自分の進む道
車で走るには、車が通れるだけの幅と車が走れるだけの整備がなされていなければならない。そこで、私たちは、地図などを見てどの道を通れば自分の目的地へ行けばよいのかを考える。
地図で道路を確認しても、実際に走ってみると間違うこともある。家族5人で11日間の車での北海道旅行をしたときには、家内が助手席で人間ナビをつとめてくれた。
地図を見ながら、「次の道を右へ回る」などと教えてくれたおかげで、何とか目的地を回ることができた。今なら、目的地さえはっきりしていれば、ナビでどこへでも思いのままに行くことができる。
ただし、ナビにどこへ行ったらよいでしょうかと聞くことはできない。当たり前のことだ。目的さえはっきりしていれば、今の時代、どこへでも行けるのだ。
ところが人生の進路となるとどうなるだろうか。目的もはっきりしないし、道もあるのかどうかはっきりしない。そんな中で、学生達は学校を卒業した後の道(進路)を決めなければならない。
道(進路)のはっきりしない者は、何十社も就職試験を受けることになる。どこへ行くかはっきりしないまま、目の前の道を進むようなものだ。道があるから歩くので、どこへ行くのかは歩きながら考えることになる。
目的がはっきりしていても、道を捜すのは容易ではない。政治家になるという場合、どんな道を選んだらよいのだろうか。既存の国会議員の多くは、親の歩いた道を歩くことが多い。それは、旅の道具である、地盤、看板、鞄の三つが揃っているからだ。
全く、政治に無縁の者が政治家を目指すには、どこかの組織を捜し、その縁で政治家を目指すことになるだろう。小説家になるとすると、こうすればよいという確たる道はないように思う。
全くの原野のような所を這い回って自分で歩ける道を作るしかないのだろうか。直木賞でも、20代の者が取ることもあれば60歳過ぎの者が取ることもある。それまでの人生、いろんな道を歩いてきたのだろう。
退職してからの、道を捜すのは楽しい。子どもたちは、それなりに自立しているので、自分や夫婦のことを考えながら道を捜せばよいからだ。今、私は行きたいところが多くて、観光旅行前のような状況だ。
(日記 午前中は、和太鼓の曲作り。あと一息だ。午後は、『おじさんバンド』の練習。私の事務所へ、福井、春江、三国、石川県などからメンバーが集まってきてバンド練習。みんな音楽と集まりが好きなようだ。)