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自費出版あれこれ(その2)

07 3月

荷造りで嬉しい悲鳴
 全国に一斉に注文ハガキや内容の概要を示すチラシ、推薦文などを入れたダイレクトメールを発送してから数日後。毎日、少しずつ注文のハガキが届き始めた。

 注文を受けたら、その日の夜、仕事から帰ってから荷造りをするのだ。少しでも送料を安くするために、書籍小包にするのだが、段ボールで包装し、書籍であることを示すために小窓を開けなければならなかった。

 ほぼ全てが高校からの注文だ。1冊、3冊、5冊と注文が届くために、段ボールをその大きさに切って箱状にし、小窓をつくるのだが、この作業がなかなか大変だった。

 20人あまりの教職員しかいない沖縄県の高校から14冊の注文が入ったときには感激した。毎日、帰宅したら、家内と二人で包装するのだが、嬉しくもあるがかなりきつい作業で、ピーク時には寝不足になるほどだった。

 段ボールを集めるだけでも大変だった。そうこうしているうちにお金が入ったことを知らせる振替用紙が家に届くことになった。 

少しずつ届いた反響
 本を発送してしばらくすると、本についてのコメントが届くようになった。あるときは、手紙で、あるときは、振替用紙の通信欄に読後の感想が届くようになった。好意的なものが多かった。

 「娘のアメリカ留学の参考になった」とか「アメリカの高校の様子がよく分かった」とか、いろんな行事に関するものなど様々だった。ただ、ここまで来るには相当の苦労があったと感じることも少なくなかった。

 出版社で本を作れば、販売に対しても専門の会社があって、全国の書店に配本してもらえるのだが、全くの自費出版ではそれはかなわない。北海道の人に、沖縄の人に届けるにはダイレクトメールしかない。

 しかし、ダイレクトメールでは不特定多数の人には届けられない。高校が精一杯だった。何とか、一般の人にも読んでいただける方法がないものかと考え始めた。

読者の感想文と書籍を東京の出版社へ
 一人では限界がある。そこで思い立ったのが、特別求めなかったのに、読後の感想を書いて送って下さる方がいたので、これらと一緒に本を出版社へ送ってみようと思い立った。一番多かったのは、振替用紙に書かれた寸評だった。

 どこの出版社がよいか、本屋でここはと思う出版社を見つけて送ることにした。それが東京の三修社だった。外国語系の辞書や教科書や様々な単行本を出版している会社だった。

 「出版しましょう」ということで、ほぼ、修正することなく、出版して下さることになった。表紙デザインは向こうにお任せすることになった。全てお任せなので荷造りの心配も何もない。1年に何度か印税が入るだけになった。

異文化を知る一冊シリーズに
 その後、拙著は三修社によって「異文化を知る一冊」シリーズに加えられた。今度は少し安価な文庫本としても出版して下さることになったのだ。

 その時点では、私はアメリカなどへ行ったことがなく、この『アメリカの高校生~イリノイ州セントラリア高校の全て~』を書いたのだが、雑誌社から原稿を書いてくれとか、引用させてくれという注文まで来ることになった。

 全くの予想外の展開だ。最初から、出版社へ持ち込んだところで見向きもされなかっただろうと思う。読者の皆さんの反響が私の背中を押して下さり、それが出版社の目にとまり、思わぬ展開になったのだ。

 その後、私は文科省の教育視察団となって、約1ヶ月間、海外の高校の教育について学ぶ機会に恵まれた。アメリカでは逆に自分の作った本の通りだろうかと思いながら視察したものだった。

 今、私は次を狙っている。今度は漫画本だ。自費出版を覚悟で、出版して下さるところがないかと思案している。そして、少し光が見えかかっている。何とか、夢が正夢になってほしいと願っている今日この頃である。

中央が自費出版したもの。左が三修社で最初に出版されたもの。右が、文庫本で出版されたもの。
 
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自費出版あれこれ(その1)

06 3月

自費出版の苦しみ
 現役時代、高校生(女子)が1年間の海外留学を終えて帰ってきた。私は、早速,彼女にあれこれアメリカの学校生活について聞いた。彼女は、自分の経験したことは、よく知っていた。

 しかし、高校生活全般、部活動、サークル活動、行事、教育行政などについては分からないことも多かった。それは当然のことであろう。日本の高校生に、2年生になったとき、これらの全てを聞いたところでどれだけ答えられるだろうか。ほとんど答えられないだろう。

