないからだ。

『盆踊り大会』のアトラクションで踊ってくれたよさこいグループ。雨のため、勝山城博物館の中での演舞だった。

  誰もが外でできると思ってソバなどの模擬店は外で準備を始め出した。アトラクションとして参加してくれる「よさこいグループ」も「外で踊らせてくれ」と迫ってくる。しかし、放送設備は中で設置を始めている。

  開始30分前にゲリラ豪雨。誰もが室内開催を納得した。少しの雨ではなく、天が抜けたかと思うような大雨だった。雨が降ってうれしかったのはこのときだった。

  今のところ、天候はコントロールできない。国立競技場で開催される、先日の高校サッカーも雪で延期になった。京都と宮崎の応援団も、深夜に応援バスで出発していたようだ。雪の中で多くの人たちが開門を待っていたのだ。そして、延期。

  特に最近は、想定外のことが起こることが多くなった。異常気象が、単なる自然現象なのか、それとも、人間の営みが影響しているのか、はっきりはしないが、私は後者の方だと思っている。

  あまりにも不自然なことを人間がやり過ぎるからだと思っている。隣国で争っている場合ではないように思う。狭い地球の上で、自分さえよければと思う人間は、文明が進んだ国に多いようだ。近代兵器を開発したりして。

(日記 今日は終日、紙芝居の絵描き。全国都道府県対抗駅伝を聞きながら。家内は,午前中は『尼講(女性ばかりの寺参り)』午後は、まちづくり委員会の助っ人として「餅つき」に公民館へ出て行った。私の方は1月はシーズンオフといった感じで好きなことができてうれしい。運動不足が気になるが。)

 
 

『じいちゃんの子供時代』

19 1月

先輩に聞き取り
  自分たちの子供時代には何をしてきたのだろうか。ずっと前から何らかの形で記録しておきたいと思っていた。文才があるならば、『じいちゃんの子供時代』というタイトルで本でも書きたいぐらいだ。

  とにかく、本にするしないに関係なく、記録には残しておきたい。今日は、その第一段として、村の2歳年上のTさんに話を聞くことにした。いろいろ接点が多かったからだ。

  集会所で、飯を食べながら、酒を飲みながら、ICレコーダーで聞き取りをした。というよりも、雑談を楽しんだ。考えてみれば、昔は子供ながら工夫をしながらいろんなことをして、楽しむながら、生きてきたことが分かる。

村のTさんと『じいちゃんの子供時代』について3時間あまり対談。楽しかった。 

  それぞれの季節にそれぞれの楽しみがあったように思う。今はもう昔に戻ることができないが、「温故知新」の言葉のごとく、昔から学ぶことはいくらでもあるように思う。

  昔、子どもたちがなぜ生き生きして生活してきたのかというと、その答えは簡単だ。「何もなかったからだ」。その点ではTさんとも話が一致した。何もないから、子どもたちの出番があったのだ。

  何もないということは、“一升瓶の中の水と空気の関係”で水が多ければ空気の部分が少なくなり、水が少なければ空気の部分が多くなるのだ。

  すなわち、子供に与えるものを水にたとえれば、今の子どもたちは、水の中におぼれている。自分で考える機会を大人に奪われていると言っても過言ではない。大人の考えた手っ取り早い遊びが氾濫している。

  私たちの子供(中学)時代のキャンプはシンプルだった。先ず子供だけで計画し実行したのだ。食料はナスとジャガイモと米、そして醤油だけ、後は“わら”を一束と「のこぎり」と「なた」だけを持って裏山(大師山)へ出かけたものだ。

  山へ到着したら、先ず木を切り、草を刈って、泊まるための小屋を作るのだ。屋根は“山茅”と持参した「わら」で葺き、床にも山茅を敷いたのだ。そして、真ん中にはいろりを掘り、夜通し火を焚きながら、あれこれ話し合ったものだ。

  水は頂上にはなかったので、少し下ったところまで汲みに行かなければならなかった。これらは下級生の役目だった。薄暗くなると、山道は怖かった。しかし、それでも、楽しいキャンプだったと思っている。何よりも、子供だけで実行できたことがよかった。

  今日はTさんといろんな話ができた。簡単な文章にしておきたいと思う。スキー場がなくても、村の坂道や山道や土手などでスキーを楽しんだのだ。スキーを持っていなくても、一本のスキーで5、6人が乗って坂を下ったりしたものだ。

  石ころと瓦さえあれば、瓦倒しができたし、字を書ける石と小石があれば“16さし”などのゲームもできたのだ。空き缶一個さえあれば、“缶蹴り”をして暗くなるまで遊んだりもした。テニスボール一個で野球もできた。

