神明神社で横綱の土俵入り
最近、相撲人気が高まってきているように思う。久々に日本人の大関・琴奨菊が幕内優勝を飾り、おまけに可愛い奥様もマスコミに登場して話題に欠かないようだ。
思えば、私たちの子供時代には、たびたび巡業で大相撲の一行が勝山の神明神社へやってきたものだ。当時は、一門別に行動していたように思う。
私の子供時代は、横綱では千代の山、栃錦、鏡里、羽黒山、東富士、吉葉山等が活躍した時代だ。他にも、個性のある力士がいて子供達には人気があったものだ。
千代の山は、奥様が勝山(遅羽)にゆかりのある人だったので、特に勝山へはよく来たように思う。ちなみに千代の山は出羽一門であった。
得意技は、突っ張りで「45日」(一月半)とも言われたものだ。写真でも、わかるように、大相撲の一行が来ると神明神社の境内は超満員であった。また、神社の周囲をちょんまげ姿のお相撲さんが歩く姿も子供ながらに興味のあるものだった。
しばらくして、一学年上のMさんが大相撲の「出羽の海部屋」へ入門し、確か幕下まで進んだように思う。また、優勝もしたように思う。
この千代の山から北の富士、千代の富士、北勝海などへとつながっていったのであるが、特に、自身の出身地である北海道から千代の富士をスカウトしたのは有名な話である。
しかし、千代の山は横綱にはなったが、出羽の海部屋の後継者にはなれなかった。そこで、独立を申し出て、弟子を連れて部屋を出ることになった。
弟子もろとも一門から破門されるかたちとなったため、髙砂一門へ移籍することになったのだ。独立当初は部屋経営に苦しんだようである。千代の山は、千代の富士の横綱昇進を見ることなくなくなった。
勝山市遅羽町のIさん宅には、千代の山の本物の「横綱」が保管されている。先日、遅羽公民館でこの「横綱」を見かけたが、懐かしい思いがこみ上げてきた。私は、千代の山の大ファンだった。
(写真は「朝日印刷」提供)