私が編集長で彼女は記者のようなもの
 そこで、彼女に、「春休みに、もう一度アメリカへ行って取材してきてくれないか?」と頼むことにした。すると、彼女は「嬉しい、もう一度アメリカへ行ける。ホームステイした家族と会える」ということで、私の申し出を快諾してくれた。

 彼女は、100以上の質問(取材項目)と私のカメラを持ってアメリカへ向かった。彼女がアメリカにいる間中、ずっと無事だろうかと案ずることになった。ほどなくして、彼女は取材を終えて、無事帰国してくれた。

 そんな中で、一番の収穫は、アメリカの『イヤーブック(日本で言う卒業アルバム)』の編集部からカメラのネガをもらってきたことだ。これは、編集部の写真担当の生徒10名あまりが一年間かかって写した写真のネガだから、とても貴重なものだった。 

 個人が一年間アメリカへ留学したからと言って、写せる量と種類ではない。一級の貴重品だ。ナイターのフットボールや野球の試合などもあるのだ。インタビューの録音テープもある。

膨大な英語資料をどうするか
 今と違って、翻訳ソフトもない時代だ。膨大な英語の資料を訳さなければ原稿など書けない。そこで、わら半紙にハガキ大の英文を張り付け、1枚200円で訳してもらう作戦に出た。

 日本人が必死になっても分からない部分がある。それは、アメリカ独特の行事などだ。例えば、「ホームカミングウイーク」など何のことだろうと思うかも知れない。

 そんなときは、当時、福井県にただ一人の外人英語講師が毎週木曜日の午後には教育研究所におられるということで尋ねていって質問させていただいた。幸いその時期は定時制勤務だったので、上司の許可を得て出かけることができた。

 原稿の校正は、1年先輩のY先生に我が家で泊まっていただいて、ウイスキーを飲んでいただきながら作業をお願いした。あるときなど、食事の後、蛍を捕ったりして遊んだ後、ウイスキーを飲んでいたら、その日は眠くなって作業なしということもあった。

 こうして1年がかりで要約原稿ができあがった。印刷は行きつけの印刷屋さんだ。予算もないのに、印刷して下さった。あるときに払えば良いという寛大なものだった。そして、3,000冊の本ができあがった。

どうして注文を取るか
 玄関に積まれた3、000冊の『アメリカの高校生~イリノイ州セントラリア高校の全て~』を前に呆然とした。これをどうして売りさばくか。地元や福井の本屋へ置いてもらったところで知れているだろう。

 全国の書店へ送るルートは個人にはない。ダイレクトメールで全国の5,000の高校の英語科と図書館へ送ることにした。と言っても、A2版の宣伝のチラシを郵送するのだ。

 10,000通の手紙の切手代が70円×10,000通=700,000円だ。三色刷のチラシ印刷代も馬鹿にはならない。それに、10,000通の宛名を家庭で書けるずがない。

 チラシを封筒に入れるためには相当折り曲げなければならず、それに、推薦状や振替用紙なども入れなければならない。高校生数人を弁当付きのアルバイトで雇い、必死に宛名を書いてもらった。郵便番号がない時代なので大変だった。

  結局、1、000,000円ほど、ダイレクトメールのために費やすことになった。お金が羽を生やして飛んでいく。これで本が売れなければ、大変な赤字だ。果たして注文は来るだろうか。  (その1 終わり)

 結局、1、000,000円ほど、ダイレクトメールのために費やすことになった。お金が羽を生やして飛んでいく。これで本が売れなければ、大変な赤字だ。果たして注文は来るだろうか。  (その1 終わり)

自費出版した『アメリカの高校生』(表紙に使った写真は全て卒業アルバム制作スタッフが撮影したもの)

 
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通信教育っておもしろい!

05 3月

漫画の通信教育
 私は小学校時代から漫画を描くことが好きだった。クラスには他にもマンガの得意な者もいた。中学校になってから、マンガの通信教育を受けることにした。そこではデッサンをやったり、絵を真似たり、実際に4コマ漫画を描いたりと、色々課題が出てそれらを郵便で送ったりしていた。

 漫画に関しては、高校時代には、親戚のおじさんが勤めていた学校の卒業生が漫画家(主に貸本漫画を描いていて、時々大手出版社の付録漫画なども描いておられた)だということで、色々漫画の指導だけでなく、漫画界の裏話なども聞かせていただくことができた。