  子供だけで、村の山際の斜面でスキー大会まで実行したのだ。ストップウオッチがなかったが、「1、2、3、……」とストックを上げ下げしながらカウントをとり、タイムレースまでしたのだ。そして滑降やクロカンまでやったのだ。今の子供なら考えられないことだ。

 今の時代に 「何もないことのすばらしさ」をどうして実現できるかとなると、簡単ではない。これは、“断捨離”ともどこかで繋がってるのだろうか。そう思った一日だった。

家内と二人でかき餅を麻縄で編んだ。これも昔懐かしい食べ物だ。一連の作業は金では買えない値打ちがある。

(日記 午前中、かき餅を切り、かき餅を縄で編んだ。乾燥したら、そのまま焼いたり、油で揚げたりして食べるととても美味しい。その後、例によって紙芝居の絵を描いた。保存し間違えて、作業が逆戻りしたりもした。午後6時~、むらのTさんと昔の子供の遊びなどについて話し合い、ICレコーダーに録音した。いろいろ思い出すことがあった。)

 
 

オフの体力づくり

18 1月

プロ野球のキャンプ
  プロ野球の合同自主トレが始まった。1月の合同自主トレ、2、3月のキャンプ。そして、3月末からのシーズンイン。特に、私達素人の感心するのは、走り込んだりして、年の初めに1年間持つだけの体力づくりを行うことだ。 

  私も、シーズンオフだ。プロ野球の選手のように、今の時期に1年間持たせる体力を作ることが出来たらと思う。かといって、プロの選手のように走るわけにもいかないし。

  自分で気をつけなければならないのは、筋肉も内臓も全て劣化してきてるのではないかと思う。胃や腸や肝臓や心臓などの臓器も、若いときに比べたら弱っているだろう。
 
 それなのに身体をいたわるどころか、本能のままに飲み食いしている。これでは、身体が劣化している分だけ体力が落ちていくのは当然のことだ。

 プロ野球の選手がキャンプをして1年分の基礎体力をつけるように、私のような凡人でも何か健康維持のために冬期間すべきことはないのだろうか。

 毎年キャンプが始まるたびに、プロの選手は自分が長年身につけた方法で指導する。イチロー選手等の有名選手の練習が始まると必ずテレビや新聞で報道される。

 選手によっては、まるで修行僧のように自分に厳しく身体を鍛える。今年こそ、自分の始動を4月において3月末までに少し体力作りをしたいと思う。今年は大台に乗る年なので特に思う。

家内に、幼稚園から借りてきた本を読んでくれとせがむ孫達。(福井の娘の家で)

(日記 昨夜は娘の家で泊まったので、眠ったり、目が覚めたりして十分休養できなかった。おまけに、娘の次男が夜中にしがみついてきたりして目が覚めてしまった。娘夫婦は7時過ぎに職場へ。その後、孫達を起こし、二人の子ども(孫)を幼稚園へ出して、家内と二人で大衆演劇をやっている温泉へ。ここで、演劇を観たり、紙芝居の構想を練ったりした。その後、孫を幼稚園へ迎えに行く。孫達の両親は帰りが遅いからだ。)

 
 

子供時代の思い出

17 1月

かき餅と鳥かご
  今日は、家内と二人で「かき餅」を作ると決めて作業を始めた。エビ入りの「かき餅(できあがりはピンク)」、海苔入りの「かき餅(薄緑色)」、そして豆入りの「のし餅(四角く切って焼いて食べる)」を作った。

今日作った「かき餅」と「のし餅」。

  子供の頃は、たくさんの「かき餅」を作り、天井から吊してあった。かき餅が乾燥するとかけらが落ちることもあった。しかし、それとは別に、お腹が空くと下から衣類等を投げつけてわざとに「かき餅」を落とすこともあった。

  落とした「かき餅」をポケットに入れて遊びながら食べたものだ。もちろんそのまま食べるのでとても堅かったが、空腹には勝てず、お腹を満たすことはできた。考えてみればその頃は誰もがお腹を空かしていた。

  もしかしたら、今はかき餅を作る家庭も少なくなっているだろうか。この「かき餅」だが、油で揚げて食べるととても美味しい。しかし、油で揚げるのは簡単でない。家内はこれを揚げるのが上手だ。大きく広がるのだ。

  今日作った「かき餅」だが、数日したら薄く切って紐で吊しておくのだ。そうすればいつでも揚げて食べることができるからだ。私にとっては市販の菓子よりもはるかに美味しい。

