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小規模校は不利か

31 7月

平泉寺小中学校の思い出
 私の最初の赴任校は大野市の上庄中学校であった。当時の上庄中学校は、各学年4クラスの中規模の学校であった。ソフトボール、バスケットボール、スキー、ブラスバンド、水泳などが盛んな学校であった。

 その後、希望はしなかったが、突然勝山市の平泉寺小中学校へ転勤することになった。この学校は、幼稚園があり、小学校から中学校までが同じ敷地で生活を送っていた。

 中学校は、途中で2クラスになったが、それにしても規模の小さい学校であった。私は、専門の数学の他、音楽は中学校全クラス、美術は自分のクラスを持つというように免許以外の教科も指導することになった。

 当時は、中学校の学校再編が行われていて、中部中学校ができたところであった。ただし、その時点では、勝山中学校も存在していた。中学校は、勝山、中部、北部、平泉寺の4校であった。

小規模校の教員としてテレビ出演
 統廃合により、中部中学校は大きくなったのだ。まだその時点では、平泉寺は小中学校併設校であった。学校が大きくなるとこう変わるということで中部中学校でのテレビ局の取材が行われ、続いて、小規模校は大変だということを映像で紹介するために平泉寺へテレビ局が取材に来た。

 私が小規模校の教員の代表として、取材を受けることになった。数学の授業をしていたかと思うと、次は音楽の授業をしているということで、音楽室へ入る所や、子ども達が歌を歌っている場面が撮影された。そして、テレビで放映された。

 その後、平泉寺小中学校は、同じ敷地にいながら、平泉寺小学校と、勝山中学校平泉寺仮教場(平泉寺中学校)とに分かれた。その後しばらくして、勝山中学校平泉寺仮教場は、新しく開校した南部中学校に統合されてなくなってしまった。

 私の教員としての原点は、この平泉寺小中学校にあると思っている。教員としての基礎をこの学校で学んだと思っている。特に校長のN先生の考え方に大きく影響を受けた。私の第一の恩師である。

 特に、N校長が学校目標に掲げた「人間信頼の感情を育てる」は、今も古くはなってはいないと思っている。

「平泉寺に学べ!」
 私が中学校の担任であったときのことだが、校長にお願いして「子ども達を勝山中学校へ一日留学させてほしい」とお願いしたことがある。森の中にある1学年1クラスしかない小さな学校では、井の中の蛙になり視野も狭くなるだろうということで考えたことであった。

 そこで、1学年7~8クラスある勝山中学校へ一日留学して、町の中学生がどのような生活をしているのかを学んできてほしいという願いで、懇意にしていたT先生のクラスで4人の生徒達は、授業を受けることになった。

 実際にはどうであったかというと、T先生は平泉寺の子ども達のことを「4人の侍(だったと思う)」というタイトルで原稿を書いて下さり、その活動ぶりを紹介してくれたのだ。刺激を受けたのは、山の学校ではなく、町の学校の方だったのだ。

 T先生のクラスの成績は学年でもよくなかったそうだが、私のクラスの子ども達の影響を受けて、一気に成績が上昇したというのだ。そのために、今度は、「平泉寺に学べ!」とばかりに、勝山中学校の他のクラスの生徒までが、私のクラスへやって来て授業を受けるということになったのだ。

 運動面でも、数の少なさを補ってなお余りある活躍をしてくれた。学校長以下教職員と児童生徒が一丸となって、前向きに日々の学校生活を送れば、それなりの成果が上がり、学校の規模を乗り越えられるということを私は確信した。

 小規模校の不便さを表す代表としてテレビには出たが、小規模校イコール不都合であるとは今も思ってはいない(ただし規模にも限度はあるが)。今また、学校の統廃合が問題になっている。当時を思い出して書いてみた。

どこかなつかしい線香花火の光と音

 

(日記:午前中、仲間と話し合い。午前11時より、「ゆめおーれ」で夏祭りについて打ち合わせ。午後は、家内と共に和太鼓の消音のためのパッドづくり。和太鼓の練習で一番困るのは大きな音がすることだ。夜、孫達と花火。)

 
 

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