 ただ、この時期は、数多くの月刊雑誌が季刊雑誌になり、最後に次々と廃刊になるというような状態で、漫画界「冬の時代」と言われるような時期だった。それはテレビが出現したからだ。私の師匠の漫画家も、転職して仲間と看板屋を開業するような時代だった。頂点に君臨しておられた手塚治虫先生なども「これからは一部の実力者しか生き残れない」と言っておられたそうだ。師匠も、私に「他の道に進んだら」とアドバイスをして下さったりした時代だった。

 その時期、厚かましくも、政治の一コマ漫画を描き、地元の新聞社へ送ったりもした。「絵はかなり達者だが、社会風刺が弱い。大人になったら、もう一度挑戦して下さい」というような返事をいただいたりもした。今もチャンスをうかがっているのだが。

 考えてみたら当然だろう。高校生が政治漫画を描くなんて世の中を甘く見すぎていたかもしれない。アメリカのアイゼンハワー大統領とソ連の最高指導者フルシチョフ氏を扱ったものだった。そのことだけは今も覚えている。

【左】紙芝居『大野はげっしょ鯖物語』 【右】出版物の挿絵

作曲の通信教育
 その後、有名な作曲家の名前を冠した作曲の通信教育を受けることにした。小学校時代はハーモニカ、中学校時代から、ギターに触れていたので音楽には興味があったからだ。

 それに、親父に感化されて和太鼓にも触れていたので、大学時代は軽音楽クラブでドラムをやったりもしていた。ここまでは音楽も遊びでよかったのだが、2度目に赴任した小中学校(の中学部)では、音楽を指導するように頼まれてしまった。小学校にも中学校にも音楽の先生がいなかったのだ。

 かといって、私はピアノのピの字もできないド素人。お礼の「♪ボーン、ボーン、ボーン♪」さえも知らない。最初に赴任した学校の女先生にお礼の弾き方だけは習って以後使ったのを覚えている。

 そして、今でも、手が震えたことがあったことを覚えている。卒業式の時のことだ。教頭の号令「一同敬礼!」で私が「ボーン♪ボーン♪ボーン」、それに合わせて全員がお礼をするのだ。すかさず教頭の「君が代斉唱」で私の前奏が始まるはずだったが、一瞬、白黒の鍵盤が均等に見えてしまって、「どこを押さえればいいのだ~~」と手が震えている。何とか、少しの間合いで前奏開始。冷や汗ものだった。

 二年後に、音楽の得意な先生が小学校に赴任してきて式典からは解放された。しかし、中学校の音楽の授業は続き、連合音楽会では合唱の指揮。慣れないことの連続。でも、小規模校ならではの経験をいろいろさせてもらった。

「親の意見と茄子(なすび)の花は千に一つも無駄がない」と言うが
 その後も、いろんな通信教育を受けた。『挿絵』の通信教育。『建築パース(透視図)』などだ。途中で挫折したものもある。挫折しても、どこかで何かの役にたっている。

 長い間、数学の教員をやっていたが、そんな時、立体的な図を描く場合には少しは役に立ったのではないかと思う。退職してから、特に日曜大工をやるようになったが、完成図を描いたり、途中で木組みの立体図を描いたり、様々なところで役立っている。

 音楽も、地域に伝わる民謡の採譜を行ったり、なければ新民謡をつくったり、歌をつくったり編曲したり、CDをつくったり、バンド活動を行ったりと、退職後の人生を活き活きしてくれている。

 『親の意見と茄子の花は千に一つも無駄がない』ということわざがではないが、『若い頃の道草は、いつか人生の花と咲く」と言いたい。若い頃、真剣に取り組んだことは、第一、第二の人生に大いに役立つと思う。仕事にも、退職後の生き甲斐づくりにも、まちづくりにも大いに役立っている。どこかで他人の役にも立っていると実感している。

 レベルは低いが、数学と漫画の二刀流、漫画と音楽の二刀流、それぞれが新たな価値と楽しみを生み続けていると思っている。若い頃学んだことは、本当に無駄がなく、日々の活力に繫がっている。

【左】OBバンドの練習 【右】卒業式でのピアノ担当……「式次第」には「開式の辞」「一同敬礼」
「君が代斉唱」……の文字が見える。

  

 
 

我がまちをどうするか

04 3月

現行中学校再編案がベストか?
 今回は、下のイラストマップを見て、「現行の3中学校を廃校にして、勝山高校の敷地に新しい中学校を建設する案がベストなのか?」をよく考えていただきたい。今が、考え直す最後のチャンスかもしれません。

