アメリカまで最短一週間
通信のスピードは私の生きている間にずいぶん進歩した。若い頃は、アメリカまでは航空便で最短でも一週間はかかった。返事をもらおうとすれば更に一週間だ。
今なら、秒単位で出来る。それも文字だけではなく、写真でも音声でも、動画でも何でも送れるのだ。通信者発達は、驚くべき速さで進歩した。
ただし、それは通信の速さであって、ハートとなるとまた別問題である。一言一言考えながら書いた手紙と、LINEで送ったメールが同じ働きをするとは限らない。
書かれた文字の息づかい
村の総会の会議録が保管されているが、和紙に毛筆で書かれた記録は今でも息づかいを感じさせる。あまりの達筆に時には読めない部分もあるが、それでも書いた人の息づかいまでが考えられる。
ところが、最近それらがパソコンで書かれるようになった。なんとなく、信頼性と共に、誰が書いても変わり映えのしない明朝体の活字に人の息吹は感じない。従って、書かれたことの重みもない。
手書きが当たり前だった頃
学校勤務時代、会議の資料、連絡のための書類、試験問題などを作るのは大変だった。ガリ版が主流だったのだ。ヤスリ版の上に蝋原紙を置き、鉄筆でガリガリと書いていくのだ。
もろに書き手の字の上手さや癖などが出るのだ。中には上手い人がいて、まるで活字のようだと、感心したものだ。一方、印刷屋はどうかというと、活字を一字一字広い箱の中に納めて、文章にするのだ。
校正でもしようものなら大変だった。箱の中の活字を一字一字順送りするなどして、並べ直さなければならないのだ。印刷を終えた活字は1つずつ、元の場所へ戻さなければならないのだ。新米をここから仕事を覚えるのだ。
AIが席巻する時代到来か
どうも今のままでデジタル時代が進むと、最後はAIが全てを取り仕切る時代になるのではなかろうか。そんな予感がする。将棋の世界では、プロ棋士でもAIによる研究が欠かせないようだ。逆に言えば、百戦錬磨のベテランよりも、AIで鍛えた若手の方が勝負に向いているような気がしないでもない。今後はどうなるあろうか。
病気の診断、天気予報、天災の予知はもちろんのこと、創作活動に於いてもAIが活躍する時代にあるような予感がする。かつては、ベルトコンベヤーに人間が合わせていたように、今後は、AIの指示によって人間が動く時代になるのではと考えられなくもない。
数万、数億の人間の知恵を集めて学習したAIが席巻する時代とは、人間にとってどのようなものだろうか。希望が持てそうで持てないような不気味な時代にならなければよいがついつい思ってしまう。