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卵かけご飯

13 6月

一個の卵で
  私の子供の頃は、卵は貴重品であった。病気見舞いの定番と言えば、卵だった。まんじゅう箱に籾殻を入れ、その中に鶏の卵を十個余り入れて持って行ったものだ。

  従って、家庭でも、卵は貴重品だった。我が家でも鶏を飼っていた時期があった。数羽の鶏が一日に2~3この卵を産んでいたように思う。雌が卵を産むと、雄鳥はさも自分が卵を生んだかのように「コココ、コケッコッコ-」と鳴いたものだ。

  この卵で、朝、父親が大きな皿に卵一個を入れて醤油をかけ、「卵かけご飯」を作るのだ。その一部のご飯を私たち家族がもらい、それにご飯をつぎ足して醤油をかけるのだ。この時点で卵はごくわずかしかご飯に含まれていない。

 「卵かけご飯」と言うよりも、「醤油ご飯」と言った方が当たっていたかもしれない。それでも当時は、「卵かけご飯」を食べているつもりだった。贅沢のできない時代だった。肉などは年に2度しか食べることができなかった。

  そんな思い出があるので、今でも、「卵かけご飯」が好きだ。ご飯の量が少ないときには、黄身だけをかけることもある。その当時の鶏は、普段は鶏小屋にいるが、時々庭を我が物顔で飛び回って餌を食べていたものだ。

昭和時代の鶏たち。田んぼで落ち穂や虫を自由に食べていた。

  ところが、その後、養鶏が盛んになり一匹ずつを小さな籠に入れたバタリー鶏舎が盛んになった。この時点で、鶏は卵を産む機械になってしまったように思う。くちばしも、卵を痛めないように先端を切り取られ、配合飼料を食べて卵を産むだけの存在になってしまった。

  気の毒な存在だ。その上、鳥インフルエンザが流行した頃には、何万羽、何十万羽と埋められることになってしまった。同じ地上の生き物でありながら、あまりにも乱暴な扱いだ。この頃は、鶏の姿を見ることがないが、卵の恩恵は計り知れない。

(日記 朝起きるなり、鹿谷の銭太鼓グループのためにCDを作ることになった。プロのレコードがあるのだが、私の作ったカラオケが銭太鼓には適しているということだった。まさか、敬老会にカラオケでバチを振るわけにもいかないだろうということで、歌を入れることにした。午前6時過ぎから午前10時過ぎまでかかって家内の歌の入ったCDを作り上げた。そこで、CDを持参して鹿谷公民館へ行き、銭太鼓の最終練習に付き合った。途中で、民謡も教えてあげることになった。帰宅してからは、『かたせ瓦版』の仕上げ作業。できあがった瓦版と市の広報を持って班長に配布。ようやく忙しさから解放された。その後、家庭菜園でのんびり作業。第2第4木曜日の午後は、一番ほっとする時間だ。)

 
 

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