勝山は九頭竜川に沿って細長く伸びているまちです。中央部は山に挟まれて狭く、両端が広がっている地形です。

まちづくりの観点から見てどうでしょうか
 〇子育てのしやすいまちになるでしょうか?
 〇いつまでも住み続けたくなるまちになるでしょうか?
 〇誰もが夢や希望のを持てるまちになるでしょうか?
 〇他の地域から住んでみたいと思えるようなまちになるでしょうか?
 〇子ども達が地域と繫がって楽しく暮らせるまちになるでしょうか?
 〇誰もが、いつでも、子ども達の生き生きした姿に出会えるまちになるでしょうか?
 〇バスや自家用車でしか通えない学校をつくって、将来の子ども達に誇れるまちになるでしょうか?
 〇コンパクトに教育施設を一カ所に集めることによって子ども達が伸び伸び育つまちになるでしょうか?

慌てずに、今一度、考え直してもよいのではないでしょうか?

一度決めたら、簡単には引き返せないのですから

 

 

K君との出会い

03 3月

プログラミングで遊ぶ
 一昨年から1年あまり、小中学生のプログラミング教室に付き合った。そして、子ども達の活動の様子をいろいろ見てきた。2020年から日本の学校でプログラミング教育が始まった。しかし、それらが始まる前から会社を経営しているMさん達が勝山でプログラミング教室を開いていた。

 勝山市は細長いまちだ。そんなまちでやや最初は、北部寄りにプログラミング教室が一カ所あるだけだった。そこで、南部地区にもということで、一昨年から私の建物(山児童館)を使って、2カ所目のプログラミング教室が開かれることになった。

 そんな子ども達の一人に6年生のK君がいた。彼は、プログラミングについては、小学生ながら高校級の能力があるように思えた。他の子ども達とは段違いの能力があったのだ。

 他の子ども達は、基本的なBASIC言語でどうにかプログラミングをやっている程度だったが、彼はいくつかのコンピュータ言語を操り、いろんなゲームをつくったりしていた。また、コンクールにも入賞したりしていた。

 彼を見ていると、プログラミングは創造的な活動だということがよく分かる。モノ作りの一つだ。そして、プログラミングで遊べる域に達しているのだ。時々私が「こんなモノ作れる?」というと、彼は必死でそれらを形にするのだ。すごいと思う。

 そして、私たちは、彼が中学校に入学すると同時に、中学校にプログラミング部ができるよう学校側にお願いして部ができた。といっても、なかなか生徒が集まらないのが悩みだ。プログラミングで遊べる域に達するまでにはかなりの努力が必要だから、簡単に入部しないのだろうか。

 そうこうしているうちに、北部寄りの教室が場所の都合で閉鎖することになり、南北一つになって私の建物を離れ、昨年4月から、市民活動センターに移った。

 フリーになった私は、小学生、先生方、新たにプログラミングを始める方々の何かのお役に立ちたいということで、昨年1年間はもっぱらプログラミングの漫画を描くことに専念し、ようやく完成したのだ。

 このマンガの中で使われる『イチゴジャムベーシック』の開発者、福野泰介氏がこのマンガの監修をして下さることになった。近いうちにどこかで出版できればと思っているが、ダメなら自費出版もやむを得ない。

プログラミングを始める前の基礎の基礎

 

プログラミングの第一歩

K君との久々の再会
 今日、久しぶりにK君と会った。昨年はあまり接する機会がなかったが、今年は時々会おうかと話している。私は、プログラミングに関しては基礎の基礎も怪しいレベルだ。しかし、彼と話していると、次のマンガを描く参考になるし、いろんなアイディアを形にしてくれるのでとても楽しい。

 彼は、昨年、福井県の『カニロボコン』で念願の優勝を果たした。私は、プログラミングでは全く遊べないが、彼の作品の感想ぐらいは話すことができる。それが、彼の作品をよくすることに繫がればと思っている。

 14歳と80歳だが、プログラミングに於いては仲間同士だ。いや、彼の方がはるかに私の前を歩いている。私は、今からプログラミングを始めようとする超初心者のお手伝いでもできればと思って、次回作のマンガのアイディアを練っている今日この頃である。

 1+1が3になるようになればと思う。次回作は『ゲームで学ぶプログラミング』にしたいと思っている。そして、これらを卒業して、本格的なプログラミングを始めてほしいと思う。プログラミングの世界で遊んでほしい。

 プログラミングに関係のない人も、困りごとやアイディアを若い人たちに伝えていってほしい。きっと、プログラミングはその解決の一助になると確信している。

 
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「高校の先生の移動が楽だ」に違和感

02 3月

中学生の移動はもっと大変ですよ
 中学校再編に関して、市の関係者や準備委員の発言を聞いていて、いつも違和感を感じるのが次の発言だ。
「中高を併設すれば、高校の先生が簡単に中学校の教室へ行くことができる」というものだ。