  餅つきの合間に、紙芝居の童話の絵を描いた。今日は捕まえた雀を入れる竹製の鳥かごの絵を描いたが、これには多少の思い入れがある。私たちの子供の頃には、「かすみ網」や「鳥餅」で小鳥を捕まえてそれらを飼うことが流行っていた。

捕まった雀と鳥かご。現在描画中。背景は借り置き。

  当時は、主に、「ヤマガラ」、「ひわ」、「うそ」、「めじろ」などを捕まえた。それと同時に、鳥かごも作ったのだ。先輩達に習って、真竹を切り、細かく割って、「ひご抜き(細い竹の丸棒を作る道具)」で「竹ひご」を作ったのだ。

  「竹ひご」は二種類作った。鳥かご本体を作るためのものと、竹の枠に「竹ひご」を止める「止め釘」用のものだ。今も自宅には当時使った「ひご抜き」が保存してある。二度と使うことはないだろうに。

  それに「錐(きり」も持っていた。竹が割れないように穴を開けるための「三つ錐」だ。先端が三つに分かれている錐だ。これも自宅のどこかにあるはずだ。この錐を見ても、今の子どもたちは何のための道具か分からないだろう。

  村には「竹藪」はたくさんあるが、ほとんどが「孟宗竹」だ。工作に向いている 「真竹」がほとんどないのだ(一軒のみ)。今日は、半日かけてパソコンで鳥かごを描いたが、実際とは「鳥かご」の組み方が少し異なっているがやむを得ない。

  昔を思い出すことが2つあった。1つは、かき餅作りで、もう一つは鳥かごのことだ。「虫かご」ぐらいなら作ってみたい気もする。いろんな技術が自分までは伝わったが、自分の子供には伝えられなかった。まして孫ならなおさらだろう。

(日記 午前中は、かき餅作り。作業の合間に、紙芝居の絵を描いた。午後も絵描き作業を継続。午後4時に自宅を出て娘の住む福井へ家内と二人で孫の守りに出かけた。今日は福井の娘宅で宿泊。二人とも働いているためにいつも早く幼稚園へ行く孫達も明日はのんびりと幼稚園へ連れていってやりたい。)

 
 

無縁社会

16 1月

なるべくしてなる
  昼食後、何気なくビデオの録画リストを見ていたら、NHKの「日本のこれから」と称して『無縁社会』を特集した番組が見つかった。興味があるので、何気なく見ていたら、社会と無縁なのは、高齢者ばかりでなく、若者にも増えていることを再認識した。

  田舎の人間関係の煩わしさを断ち切って(捨てて)都会へ出た人たちが、若いうち、元気なうちはいいが、高齢化するにつれて田舎とは疎遠になり、地域社会とも我が子とも会社とも疎遠になって孤立するパターンが多いということが語られていた。

  最近、私は思うが、人間「いいとこどり」はないということだ。「煩わしさ」と「縁」はものの裏表のような存在であり、煩わしさを捨てれば、いつかは同時に縁も捨てることになるということだと思う。

  そう考えると、無縁社会は「なるべくしてなった」といういうことがわかる。だからといって昔に戻ることはできない。勝山市では、各町代表で組織する連合青年団も、連合婦人会もなくなってしまった。

  そして、今また、町の婦人会もなくなってしまった。集落には辛うじて残っているが。「面倒くさいことはなるべくやめたい」という考えも分からないではない。面倒くさいと思う団体活動も、終わってみると仲間作りができたり、いろんな事が身についてよかったと思う場合が少なくない。

  私としては、「年がら年中、地区のために何かをしましょう(して下さい)」というのではなく、せめて年に一度ぐらいは真剣に、地区のために自分のできることをやってほしいという願いはある。

 例えば、「秋の祭り」でも、少しでも充実したものにしたいという人が増えれば、祭りは楽しいものになると思う。そうすることが、結局は自分のため、自分の家族のためになるのだということを周囲の皆さんに理解してほしいと思う。

  少しでも自分から動き出せば、『無縁』になることはないと思う。何かをやれば、必ず、誰かと縁ができるはずだと思う。しかし、残念ながら今の世の中は、少しずつ『無縁社会』に向かって進んでいるように思う。

捕まった子すずめ(描画中)。一日一枚がノルマだ。

(日記 今日は、紙芝居作りに専念。特に、今力を入れているのは、高齢者の皆さんの前で『親鸞聖人物語』を演じること、子どもたちの前で『童話紙芝居』を演じることだ。そのために、必死で絵を描いている。この延長上に、東北地方へ出かけることがあると信じながら。)

 
 

