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昭和の思い出

15 6月

「村に一台の電話」時代
  初七日のお逮夜が料理屋で行われ、一同が食事を共にすることになった。その中には、70歳代の者が何人か含まれていた。戦後の貧しい時代を過ごした経験者だ。同じ地区の者ではないが、共通部分は多かった。

  そんな中で、電話の話が出た。その頃は、村の道場に1台の電話があるのみだった。こちらから電話をかける場合は道場へ出かけてかければよいが遠方からかかってきたときが問題だった。

 私の横の席にその1台の電話があった道場のMさんがおられた。Mさんによれば、冬の電話は本当に大変だったという。風呂に入り寝床へ入ったとたんに、電話がかかり出てみると「Fさん(Mさん宅から最も遠い)に電話したいんですけど……」とのこと。

 長靴を履き、暗い夜道を歩いてFさん宅まで出かけ電話があったことを知らせ、自宅へ戻ると身体はすっかり冷え切っていたという。それでも相手がいればよい方で、いない場合には何度でも足を運ばなければならなかったという。

 電話がかかったことを隣へ知らせるだけでも大変だったのに、いつどこへ電話がかかってくるか分からず、遠い場合などはとても苦労したという。そのうちに、有線電話が普及し、黒電話の時代になり、今や携帯電話の時代になってしまった。

  こんな苦労を知っている人は少ないだろう。村中に一台の電話しかなかった時代があったなんて、今の若い者は信じられないかもしれない。しかし、それが当たり前だと思って暮らしていたのだ。

 電話にしろ、自動車にしろ、テレビにしろ、急激に発達していった。そんな昭和な急激な変化を私たちは、体験して大きくなってきた。この先も、このように大きな変化が続いていくのだろうか。

私たちの『かっちゃま児童文学会』の例会で作品の批評をして下さった児童文学者の藤井則行先生。

(日記 午前中Y家の葬儀。そして、食事。午後2時過ぎから、『かっちゃま児童文学界』の例会に出席。講師の藤井先生を交えてこれまで各個人が先生に送っておいた童話の批評をしていただいた。有意義な会だった。午後6時から7日と49日のお逮夜。Y家でお参りし、場所を変えて料理屋で食事。忙しい一日だった。)

 
 

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