 現在の計画では。英語と数学の授業で中高の教員のTT(チームティーチング)を実施するという。中学3年になったら、週に一度実施するとのことだ。高校の教員に事前の説明があったのだろうか。

 TTなどでは、高校の教員が簡単に中学校の教室に出向くことができるとの考えからの発言だろう。もちろん、他の場合もあるだろうが。

 中高併設すれば教員は容易に移動できるが、その裏では、併設によって遠距離通学を強いられる生徒がその何十倍も生まれるのだということに想いを馳せてほしい。毎日、数百人の生徒がバスや家庭の送迎、自転車で学校へ通うことになるのが統廃合によって生じる現実なのだ。 

 文科省の規定では、「中学生の通学距離は6km未満であることが望ましい」としている。しかし、特例としてそれを超えても認めるとある。あくまでも、特例によって認められるということだ。

 今回の再編によって、通学距離が6kmを超える生徒達がたくさん生まれる。6km未満でも通学は大変だろう。3kmを超えたらバス通学をしてもよいと決めてるそうだが、それは3kmを超えても通学は大変だからだろう。

 距離の遠近にかかわらず、中学生の多くは日々の登下校に対しては苦労するだろう。施設を共有しなければならないので、時間的には、何もかも高校生に合わせなければならないからだ。特に下校となると、季節によっては早く暗くなり、寒くなって心細いことだろう。

 大人は、5kmや10kmの距離は、車で10分程度で移動できるだろう。今後、間違っても、「併設によって、高校の先生の移動が楽になる」などと発言してほしくない。説明会などで、こういう言葉を市の幹部から何度も聞いたが無神経なことだと思う。これは他の人たちからもよく聞くので、一度書いておきたいと思う。

 それと同時に、事ある毎に、「併設すれば高校の先生の授業を受けることができる」とメリットとして繰り返すのもどうかと思う。義務制の教員に対して失礼ではないかと、少なくとも私は感じる。両方を経験しているから尚更だ。

勝山南部中学校の周囲には住宅地や田んぼが広がる。

 

ものには長短、裏表あり

01 3月

どんな立派なモノにも長短はある
 私たちの生活に欠かせない車だが、その良さは今更言うまでもないだろう。しかし、その裏で、車の事故で何人の尊い命が失われていることであろうか?

 いくら悪気がなくても、事故は起こるのだ。そして、かけがえのない命が失われ、甚大な後遺症が残ることもある。交通事故死のデータだけでは、本当の姿は分からない。なぜなら、交通事故死の定義は、24時間以内になくなった方の数だからです。実際には、もっと多いのです。

 新幹線はありがたい。これもそのメリットは言うまでもないだろう。しかし、その裏では生活の足である在来線の経営は悪くなる一方である。通勤・通学の足となるのは、細かく停車する在来線だ。しかし、新幹線に客を奪われてダイヤは間引きされ、運賃は上がり、挙げ句の果てに廃線となりかねない。

 また、在来線はマイカーの影響をもろに受けやすい。北海道では少子化と共に、こうした影響を受けて次々と廃線になっているのだ。必ずしも、新幹線万歳とも言えない。

 デメリットにも目を向けて対策を考えてほしい。それが心の通う行政というものあろう。

行政は公正な判断を
 今我がまちでは、中学校の再編問題が起こっている。高校の敷地の中に、体育館もグラウンドも特別室も持たない勝山の中学校を建設するというのだ。既存の三つの中学校を廃校にしてのことだ。

 これだけ聞いただけで、メリットを感じるだろうか。現市長も前市長も市会議員の大半も市教委も、メリットばかりを強調している。そして、ホームページで、市の広報誌で、時にはLINEを送り付けたりしてメリットを強調している。

 市民説明会を何度開いても、「勝山高校に併設したらこうなる」と、現場の中高教員が一番懸念する勝高併設の部分を避けてメリットばかりを強調する。「県下に誇るジオアリーナがあり、長山グラウンドがある」ともっぱら強調する。

 勝高グラウンドは、高校が使うだけでも狭いので、ここに中学校の校舎を建てたら、尚更狭くなる。中学校は長山グラウンドで部活動をやれと言っても不可能(準備委員も指摘)。ジオアリーナも高校が部活動で使うので、今は半分程度しか空いていない。ここで、大きくなった中学校の全ての部活動ができるわけがない。(これも準備委員が指摘)