いなかもんの性

15 1月

体に染みついた性分
  東京や横浜は大雪(と言っても数センチの積雪らしいが)だというのに、我が勝山は今年はいつものように雪が降らない。それどころか時々晴れ間が見える。こうなると、創作活動をしていても落ち着かない。

 おまけに、いくら好きでもパソコンにしがみついていては、体によくない。それに気分も晴れない。何か、肉体労働しないと落ち着かないのだ。適度に雪があれば除雪や屋根の雪下ろしなどがあるのだが。雪がなくて晴れ間が続くと特に落ち着かない。

 私は、春から秋にかけて一日中全く肉体労働をしないと晩飯がおいしくない。そんなわけで、今日は昨年暮れに森林組合の人に枝打ちしてもらった樫の木の枝をゴミ処理センターへ二度運んだ。

  その帰りに、組合から借りている自分の畝の横を通ったら、来年里芋や生姜を植えるためにかけておいた黒マルチが風で飛ばされていた。田んぼには全く雪がなくおまけに晴れている。このまま春まで放置するわけにはいかない。

軽トラで枝打ちした樫の木の枝をゴミ焼却場へ運んだ。家にはまだまだ樫の枝が残っている。

 家内と二人で、早速風でめくれていた黒マルチを専用の留め具で止め直した。風は冷たく、指は切れるように寒かった。帰りに家内が「外で仕事すると気持ちいいでしょう?また、思い切って好きなことができるし……」と発した。

  自分の好きなことをしているだけではなく、何か農作業や家の仕事をすると充実感があるという意味だ。家内も農家出身だ。特別な日は別として、朝から晩まで遊んでいたり、好きなことをやっていると、“晩飯がおいしくない”というのが二人の体に染みついている。

 晴れれば、外へ出て何か仕事をしたくなる、仕事をしないと気分が悪い、仕事をすれば落ち着く、……こうした気分を私は「いなかもんの性」と称している。決して悪いことではないとも思っている。それにしても、今のところ、雪が少ない。ありがたいことだが……。

(今日は、午前と午後、三時間ほど外での作業。残りの時間はもっぱら紙芝居の絵を描いていた。パソコンの前にばかりいると、

すずめと人間の交流を描いた創作紙芝居の一場面(制作中)。

きっと猫背になるだろうし、目を悪くするだろう。しかし、もう少しだけ、シーズンオフを楽しみたい。春になれば、“半農半パソ”になるのだから。頭のどこかに村の活性化がある。来月から始まる『各種団体との語る会』が大きなポイントになる。区民の皆さんにいかに村に関心を持っていただくかが大きな課題だ。)

 
 

成人式に思う

14 1月

大人へのプログラム
  今日は成人の日。朝から、成人式に関するニュースが流れている。今日成人式を行うのは主に都会のようだ。県内の成人式は、ほとんどが昨日だった。それは、成人式のために、都会から帰省して参加するためには、昨日の方が都合がよいからだ。

  成人式の後に、同窓会をする者も少なくない。そうした場合、月曜日に成人式では、それらに参加できない。このような地方の事情を考えると成人の日は日曜日の方がよい。

  そうなると、移動のための月曜日は、何か名目でを考えて祝日にすればよいのではなかろうか。ところで、成人の日と言っても、果たして20歳のどれだけが大人としての自覚を持っているだろうか。

  かつてのように、中学を卒業すれば就職したり青年団に入って地域の行事に積極的に参加していた時期は、社会人としての準備が早くからスタートしていたように思う。今は、向学心を持って大学へ進む者はそんなに多くないように思う。

  頭でっかちにはなっているが、社会人としてはまだまだ未熟ではなかろうか。学校生活を謳歌している者が多い。50年前の若者と比べると知識の量は格段に増えているかもしれないが、社会人としての自覚や知恵は逆に少ないだろう。

  選挙権を18歳から与えてはどうかという意見があるが、逆に22歳以降にした方が実態に合うのではないかとも思える。文字通り20歳を大人(成人)への入り口にするには、子供時代の節目節目で大人への階段を登るためのプログラムが必要ではなかろうか。

  学校は残念ながら、そうしたプログラムを提供するのが困難である。逆に、今は家庭の教育力が低下しているために、学校は学業の他に「しつけ」など家庭で行うべき教育も引き受けているのが現状だ。

  さて、この大人へのプログラムだが、これを考えるのは地域の人間の務めでなかろうかと思う。大人の背中が、子供の成長に大きな影響を及ぼすからだ。地域は、学校とは異なり算数や国語を指導する必要はない。

  その代わりに、地域の歴史を伝え、地域の行事を一緒に行い、共に働くことによって、地域への誇りと愛着心を育てなければならない。いずれは地域を担っていかなければならない存在だからだ。

