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一年中、お祭り気分でいいのか?

21 5月

毎日がお祭り気分
 どうも最近は、一年中お祭りのようである。食べ物を考えてみても、以前なら祭礼時にしか口に出来なかったご馳走が簡単に毎日でも手にはいる。

 一年に数回しか見られなかった映画が、今ではテレビなどで自由に見られる。また、録画装置や安価のDVDのおかげで映画も家庭で見られるようになった。

 今では、昔、村の道場で見たアドリブ入りの無声映画が懐かしくさえ思われる。

 テレビの番組を見ると、バラエティーと称するドタバタが多いが、これらもお祭り風である。年がら年中落ち着きがなく、あまり見る気もしない。このような番組が多いのも、視聴者のニーズがあるからだろう。

 こうしたマスコミの影響によって、タレントの日常を若者が真似ているように思われる。流行に乗って、今や若者のファッションや身のこなしは、さながらタレントのようである。また、好きなものを食べ、好きなファッションに身を包んでいる様は、まるで毎日がお祭りのようでもある。

 毎日お祭り気分でいるために、本来なら家庭ですべき事がどんどん社会化(社会に任せる)されて、家庭は存在感と求心力を失っている。言い換えれば、“生活のお祭り化”のせいで家庭が顧みられなくなっている。

 休みともなれば、繁華街をほっつき歩かなければ時間を過ごせない者が増えているのではなかろうか。絶えず刺激を求める生活には限界がある。なぜなら、刺激はより強いものを求めたくなるからである。

 日常生活で実現できないことを仮想の世界で体験すべく、多くの者がインターネットのオンラインゲームにはまり、膨大な時間を費やしている。デジタル放送が始まり、テレビが多チャンネル化し、携帯電話がゲーム機器化し、人はバタリー鶏舎のにわとりのごとく与えられたえさ、つまり与えられた番組を鵜呑みにするだけになる。考える時間もないまま、時を過ごすことになる。番組内容も、より暴力的に、より刺激的に、より性的になっていくだろう。

地に足をつけて生きたい
   しかし、毎日お祭り気分でいられるはずがない。どこかでひずみが出てくるであろう。地に足をつけて生きていきたいものである。

 祭りの後の虚脱感は、年に一度の祭りに全力で取り組んだ者だけが味わう充実感と寂しさが複雑に絡み合った感情であ里、明日へのエネルギー源となるであろう。

 しかしながら、毎日が祭りとなると毎日が虚しくなりはしないか。一人でいるときに、孤独感を持つことはないのか?昔なかった「無縁社会」という言葉も、生まれるはずである。

 少なくとも私は、ここは一つ、己の生活するスピード以上を求めず、地に足をつけて、“時には一人”で、“時には仲間”と心豊かに生きていける何かを見つけたいものである。本気で取り組む祭りは年に一度だけでいい。

(日記:終日、事務所とする山児童館の整理整頓)

 
 

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