 思考を停止すれば、市の説明に納得してしまう。それは、明けても暮れてもメリットばかりを強調するからだ。今や現役の教職員も高校併設前提の意見しかいわない。市民が一番疑問視している「勝高併設」の部分には触れない。

 残念ながら、今の勝山には、忖度と、沈黙と、なれ合いと、思考停止が横行している。市が動いて、県(県教委)が動いて、多くの議員が賛同をしているので、「いまさら元に戻すのか」との声の方が大きくなって、市民の無力感が増すばかりだ。

 「もう決まっているんにゃろ」は多くの市民から聞かれる声だ。もっと市民の、特に中高生の声を聞ける行政であってほしい。デメリットも含めて。判断はそれからだ。

 どんな人が聞いたって、子ども達が聞いたって、「グラウンドも体育館も特別室も持たない市内唯一の中学校を、あまり広くもない高校のグラウンドの中に建設する」と聞いたら、おかしいと感じるだろう。私はそう思った。

 これでメリットばかりを強調する市の姿勢に、私は諸手を挙げるどころか、我慢しても賛成できずにいる。我が子も我が孫も、既に勝山にいないので、無視できたらどれだけ楽になるだろうと何度思ったことか。

 私の中の私が沈黙を許さない。いかに、どのようなレッテルを貼られようとも……!黙っていたら私が私でなくなる!

「ここが君たちの新しい中学校です」って言えますか?
 

衰退する村祭り

28 2月

祭りを待ち焦がれた子ども時代
 今日は猪野瀬地区活性化委員会。「ニコニコ地域づくり委員会」の活動、地区の行事、まちづくりなどについて、色々話し合った。

 その中で少しだけ「村の祭り」について話題にした。どの集落も祭りが低調になっているようだ。その上、コロナで尚更簡略化し、神事を行うのがやっとだ。提灯を吊ったり、幟をあげたりするなどの祭りの準備さえ簡略化している集落もあるらしい。

賑わった秋祭り
 かつては、村の祭りと言えば、露天の店が何軒か並んだり、大人の相撲があったり、民謡踊りがあったり、太鼓の野良打ちなどがあったりして、それは賑やかであった。家では、親類が集まり、泊まっていくのもごちそうだった。

 この日ばかりは、料理屋から祭りの料理を注文して客をもてなしたりしたものだ。当日は、神社へ出かけるのも、酒を酌み交わし、ごちそうを食べ、千鳥足になってからだ。

 家族はもてなしに忙しく、踊っている場合ではない。帰宅してからも、雑談をし、酒を飲み直すのが常だった。翌日の「後祭り」に、ようやく家族も神社で踊ったりしたものだ。子ども相撲は大概この「後祭り」に行われていた。

 子どもの頃は、祭りさえあれば楽しかったが、それなりの大人になると、秋は祭りで客を呼ぶのも大変だが、呼ばれるのも大変だった。秋は、週末になると祭りのために忙しかった。

衰退する村祭り
その後、秋祭りはすっかり衰退してしまった。いろんな娯楽が出てきたからだろうか。精神的に余裕をなくしたこともあるかもしれない。なぜならば、農家の忙しさと来たら、それこそ比べようのないくらい昔の方が忙しかったと思う。何しろ、家庭には車などはなく、農業機械もほとんどなかった。

 田んぼを耕すのは馬や牛で、後は全て人力であったし、煮炊きするのも全て薪で、その薪は農閑期に準備しなければならない。単調な農作業は、家族だけでは大変なので、近所が集まって作業をする「結い」で行ったりしたものだ。

 年柄年中働いていなければ食べていけないのだ。それでも、秋の祭りは、若い衆祭り(前々日)、弓矢(前日)、本祭り(当日)、後祭り(翌日)と、数日間はあった。精神的余裕がなければこんなことをできないだろう。

 その後、祭りはどんどん低調になっていった。抽選会やカラオケが精一杯だったが、それも下火になっていった。昔の盛んだった面影はない。祭りは当日だけで翌日は片付けてしまう。露天商はなし。太鼓もなし。音楽ばかりが鳴っている。近年そんな祭りになってしまった。

祭り復活を目指して
 そんな低調な祭りを何とかしたいと、あるとき区長が相談をかけてきた。私は、二つの提案をした。一つは、女の子には“浦安の舞”を取り入れたら。

 女の子達は、小学生の頃は子供会などで村の人も少しは顔を覚えているが、中高生になると、どこの誰だか分からなくなり、就職したり、お嫁に行ったりして知らぬ間にいなくなっている。