  「子育て」は、家庭だけでできるものではない。家庭を含めた地域の力、学校の力が両輪のごとく、働いてはじめてなし得るものだと思う。しかし残念ながら、地域の力もまた低下している。

  結果的に、子どもたちは、なかなか大人になりきれずにいるのではなかろうか。今の時代、知識は、少しぐらい遅れても身に付けることができる。おまけに、昔と比べると30歳以上長生きするようになっている。人間もじっくりと育てなければならないのではなかろうか。

  人間も促成栽培では、本物になりにくい。若者には、少しずつ社会に興味を持ち、社会の一員としての勤めを果たしてもらいたい。そのためにも、私たち大人の責任はきわめて重い。

松若麿が9歳の時に詠んだといわれる和歌と得度の場面。

(日記 「東京や横浜は雪」とのニュースが朝からずっと放映されている。どういうわけか、勝山はほとんど雪が降らない。ありがたいことだ。午前中は、親鸞聖人の紙芝居の絵を描き、午後は自作の童話の絵を描いた。隣では家内が久々に手芸をやっている。二人で机を並べてテレビを聴きながらの作業だ。春はまだ遠い。)

 
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人にドラマあり

13 1月

昔は「おしん」が何人もいた
  絵を描きながら、テレビを聴いていたら(見ていては絵は描けない)、昔の連続ドラマ「おしん」が放映されていた。子供時代の生活は壮絶を極めるという感じだった。

  また、最近の朝ドラに出てくる主人公はみな食うや食わずの大変な人生を送っていたように思う(今回の朝ドラは少し異なるが)。戦前・戦後を生き抜いてきた主人公のほとんどが、大なり小なり「おしん」のような苦労をしている。

  田舎に住む子供のほとんどは、貴重な労働力として扱われていた。自分だけなら、文句の一つも言いたくなるが、誰もがそうだったので、当時はそんなに大変だったとは思わなかった。

   しかし、こうした苦労は今の子どもたちは体験することができない。いろんな仕事が「割り当て」として与えられ、いつもお腹を空かせていたように思う。

  村の背後にある大師山の登山道には、いろんな地名と共に、「下休み場」、「中休み場」、「上休み場」などの名前が残っている。まちづくり委員会で、マップを作ったりしたが、今の子どもたちには、何のことやら分からないだろうし、興味もないだろう。

  私たちは、夏休みになると、毎日のように山の裏側から薪を背中で担いで運んだのだ。私たち年配者にとっては、上記の休み場は貴重な休憩所だった。重い荷物を運ぶと、膝ががくがくするのだ。

  これを「膝が笑う」と称していたが、この休み場のおかげで、何とか家まで薪を運ぶことができたのだ。また、秋の稲刈り時期には、夜の9時まで田んぼで作業をすることは当たり前だった。

  そして、次男以降は中学を卒業すると、都会へ「丁稚奉公」に出ていったのだ。都会の生活に慣れない中で、盆と正月以外は休みもなく働き詰めだったらしい。村の男子の半分はこのようにして都会へ出て行ったのだ。

  田舎に残った者も、貴重な労働力として、冬以外は、年がら年中何らかの農作業があった。こうして、大人も子供も働いて、今の世の中を作ったといっても過言ではないだろう。

  勝山から出て行く者もあれば、逆に、北海道・東北・九州から多くの女性が、繊維会社の女工さんとして毎年勝山へ集団就職でやって来たのだ。彼女たちも、立場は逆だが、苦労は同じだっただろう。

  「おしん」は日本の至る所に存在していたというのが、私の感想だ。今、少しぐらい景気が悪いからと言って、悩む人が少なくないが、私たちの父母や祖父母の時代は貧しさに耐えて強く生きてきたのだ。

  私も、少しはそのような経験があるので、今の時代は、贅沢な時代だと思ってしまう。贅沢に慣れきった現代人は、厳しい時代が来たときに耐えていけるのだろうか。それにしても、日本は大きく変化したものだ。

9歳の松若麿(後の親鸞聖人)が出家する場面。左側は、延暦寺の高僧・慈円、右側は叔父の日野範綱。

(日記 ありがたいことに、今日も、自分のペースで時間を使うことができる。農作業はシーズンオフなので時間がたくさんある。午前中は、区の会計処理、文書の整理などを行った。午後は、紙芝居の絵描き。ようやく、一つの場面が完成した。基本的な絵をたくさん描いておいたので、後、2、3場面は簡単にできるだろう。夏までには全体を完成させたい。)