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お金と夢と生き甲斐と

19 4月

金は弥陀ほど光るか?!
   お金のありがたみを感ずることは少なくない。しかし、お金は必要条件であっても、十分条件ではない。某会社の社長のように子供の頃から何不自由なく育ち、金もたくさんあった。

  しかし、その金をうまく使えず(他から見れば)、億単位で賭博に使い、首が回らなくなってしまった。もっと少ない金でも使いようによっては、夢のあることに使えただろうに。

  それなら、金がなければ不幸か?そうでもないと思う。もちろん“お金がない”にも程度はあるが。飯も食べられないようでは困るが、車を持てなくても、ブランド品を着れなくても、ごちそうを食べられなくても、それだけでは不幸にはならない。

  発展途上国の子ども達が、素足での山を駆け巡り、川で泳いだり、粗末なものを使っておもちゃを作ったりしている姿は、決して不幸には見えない。それよりも、放課後はろくに遊ぶ時間もなく、習い事や塾へ通う子ども達が幸福であるようにも思えない。

  果たしてどちらの方が生き生きしているだろうか。どちらの子どもの方が夢を持っているだろうか。どちらの子どもの方が兄弟や親と仲良くしているだろうか。

   エネルギーに限度があるように、経済発展にも限度があるように思う。かつての日本は貧しかった。日本人の作るものにろくなものがなかった。メイド・イン・ジャパンは粗悪品の代名詞だった。

  時計や精密機械は、スイス製が幅をきかせていた。日本人は貧しく、食べることで精一杯であった。アメリカやヨーロッパは物質的にも恵まれていた。しかし、一生懸命働き、立派な製品を作れるようになると、日本の立場はどんどん上がった。

  日本製品は、それだけでブランドとしての価値があった。車もカメラもテレビもビデオも世界に誇れる品物になっていった。ところが、韓国や台湾の製品はかつての日本のように、あまりよくなかった。

  韓国の車やテレビがどんどんよくなっていった頃、まだ中国の製品はよくなかった。しかし、それもどんどんよくなってきている。こうして発展途上国がどんどん力を付けている。インド、ベトナム……、と続き、そのうちにアフリカも発展していくだろう。

  ところが、今の日本はこうした国々の発展とは逆に衰退しつつある。国民の生活も二極化しつつある。戦後の日本にあった“貧困”という言葉が発展と共に消えていったが、今また、“貧困”という言葉が復活しつつある。

  経済発展にも限りがあるのだ。そろそろ豊かさの尺度を“人間らしさ”や“幸福度”に変えなければならない時代ではないのか。たとえ、物質的に恵まれていなくても、幸せは変わらないと思う。

公民館での二つの会の総会に出席。まちづくり等について協議する。(右端が私)

(日記 午前中、区長としての事務処理のために、奥越合同庁舎の県税事務所、税務署、司法書士の所へ出向いた。午後1時より市の区長会理事会に出席。その後、明日の準備のために大野市の研修センターへ行く。午後7時より、社会福祉協議会の総会、フレッシュ猪野瀬フォーラムの総会、そして区長会に出席。猪野瀬のまちづくりなどについて協議する。)

 
 

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