 そうではなく、村の祭りのヒロインになってほしいとの願いからだ。神社で厳かに“浦安の舞”を舞えば「どこの誰?」と注目され、拍手喝采、村の子としての存在感もあるだろう。単純な発想だが。

 もう一つ提案したのは、片瀬に大正時代、もしかしたら、もっと前から伝わる「銭太鼓の復活」だ。といっても、これまでは村の誰かが、島根県の「安来節」と「銭太鼓」と「ドジョウすくい」を伝えたものだ。「♪いずーもーー、めいーぶーーつー♪」では片瀬の郷土芸能にはならない。

 しかし、この「安来節」はある時期、片瀬の若い衆が勝山劇場でもやったというくらいこの地区ではちょっとした芸になっていたのだ。そして、私が結婚したときには、青年団がこれらを演じ、花婿もみんなといっしょに銭太鼓のバチを振るうことが伝統になっていたのだ。 

 しかし、その後すっかり廃れてしまったので、これをリニューアルして片瀬の祭りの演し物として伝えようというものだ。「浦安の舞」は他の者に任せて私は「銭太鼓」のリニューアルに取り組んだ。

 そして、生まれたのが、「片瀬豊年囃子」である。ドジョウすくいからは完全に脱却したが、ユーモアだけはいただくことにしたのえだる。歌も伴奏もみんな生。これは,片瀬を飛び出して、市内はもちろん、市外でも演じることができるほどに育ってくれた。

【写真上】村の祭りで 【写真下】永平寺町上志比で
銭太鼓の合間に演ずる百姓芸。演技の間もこの『片瀬豊年囃子』が生で歌われる。
『片瀬豊年囃子』:三室祭りの野外ステージにて

コロナで全てが振り出しに
 しかし、コロナと共に、村の祭りは低調になってしまった。二つの芸も祭りでの出番を失ってしまった。そして、村の祭りは、抽選会だけのさみしいものになってしまった。昨年は、神社へお参りした者は抽選券を抽選箱へ入れるのだ。当たっていれば、後日、役員が商品を家庭に配ってくれるのだ。

 今後、秋祭りはどうなるだろう。今日、猪野瀬の活性化委員会に出席していて、「今の時代にあわせて何とかしたい」と改めて思った次第。昔はまだまだ忙しかった。余裕を失ってはいけない。そう思いながらこのブログを書いている。

 
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子どもの伸びる力を止めるのは誰?

27 2月

小規模中学校時代の思い出~子ども達の自主性を奪うのは誰?~
「我々は生徒達に手をかけすぎているのではないのか?」「生徒の自主性を奪っているんじゃないか?」
そんな話が、平泉寺小中学校の教員の間から出て、「校内運動会をなるべく、子ども達の手でやってもらおう」と決めた。教員は完全に脇役に回ると決めたのだ。

 運動会前日、私たち教員はグラウンドの端にある高台にのんびり座って、生徒達の準備状況を見守ることにした。誰もが、どちらかと言えば生徒達に何かアドバイスしたくて、うずうずしている。

 それでも、お互いに「言ったらあかん」、「行ったらあかん」と牽制し合って高台から生徒達の準備状況を見つめていた。といっても、生徒が聞きに来た場合だけは答えるという約束の元にだ。

 生徒達は、黙々と準備を続けてくれた。トラックの白線も引き、翌日に各競技で使うリレーのバトンや、綱引きの綱など様々な準備物も所定の位置に並べてくれた。何もかも自分たちの手で行ったのだ。

 運動会当日の朝、少し雨が降ったらしく、コースに水たまりができていた。 ところが、誰も指示しなくても、一輪車で砂を運び、ぬかるんだコースに砂を撒いてコース整備をしているではないか。

 もしも、教員が主導して運動会を行っていたのなら、「誰々、一輪車で砂場から砂を持ってこい!」と大きな声で指示を出していたことだろう。同じ作業をするにしても、子ども達の気づきや気分はずいぶん違ったものになっていたであろう。まかせればできるのだ。

上級生になれば何でもできるのだ。準備も、大会運営も。

子どもの考える時間を奪うのは誰?
 教員はせっかちであることが多い。子ども達に質問を投げかけてはいるが、十分に考える時間を与えなかったり、誰か一人でも答えると一見落着とばかりに、改めて懇切丁寧に説明を行うのだ。そんな授業を参観しことがある。

