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大師山

30 4月

片瀬の守り神
  我が集落片瀬の背後には大師山がある。私達の世代は、何かとこの山に関わってきた。子ども時代には、主に薪を運ぶためにこの山を上り下りした。我が家では、田んぼはあるが、山はないので、子ども時代には村の山で薪を取らねばならなかった。

大師山山頂から村岡山方面を望む。

  村の共有林は、大師山の裏側にあるので、薪を運ぶのは子どもにとっては大仕事であった。両親が作った薪の束を大師山から家へ運ぶのだ。夏休みの暑い日でも毎日一度は薪を運ぶのが日課であった。

  片瀬に住む子どもは誰でもこの薪運びが仕事であった。「働くもの食うべからず」が子ども時代から身体に染みついていた。今の子ども達はどうであろうか。

  山仕事が容易にできるようにと、毎年「山道作り」と称して、道の両端の草や木の枝を刈り払い、場所によっては、道路が川にならないように水抜きを作るのだ。

  私はこの仕事に、高校時代からずっと参加している。昔は、この他にも、年に数回村の山の下草刈りがあったが、これは負担が大きいので今は県の方にやってもらっている。

  大師山は、我が村の生活を支える大切な山だったのだ。しかし、近年は、プロパンガスの普及で薪を取ることがなくなった。最近はそのガスさえ使わない家庭が増えている。また、かつては、馬のえさや田んぼの肥料のために草を刈ったがそのような必要もなくなった。

大師山山頂から大野方面を望む。昨年地主の了解を得て、樹木を伐採したので初めて大野方面が眺めれるようになった。大師山たいまつ登山の日は、例年大野市の花火大会の日でもある。きっとよく見えるだろう。

  それでも、山道作りが続いている。おそらく、今の若い者達は、何のために山道作りをするのか、その必要性さえ分からないだろう。また、一方では、我が村も高齢化が進み、登山道と林道の二回の「道作り(草刈りや水抜き作り)」は家庭によっては実施が困難になりつつある。

  これまでやっていたからということで、訳も分からず昔と同じように山道作りを続けているが、その範囲を調べてみると、ここ50年間、勝山市の山の際の「道作り」まで引き受けているのだ。

  市の関係者と話し合い、せめて「道作り」は自分の村の山の際だけにしてもらいたいと思っている。今市に申し入れてある。村の歴史も知らず、村の山の位置も知らず、ただ先人がやって来たからといって少子高齢化の進む今、そうしたことを見直すことなくやっているのでは、若い者に受け入れられないだろう。これからは、やるべきことはきちっとやっていきたいと思っている。

  午後、大師山の状況を見るために軽トラックで家内と一緒に山頂まで出かけた。山は新緑が始まろうとしていた。しかし、心配なことは、松の木をはじめたくさんの樹木が枯れていることだ。今年も、枯れた木が林道をふさいでいた。

 

頂上へ行く途中の山道の脇で採った「わらび」。春の恵みだ。

 まだまだたくさんの木が枯れて通行の妨げになるだろう。通行人の事故につながらないように、気を配らなければならない。生活の山、大師山を区民でこれからも見守っていかなければならないと思う。

(日記 午前中、紙芝居の絵を2枚書いた。ようやく半分が過ぎた。5月の10日頃までには描き終えたい。そして、初めての上演である5月の16日の野向保育園の園児や総父母の前でしっかりと演じたい。午後は、大師山の検分。ゲートの状況、道路の状況、崖崩れなどの状況、そして、頂上の様子を調べに出かけた。途中で、山菜採りの人二組と登山の人に出会った。私も、途中で、少しだけ“わらび”を採った。帰宅してからも紙芝居の絵を1枚描いた。)

今日描いた紙芝居の一場面。早く完成させたい。

 
 

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