通訳になれないか
通訳といっても言葉の通訳ではない。ネットでは「通訳とは、 ある言語を他の言語に変換し言語が違う人達の意思疎通を図る仕事。 主にその場にいる人たちの会話を訳すのが仕事。」とある。私の意味する「通訳」はこれではない。
絵を描きながら、テレビの『未来へ~福島の復興は今……』を聴いている。現地と、それ以外の土地では、感じることが全く異なるようだ。現地の人たちの思いは、福島から離れれば離れるほど伝わらない。
福島では、当分の間(場合によっては半永久的に)故郷へ帰れない地域、高齢者は戻ったが子どもたちが戻らない地域、新たな土地で生活を始めた人たちなど、いろいろである。
名もなき福島の人たちの本音を、避難所におられるお年寄りの方々の本音を、福島以外の人たちに伝えるという意味の「通訳」だ。テープレコーダにとってそれを伝えるというのではない。そんなテープは聴いてもらえないだろうから。
お聞きしたことを、文集にしたり、歌にしたり、時と場合によっては、紙芝居にしたりして伝えるということだ。考えてみれば、人間は一人一人にドラマがあると思う。昔は、「おしん」のような人は日本全国には沢山いたのではなかろうか。
「おしん」の時代には、皆同じような生活をして生き抜いてきたのだ。同じように、今、福島では「おしん」の時代とは別の意味で、苦労しておられる方が沢山おられるのだ。
現地には、そんな声を詩にして朗読しておられる人もおられるようだ。私も、マスコミや芸能人の伝えない声なき声を形にして伝えられないのだろうかとおもう。テレビの音声を聴いているうちにそんな気道になってきた。
福島の人のことを思うと、居ても立ってもいられない気分になる。電力会社や政府には本当の声が聞こえているのだろうか。今日の放送を聴いていると、疑わしい気持ちになってくる。
「安全だから、原発を動かせ」という電力会社や地元の人たちの声がどんどん大きくなっているが、福島のけりがつく(結果が明らかになる)まで待ってもよいのではなかろうか。
(日記 農作業をするつもりでいたが、今日も雨。部屋の整理、資料の整理、図書館の本の返却などでほぼ一日が過ぎてしまった。のんびりと図書館で雑誌などを読みたいと思うが、退職したのになかなかできない。今日は、ほんの少ししか、紙芝居の絵を描くことができなかった。)