 最初はなぜだろうと、参観している大人も一緒に考えようとしたが、授業をしている教員が次々と丁寧に答えを言ってしまうのだ。こんなことを何度も繰り返すので、早くこの授業が終わらないかなと退屈をしたことを思い出す。

 子どもの、考える時間や機会を奪っていることになる。できる子が勝手に答えを言ってしまうのも、仲間の考える機会を奪うことになる。

子どもの能力を決めつけるのは誰?
 小さな子どもに「ぼく、いくつ?」と質問したとしよう。子どもがもじもじしていたり、小さな声で答えると、そばにいた大人がすかさず「三歳でしょ!三歳!」と余計なことを言う。今から答えようとしていてもお構いなしだ。

「お父さん何しているの?」と聞いたとき、子どもが少しでもモジモジしていたら、すかさず親が横から「会社でしょ?かいしゃ!」と、子どもに代わって答えてしまう。子どもの考える機会も時間も親が奪っているのだ。

 挙げ句の果てに「ウチの子どもは引っ込み思案で困ります」とか、「ウチの子どもは運動はからきしダメで」とか、「ウチの子どもは算数は全くダメなんです!」と自分のことを棚に上げて親が決めつけてしまう。

 子どもは将来どう伸びていくのか誰にも予想できない。子どものうちから、あれができない、これができないと決めつけるのは止めたいものだ。子育てマイスターとして、幼児の保護者にいつも言ってることの一つだ。「決めつけたり、けなしたりするのではなく、褒めてあげて下さい」と。

 

小規模校での経験

26 2月

小規模校での経験
 私は、教員生活3年目に、平泉寺小中学校の中学校1年(1学年1クラスのみ)の担任になった。自分はそれなりに、一生懸命生徒達の指導にあたってきたが、それでもこれでいいのだろうかという不安はあった。

 「井の中の蛙、大海を知らず」になってほしくない。山村の小さな中学校の子ども達のことだ。何とか、大きな中学校で、その様子を見て来て、クラスの他の生徒達の刺激になってほしいという願うようになった。

 そこで、当時の中村一郎校長先生(我が生涯で最も尊敬する先生)に、「子ども達を勝山中学校で一日過ごさせてもらえませんか」とお願いすると即座に「いいでしょう」という返事。

 私のクラスの希望する生徒4人は、1学年7クラス(だったと思う)の勝山中学校のT先生のクラスへお世話になることになった。とにかく、朝の会から、授業、帰りの会、そして、部活動まで、全て勝山中学校の生徒として過ごすのだ。

 そして、生徒達は、何事もなく楽しそうに帰ってきた。少しは勉強してくれただろうと思っていた。ところが、こちらが忘れかけた頃に、今度は、勝山中学校のT先生のクラスだけではなく、他のクラスからも、「平泉寺中学校で勉強させてほしい」という申し出があったのだ。

 事情を聞いてみると、驚くことに勝山中学校の生徒達が、4人の生徒の言動に刺激を受けたというのだ。T先生のクラスの成績は学年でも下位の方だったらしい。ところが、平泉寺の4人に刺激を受けて、急に勉強に励むようになり、クラスの成績が学年で上位になったというのだ。

 そのため、この話を聞いた他のクラスの先生方も、平泉寺中学校で勉強させたいということになったらしい。勝山中学校の各クラスから希望する生徒が平泉寺中学校の私のクラスにやって来て、平泉寺の子ども達と一緒に授業を受けることになったのだ。(当時、勝山中学校の先生方も心が広いなあと思ったものだ。)

4人のサムライ
 このことをT先生は当時の学校の新聞に『4人のサムライ』というタイトルで寄稿されたのだ。学校というのは、大きさだけが大切なのではない。何を学ぶかではないかと思う。

 前をしっかり向いた校長がいること。できれば数年は同じ学校で勤務すること。そこに、前を向いた教員が少なくとも、何名かはいること。そうすれば、学校はきっと、前に向かって進むことになる。生徒も先生も。

 同じような経験は、小規模校ではないが、高校教員になってからも、経験することになった。ある時期、成績低迷していた高校が一躍進学校に。そして、甲子園出場まで果たすことになったのだ。

 ちなみに、高校の校長は地元出身で5年間継続して勤務して下さった。生徒にも、先生にも檄を飛ばし続けられた。『事を為すのは人である』と考えるようになったのは、このようないくつかの経験から得た確信から来ている。

1学年1クラスの中学校。これで駅伝も、連合体育大会も、合唱コンクールも、スキー大会も出場するのだ。
令和5年 左義長まつり『どんど焼き』 皆さんの幸せをお祈りしてきました。