絵物語にしなければ
数年前、せいぜい10枚ぐらいの絵を描けば、紙芝居ができるあろうと思っていた時期があった。しかし、いざ話を考えてみると、それでは平泉寺の素晴らしさが全く伝わらない。そこで、絵の枚数を30枚ほどに増やした。
しかし、それでも平泉寺のすばらしさは、十分伝えられない。それほど、平泉寺物語の話は中身が濃いのだ。今回、紙芝居を制作するに当たって、絵を増やして、全部で43枚にした。そして、ようやく最後の絵を描くことができた。
しかし、最後の部分は相当省略して話を書いた。いつの日か、『泰澄和尚伝記』も含めて、絵物語を描いてみたいと思う気になった。絵をたくさん入れて文字数を制限されずに自由に描いてみたい。
今日は、朝から午後6時まで、もっぱら絵を描きまくったが、たった2枚にしか描くことができなかった。一枚は、越前馬場側の牛首・風嵐村と加賀馬場側の尾添村の争いから、福井藩と加賀藩の対立に至る部分の絵と、最終部分の絵だ。
白峰など「白山麓16ケ村」が福井藩に属していたこと、それが幕府に取り上げられて「天領」となり、その後、石川県になってしまったことは興味深かった。それと同時に、平泉寺が、徳川幕府に保護されていたことも、同様に興味深い話だ。
しかし、明治政府の神仏分離令によって平泉寺は、寺領の全てを取り上げられてしまったのだ。その背景には、明治政府が、江戸幕府と密接に結びつき、政治に大きな力を及ぼしてきた仏教の各宗団を排除し、日本古来の神道を重視する政策を強力に押し進めたからである。
こうした幾多の歴史を秘め、最盛期には、四十八社・三十六堂・六千坊といわれる栄華を誇った平泉寺境内の多くは今も静かに地中に埋もれているのだ。
(日記:紙芝居の絵を描く。ようやく、最後の絵を描くことができた。途中で、春江町中庄地区の新民謡『中庄小三郎音頭』の女性用カラオケCDを作った。男性用は、キーが少し高いからだ。春江からSさんがわざわざ勝山までカラオケを取りに来た。家内は、終日、入院している孫の付き添いに出かけて一人だった。畑を見るとかなり雑草が増えてきた。しかし、家庭菜園のおかげで好物のエンドウが毎日食べられるのがうれしい。キュウリも毎日とれる。これからが野菜の本番だ。)